9.後片付けも大切なんだよ
二種類のバゲットサンドは、朝昼兼用の食事としては良かったと思う。
それは二人の顔を見れば明らかだ。
特にエミリアの顔ときたら、頬が緩みっぱなしになっている。
「はー、満足したのです。お腹が満たされると、人間幸せになりますねえ」
いつも幸せそうじゃないかと言いかけたが、そこはこらえた。
「そうだね」とだけ頷く。
隣でモニカも「そうですね」とだけ同意した。
「ですよねえ。なので更なる幸せのために、もう一回ベッドに入って昼寝という幸せを求めるのです」
「え」
「はぁ、何という休日の素晴らしさでしょうか。面倒なことは全部忘れてグータラ出来るなんて」
ひどい聖女もいたもんだな、おい。
俺は呆れて肩をすくめただけだ。
けれども、それだけでは済まない人もいたらしい。
そう、聖女様お付きのメイドのことさ。
「エミリア様」
冷ややかな声というのは、このような声を言うのだろう。
藍色の目にチリチリとした光を湛え、モニカ=サイフォンが腕組みをしている。
黒いメイド服が何故か戦装束に見えた……気のせいだよな。
「なーに、モニカ?」
「まさか昼前まで寝て、クリス様の手料理をいただいた後で更に惰眠をむさぼるなど、おっしゃらないですよね?」
「えっ、そ、それは、でもほら、今日はお休みなんですから。好きなように過ごす権利が」
「おっしゃらないですよね。ごろごろごろごろして、気がつけば夕方に。そしてまたクリス様の手料理をいただき、ぬくぬくと眠るなど。まさかおっしゃらないですよね」
いや、気のせいじゃなかったらしい。
結構な迫力を以て、モニカがエミリアに詰め寄る。
彼女の藍色の髪がざんとなびいた。
怖いな、おい。
「……えー、けど、ダラダラしたいのですよ。堕落は最高の娯楽であると、昔から言うではないですか。人生楽しく生きなきゃ損ですよ、モニカ!」
「何の手伝いもせずに惰眠をむさぼり、自らの価値をおとしめる人生が幸せと言うならば、ご勝手にです」
「うぐっ」
モニカの突き放したような言葉に、エミリアがよろける。
そこに容赦なく、モニカが追撃をかけた。
「更に言うならば、時間は二度と帰ってきませんよ。あの日、もっと役に立つ何かをしておけば良かったと思っても、もう遅いのです。エミリア様にきちんとした生活能力を持っていただきたいので、私はこうして敢えて厳しく申し上げます」
「正論だなあ」
これ以上無いほどの正論だ。
俺の呟きはともかく、エミリアもこれ以上抵抗する気は無いようだ。
かくんと項垂れると、その綺麗な栗色の長い髪が流れた。
「うん、分かりました。そうね、もう神殿住まいじゃないんだし、少しは動かないとですよね」
「お分かりいただけて何よりです。それでは手始めに、食後のお片付けをやりましょう。クリス様は適当にお休みしていてくださいね」
「それはありがたいけど、任せていいの?」
「はい、私とエミリア様でやりますからご心配なく」
「モニカさんがいるなら安心だな」
「えっ、どういうことですかー。まさか私だけだと不安だとでも!?」
エミリアが心外といった顔をする。
そんな驚くことか?
