蝉の声
ミーン、ミーン 暑さと苛立ちを助長するかのように八月の蝉がせわしなく鳴く。
額に浮かんだ汗は目や口の中にも入り込み最早不快という域を通り越して美紀の力を奪い取った。
もう夕方に近いのに気温は涼しくなるどころかさらに熱を増しているきがする。熱中症に注意と、確か朝のニュースで言っていた。「夏休みに入っても部活なの?」ニュースの合間に問いかけてきた不機嫌な母の声がする。その声は激しく鳴いている蝉にそっくりだった。
この田舎町で駅と線路は一つしかなく、家に帰る電車は一時間に一本しかやってこない。
電車が来るまであと30分。美紀のようにこの駅で電車を待っている人は一人もいない。みんな電車の時間を知っているから。美紀だって電車が来る時間を知っていた。でも他の子と同じように学校で時間を潰す事がどうしても嫌だった。
「あの子がほしい、あの子じゃわからん、この子がほしい、この子じゃわからん、相談しよう、そうしよう」あの歌の残酷な歌詞に小さい頃は気がつかなかった。もともとは人身売買の歌らしい。しかしまた、遊びの上でもあの歌は残酷だった。いつも欲しがられる子は一緒で、残る子もまた一緒だった。美紀が気がつかなかったのはあの子がほしいと、いつも一番最初に言われる立場だったからだ。親は地元の有力者、背が高く頭もよく運動神経もよかった美紀は常に女友達や男友達に囲まれて一人になった事はない。あの子がほしいといわれなかった子がどんな気持ちなのか考えた事もなかった。
高校に入り初めて恋をした。初恋と呼べるものだったのかもしれない。明るく、優しく、面白く、みんなから好かれていたまるでアイドルの様な良平。高校に入って数ヶ月で、かなりの人数の女の子が彼に告白して玉砕した。私は違うというプライドがあった。自信があった。肩を組んで一緒に帰り、休みの日は二人で買い物にも行った。誰よりも近くで笑いあった。なぜそれを男と女のそれと勘違いしたのだろう。今ならわかる。あれは男同士のそれだった。
誰よりも近かったから、良平が彼女に恋をして自分から少しずつ距離をあけていくのを近くで見ていた。まるで首を絞められているかの様な息苦しさで。
彼女はあの子がほしいとみんなに言われる女の子じゃなかった。大人しく友達もいない。今時スカートは膝丈で髪もきちんと三つ編みにしていた。今時から取り残されると、友達からも取り残される。彼女はいつも一人だった。
美紀は6月頃から週に何回か、朝の早い時間に学校へ行くようになった。良平が早い時間に登校している事を知ったからだ。その時になってはじめて、彼女の登校も早い事を知った。美紀とはまったく違う理由で彼女の朝は早かった。彼女は誰もいない教室を一人で掃除し、花壇に水をやり、黒板をきれいに拭いていた。声はかけなかったけど好ましく思った。それなのに。
良平の瞳に彼女がいるのを見た時、美紀は美紀ではなくなった。(あんたなんて友達もいないくせに、みんなに好かれてもいないくせに、死ね、いなくなれ、消えろ)頭の中は恐ろしい言葉であふれて、そして気がついた。美紀は良平からあの子がほしいといわれなかった事に。良平がほしかったのは、美紀じゃなく、みんなじゃなく、あの子ただ一人だった。
良平の恋は真剣だった。もう勝てない事をみんなも薄々気がついていた。
ほどなくして、あの子の瞳にも良平が映るようになった。それと同時に彼女は酷いいじめにあうようになっていった。もう勝てない彼女に対していなくなれ、消えろと思う気持ちは響き渡るように大きく残酷に広まった。彼女の靴は毎日なくなり、体操着はゴミ箱に、教科書には落書き。笑っちゃうようなありふれた典型的ないじめ。彼女はみんなが望んだように泣かなかった。堂々とスリッパで帰り、体操着を広い、教科書は持ち帰るようになった。わたしはそのいじめに決して参加しなかった。けれど心の中で笑っていた。ザマーミロ、消えろ、いなくなれ、死ね。ずっとそう思っていた。参加しなかったのは良平がいたからだ。良平にばれたら失望され、今後の希望もなくなる。美紀はまだ希望をもっていたし、良平の一番近くにいるのは自分だと疑っていなかった。良平は、いじめに気がついて怒っていたし「美紀は他の女みたいにそんな事はしない」と常に言っていた。だから、良平の前では彼女を助けるような素振りさえみせた。「大丈夫?」「私の体操着貸そうか?」「今日一緒に帰ろう」「教科書見せてあげる」
