92.聖女、お好み焼きを堪能する
労働の後の食事は最高だ。
この当たり前の事実を、エミリアは噛み締めていた。
スティックお好み焼きが売れていく中、我慢するしかなかったのである。
いくら美味しそうだと思っても、口に出来なかったのだ。
焦らされた分だけ、飢餓感は高まっていた。
「どっちも食べるだろ」
「ええ、もちろんそのつもりなのです」
クリストフの問いに決然と答えた。
ここまでお預けを食らったのだ。
豚玉も明太子じゃこも、どちらも食べる気満々である。
これは空っぽの胃袋に対する義務である。
右手に豚玉、左手に明太子じゃこを握る。
どちらからかと迷ったのは一瞬。
エミリアは右手を高々と挙げた。
「豚玉からいっきまーす! このお好み焼きソースの甘く濃い匂いが、私をどれだけ悩ませたかー!」
「じゃあ私は明太子じゃこからいきますね。いただきます、クリス様」
隣からモニカの声がした。
だが、今のエミリアには答える余裕が無い。
「はい、召し上がれ。あ、もうエミリアさんはかぶりついているのね」
クリストフの呆れたような声が聞こえた。
だが、それはひどく小さく響いた。
エミリアの全ての五感は、目の前のお好み焼きに注がれている。
他のことなどどうでもいい。
かぷり、まずは一口かじった。
表面は程よく香ばしく焼けている。
きちんと火が通り、生っぽさは全くない。
微かに甘いが、味そのものは薄い。
"それはそうですよねー。小麦粉自体には、ほとんど味はないですものー。ああ、中までしっかり火が通っていますー。うん、つなぎの山芋が効いていますねぇ。このとろみと、生地のもたつきを消す軽さがまた"
基本的には普通のお好み焼きと同じだ。
味付けには元々満足している。
生地の歯ざわりも風味も、エミリアの好みであった。
もう一口食べる。
濃厚なお好み焼きソースが舌に絡みつく。
甘めだが、それ以上にコクがある。
べったりとしない甘さだ。
微かな酸味と複雑さが、ソースの味に深みを与えていた。
"これ、市販品ってクリス様おっしゃってましたがっ……! これほどのソースが、普通に市中で流通しているのですかー。 恐るべし地球の技術っ!"
一瞬、エミリアは嫉妬した。
このような極上ソースが当たり前のように手に入る。
それは彼女の想像力を超えていた。
羨ましいと思った。
いや、今はそれは止めよう。
素直に堪能するべきだ。
思い直し、また一口食べてみる。
焼けた豚肉が歯に当たり、ぷちんと切れた。
脂がとろりと溶け、生地と絡む。
そのまま舌でたっぷりと味わった。
「くー、適度にジャンクでそれがまたっ。刻みキャベツとの相性も最高なのですっ」
「豚肉だからこそなんだろうなあ。そういや、牛や鶏は使わないな」
「あっ、お好み焼きって豚しか使っちゃいけないんですかー?」
「別に規則で決まってるわけじゃないと思うが。俺が知る限り、肉は豚しか聞いたことない。イカ玉とかもあるにはあるけどさ」
「へー、やっぱりこの適度なボリューム感ですかねー。豚って、牛ほどのまったり感ないですよね。その代わり、雑に扱っても美味しいのですよー。何かと混ぜたりするには、豚肉が一番だと思いますー」
そう言い切り、またエミリアは食に集中する。
お好み焼きは面白い。
最初に歯が入る。
表面の皮が弾けた時の香ばしさを感じる。
続いて、ソースがそこに絡む。
甘さ、そして僅かな酸っぱさが、口の中をさらりと流れた。
「ふぁ、これはまた」
呟きながら、唇の端を拭う。
ソースの汚れが気になるあたり、エミリアも確かに乙女である。
ただし、旺盛な食欲は普通の乙女のそれではないだけだ。
刻みキャベツを味わう。
火が通っているため、あくまでも柔らかな瑞々しさだ。
ふわっとした生地がそこに絡む。
多層構造的な美味が、次から次へと連鎖していった。
"恐るべし、スティックお好み焼きっ! しかも棒に挿しているから、食べやすいのですー!"
