ある日の嫁との会話
「ただいま」
帰宅すると、テーブルの上に出版社から送られてきた封書が置かれてあった。時期柄それは、先日嫁には内緒で応募したとある小説の新人賞の、その評価シートであることは明白であった。そして、既にWeb上で受賞者の発表を確認している以上、その結果についても……
「そんな小説書いている暇なんかあったら、もっと金になる仕事しなさい」
嫁はそう言って、私を詰問するに違いない。だから私は、あたかもそれに気づかぬふりをして嫁との会話を続ける。
「いやぁ~、今日も暑くって……」
「お疲れ様。シャワー浴びてくる?」
表面的には普段通りの何気ない返辞である。嫁はその封書の中身に気づいているのであろうか。横目でちらりと確認した表書きには「M○文庫J新人賞評価シート在中」とある。よもや、気づかぬ訳もあるまい。何しろ、嫁こそはそのレーベルの重症読者なのだから。
汗で重たくなったワイシャツを脱ぎながら風呂場へ向かう私の背後を、嫁の声が襲う。
「で、出したの?」
主格も目的格も対格も含まれない、接続詞と述語からだけ構成されたシンプルな日本語。まさかこの一文の目的格が<ワイシャツ>であることは、この世の森羅万象を司る物理法則の全てが異世界のそれと入れ替わったとしても、到底あり得ないことである。
「あぁ、まぁ、時間のある時に……」
くぐもった声音で曖昧な返答をしつつ恐る恐る振り向くと、そこにはニヤニヤと笑う嫁の顔があった。
「で、何で○Fなの?」
聞くのはそこか?と訝りながら、しどろもどろに説明をする。
「いや、それは……ネットで検索したら、丁度MF○○があって……」
無論、他にも理由はあるのだが、今それを言うのが適当なのか。もう少し嫁の反応を確認してから適切な返答をすべきであろう。所謂「後の先」という奴である。尤も、この1週間、嫁より早く郵便受を確認するという任務につきながら MISSION FAILED となっていた時点で既に「後の祭」なのではあるが……
「ふぅ~ん……」
納得の行かない口調で嫁は続ける。
「で、どんな内容を送ったの?」
ここは正直に告白すべきところであろう。手短に、私の書いた小説のジャンルを告げることにする。
「いわゆる、歴史小説って奴?まぁ、端からカテゴリーエラーなのは分かってるんだけど。異世界もチートもハーレムも出てこない、普通の歴史小説だから……」
最後のは、落選の言い訳なのか照れ隠しなのか、恐らく、それ以外にもいくつかの成分が微量づつ混合された、それは苦いカクテルのようなものだったに違いない。尤も、カクテルと決定的に異なるのは、私にはその台詞で酔うことができないところであろう。
「それなら、電○とかにすればよかったのに...」
嫁は唐突に他レーベルの名前を挙げる。だってM○ではそういうの、無理だと思うよ。責めるでもなく、慰めるでもなく、諦めさせるでもなく……まさか、そういう建設的な言葉が嫁の口から出てくるとは……
「おぅ、じゃぁ、おんなじの○撃に送ってみるわ。書き直さなくていいし」
「うん、そうしな。きっと貴方は文章を書くのが好きなのよ」
最後の一言の真意を確認する勇気は、流石に私も持ち合わせていなかった。電○に送って駄目なら諦めろ、という意味なのか。あるいは、新作を書いてみろ、の意なのか。
とりあえず、嫁に内緒で小説を書いていたことを怒られることはなかった。今はそれでよしとしよう。目下最大の悩みはひとつ。次作を書く時は嫁に相談すべきか否か。それが問題である。