「不安以外の何があるのか教えてほしいよ。この一週間思い出してくれ。エミリアさんがやった家事なんて、自分の衣類畳むくらいだろ。掃除や洗濯はモニカさんがしてくれるから、俺もやらずに済んでたけれどな」
「え……まさかエミリア様、お料理はともかくお皿の片付けもやってないのですか?」
「ちょっと、モニカ引かないでくださいー! あの、確かにほとんどクリス様に任せっきりでしたけど、でもでも私だってやれば」
「やらない以前に、危なくて任せられないから問題なんだっつーの。別に生活指導係じゃないから、駄目なら駄目なままでいいけどさ。それ相応の扱いしか受けないってことくらいは分かるよな」
ちょっと冷たいかもしれないが、これくらい言ってもいいだろ。
温室育ちの聖女様でも、最低限のことは出来てもいいはずだ。
俺の言葉が堪えたのか、エミリアの顔が曇った。
彼女を慰めるように、モニカが肩を優しく叩く。
「エミリア様。何でも最初から出来る人はおりません。私と一緒にお片付けから始めましょう」
「そう、ね。それくらいはせめてやらないと、駄目よね!」
「じゃあ任せたからな、お二人さん」
もっと萎れるかと思ったけど、エミリアも少しは意識変わったかな。
モニカのフォローに期待して、俺は裏庭を後にした。
実際のところ、後片付けまで含めて料理だからな。
同居している以上、それくらいはお願いしてもいいだろうよ。
✝ ✝ ✝
「それでは私は失礼いたします。今日はご馳走さまでした、クリス様」
ペコリとモニカが頭を下げる。
気がつけばもう夕方だ。
「いや、大したもんじゃねえよ。またおいで」と俺は彼女を送り出す。
エミリアもそれに倣う。
「またねー、モニカ。今日はお片付けやお掃除ありがとうー」
「いえ、仕事ですからお構いなく。エミリア様も今日はよく手伝ってくれましたね」
「えへん。それはまあ、いつまでも甘えてはいられないですから」
胸張るほどのことかねえ。
けど、そんなエミリアを見て、モニカは少し嬉しそうだった。
お付きのメイドというよりは、妹を見守る姉のようだな。
「それは嬉しゅうございます。それではまた改めて」
モニカが去っていく。
その背中はピンと伸びており、彼女の周りだけ凛とした雰囲気が漂っていた。
「俺、彼女とちゃんと話したのは初めてかもな」
「モニカとですかー、そう言われてみればそうかもですねー」
「ゼリックさん立ち会いの下で、顔合わせはしたけどな。その時以来か」
バタバタと話が進んだから、仕方ないんだが。
ある意味、モニカもこの偽装婚約に巻き込まれているとも言える。
ほんのちょっと気の毒だ。
「ん、そう言えばクリス様はそうですねー。いい人なんですよね、モニカは」
「付き合い長いんだっけ?」
ソファに座りながら尋ねる。
エミリアはというと、向かいの長椅子にちょこんと腰掛けていた。
「私が神殿で暮らし始めてからは、ずっと一緒ですよ。んっと、五年間くらいですか。結構長いですよね」
「短くはないだろうね」
「含みのある言い方ですねえー。何かあるのですか?」
「あるけど、今はあんまり言いたくはないかな」
その時俺が考えていたことは、俺の抱えた九年という年月についてだ。
魔王を倒してから、既にそれだけの期間が経過している。
短いとはとても言えないだろうさ。
俺が口を閉じたからか、エミリアも何も言わない。
束の間、静かな時間が夕陽射す部屋に流れて消える。
それを破ったのは、エミリアの方だった。
「それにしても、今日のバゲットサンドは格別でしたねえー。やっぱりクリス様、お料理上手ですね。声をかけておいたのは、正解でした。きっと皆喜ぶのですよう」
「ん?」
引っかかるものがあった。
エミリアが首を傾げる。
「あれ、どうしたんですか。私、何か変なこと言いましたか?」
「声をかけたとか、皆喜ぶって何のことだ?」
「えっ、まさか忘れちゃったんですか? 神殿が主催する貧民街への炊き出しですよ。クリス様にも協力していただけるように、執行庁に申請書出しましたよー?」
思い出した。
今週忙しくて、つい忘れていたんだ。
炊き出しの内容改善の為に、わざわざ俺がご指名されたんだった。
「それ、いつだっけ」
「五日後ですよぅ、しっかりしてくださいー」
エミリアの返事に、俺は顔を引きつらせた。
やばいな、何にも考えてないぜ?
とりあえずこんな時は。
「明日考えるわ、じゃーな」
目の前の問題から目を逸らそう。
「ええっ、大丈夫なんですかっ」というエミリアの声も、今は聞かなかったことにさせてもらうさ。