一通り食べ終えると、改めて感心する。
確かに右手一本で食べられる。
左手が使えなくても、これなら問題ない。
お祭りともなれば、大抵は荷物がある。
両手が塞がる事態は避けたいところだ。
このスティックお好み焼きは、その問題を完璧にクリアしていた。
「便利かつ美味しい、おまけに安価。これほど屋台に適した料理は無いのですよー」
一本食べ終え、エミリアは満足そうに微笑んだ。
どう見ても上品な料理ではないことも、むしろプラスだ。
屋台は庶民のものである。
格式張ったお上品な料理は、別の機会に食べればいい。
「これで負けたらおかしいのです。最高なのですっ」
満足げに呟いた時、エミリアはふと違和感を覚えた。
そう、最高なのだ。
このスティックお好み焼きには、全く欠点がない。
むしろそれがおかしい。
確かクリストフは問題点を挙げていた。
問題点、そうだ。
火の通りだ。
一本一本焼くならともかく、大量に作る。
その場合、形状的に内側――棒の周りに火が通りにくい。
"今食べた分には、全然そんな感じなかったのですよー。クリス様が工夫されたんでしょうかー? でもそれは一体、何なのですかー。全く分からなかったのですっ"
頭を捻って考えてみた。
何か焼き方に工夫があったのか。
いや、鉄板も火魔石もいつもと変わらなかった。
客も相当多かった。
一本一本丁寧に焼くなど、クリストフでも難しかったはずだ。
「その顔だと、生焼けじゃなかったみたいだね」
「え、はいー。ばっちり火は通ってましたよー。とっても美味しかったのですー」
クリストフと目を合わせながら、エミリアは首を傾げた。
その表情から察したのだろう。
クリストフは「不思議で仕方ないって感じだな」と言った。
ちょっと得意そうである。
「はいー。練習していた時は、絶対に生焼け部分が出るって言ってましたよねー。さっき食べた分がたまたま上手く出来たのかな? いえ、違いますよねー」
「そうだな、種明かしするか。ちょっとばかし頭を使ったのさ。ほら」
クリストフが差し出した物を見る。
金属製の細長い缶だ。
そこにスティックが何本か入っている。
「未使用のやつですねー」と呟きながら、エミリアはその缶に触れようとした。
だが、その指が寸前で止まる。
熱、それもかなりの高熱を感じたのだ。
「あ、もしかしてこの缶の中身は」
「大体想像どおりだ。熱した油が入ってる。その中に棒を入れておけば、自然と棒も熱くなるだろ。それを挿せばどうなる?」
「お好み焼きを内側から熱することが出来ますねー。ああ、そういうことですかぁ」
「そういうことだ。外側から焼けないなら、内側から焼けばいい。火加減の調節が難しい以上、この手しか無かった」
「ちょっとくらいなら、これで生地を焼けるってことですねー。あー、だからお客さんも満足していたんですかー」
そう、客からは全くその手の苦情は無かった。
これもクリストフの工夫のおかげだろう。
完璧な調理は無いかもしれない。
だが、可能な限りの準備は出来る。
それを誇るでもなく、クリストフは両手をひらひらと振った。
「おかげさまで手が熱かったけどな。油が伝わってきて、火傷寸前だ」
「えっ、治療しましょうか。回復呪文いけますけど」
「なんてな、冗談だよ。常人ならいざしらず、一応勇者の端くれだぜ? 熱への抵抗力くらいお手のもんだよ」
「ふおー、さすがなのですっ」
エミリアが心配するまでも無かったらしい。
高ランク冒険者なら、熱や冷気にある程度の抵抗力を備えている。
しかし、屋台の調理にその力を使うとは。
「何だか勇者様ならではって感じですねえ。恐ろしいのですー」
「使えるものは何でも使うさ。それより明太子じゃこ、食べなくていいのか」
「あ、もちろんそれも」
エミリアの声が止まった。
その緑色の目は、隣のモニカに釘付けである。
一心不乱に、モニカは自分のお好み焼きにかじりついていた。
その食べっぷりは、日頃の落ち着きとはかけ離れている。
「モ、モニカ? 大丈夫ですかぁ?」
「……大丈夫なわけないですよ、エミリア様」
手を止め、モニカが顔を上げた。
明太子の粒が唇の端に付いている。
だが、それを気に止める様子もない。
「これほどの美味が屋台の料理など、反則ですよっ!」