彼女は嬉しそうに美紀に笑いかけるようになっていった。
ある日、彼女と良平と三人で買い物へ行った。「一緒にお揃いの何かを買おう?」美紀から声をかけてお揃いのクマのストラップを買った。嬉しそうに鞄にそれをつける彼女をみて、心の声がせわしなく鳴りだす。消えろ、消えろ。そしてみんなの声もせわしなく木霊する。消えろ、うざい、死ね。蝉のようにせわしなく。その声が聞こえていないはずはなかったのに彼女は負けなかった。良平と美紀がいれば強くなれるよとずっと笑っていた。
彼女と良平がそっと手を繋いでいるのを見た時、美紀の感情は爆発し、声に出さなかった言葉を小さなメモ帳に書き綴った。彼女をかばい、笑いしゃべるほどに、心の蝉は成長し忙しなく鳴きだす。そのたびに蝉の声をメモ帳に書き綴った。メモ帳は美紀のお守りだった。
そのメモ帳を落としたのは夏休み前の終業式前日だった。終業式前日、日直だった美紀は、先生に頼まれ事をして遅い帰宅になった。落とした事を知り焦り慌てたが、名前もないメモ帳が誰かに拾われたところで、彼女をいじめていた人間は数えきれないぐらいいたし、それがわたしのメモ帳だとわかる人間がいるはずもない。他の人間の前でそのメモ帳を出した事すらない。それでも終業式の日の朝はいつもよりかなりはやく家を出た。誰一人いない校内を素早くみてまわり教室まで来てから、自分の机にあるメモ帳をみつけた。冷汗が流れる。(このメモ帳がわたしのものだと気がついた人間がいる。)今朝美紀が登校した時校内に人はいなかった。だとすると、美紀が帰った後に誰かが拾い、それが美紀の物だと気がついた人間。冷汗がとめどなく流れ、良平にだけは知られたくない、そればかり浮かんでは消えた。
うわの空のまま終業式を終えて、誰ともしゃべらず家に帰りついた。夜、布団に入るまで携帯にふれもしなかった。ふっと目に入れた携帯には何十件もの着信とLINEで埋め尽くされていた。
彼女は消えた。いなくなった。心臓が痛む、激しく大きく動きだした心臓が。
彼女は一時間に一本のあの電車に飛び込んだ。あの日は部活もなく、ちょうど今の時間帯人の気配すらなかったはず。蝉の声が鳴り響くあの暑い日に、彼女は死んだ。みんなの願い通り、消えていなくなった。
みんなの願い通りのはずなのにお葬式では誰も笑っていなかった。罪悪感と恐怖を張り付けた顔でみんなお焼香をした。良平の顔は怖くて見ることができなかった。遺書もなく、いじめの事を親に言ってもいなかった。熱中症でふらついた彼女が線路に倒れこんだ上の事故と処理された。
美紀はあれから眠れていない。なんでもないふりを続けながら恐怖と戦っている。良平からの電話には出ていない。
胸の中の蝉が鳴く。彼女はひょっとして、その疑惑が胸の中で鳴り響く。疑惑は確信に近い。彼女はあのメモが美紀のものだと知っていた。前からわかっていたのか、拾った時に気がついたのかはわからない。けれどもあのメモ帳を美紀の机に置いたのは間違いなく彼女だった。
彼女を殺したのは美紀だった。
暑い、燃えるようだ。頭の中から蝉の声がする。ミーン ミーン
線路が近い。ふと線路の脇の溝に茶色いものが見えた。
彼女とお揃いで買ったあのクマだった。
ミーン ミーン カンカンカンカン ミーン ミーン カンカンカンカン
電車が見える。汗にまみれた目の中に彼女も見える。
彼女は笑顔で美紀を指さしていた。
蝉の声がさらに激しく鳴り響く。
近づいてくる電車へ足が勝手に突き進む。
最後に聞こえた音は グシャという蝉の潰れた音だった。