86.場所の下見をしてみよう
俺の目の前には、だだっ広い鉄板が広がっている。
普段使うフライパンとは比較にならない。
大人が両手を広げれば、ちょうどこのくらいになるだろうか。
「屋台の鉄板ってこんなにでかいのか?」
「そうですよ。余裕たっぷり、どんとこい。お客さんが百人来ようが千人来ようが、問題ありません!」
「無理だって」
手配した部下を責める気にはならない。
聞いてみれば、この鉄板が標準サイズとのことだ。
他の屋台もこれを使うのだという。
だったら条件は同じ。
自分が慣れるだけの話だ。
試しに軽く持ち上げてみた。
うわ、結構重たいな。
「え、今、片手で持ち上げましたか!? すごいですね、クリス様!」
「ん? いや、割りと本気でやったけどな」
「普通は両手でやっても、なかなか持ち上がらないですって。いやあ、やっぱり勇者ってすごいんですね。びっくりしました」
「そうか。昔に比べたら、ちょっと落ちたけどな」
苦笑いしながら、鉄板を元に戻した。
第一線から退いて久しい。
ピークから比べれば、今の俺は大したことない。
そのくらいの自覚はある。
戦うことも滅多にないから、別にいいんだけど。
それより、屋台のことを考えなければ。
鉄板がこれだけ大きいと、ちゃんと焼けるか心配だ。
部下に質問してみるか。
「これ、やっぱり火魔石を熱源にするのか?」
「そうですね。最大で一気に十個使えます。もちろん、費用は執行庁で負担します」
「良かった。給与から天引きとか言われたら、辞退するところだったわ」
「そしてそのまま退職ですか。お世話になりました、クリス様」
「辞めさせたいのかよ!?」
いくら俺でも泣くぞ。
しかし、部下はあっさりとかわす。
「まさかー。こんな物分りがよい上司、辞められたら困りますよ。いつまでも働いていてください」
「いつまでってどれくらいを想定している?」
「そうですね。亡くなって遺骨になっても、スケルトン状態で働いていてほしいですね。お茶飲んだら、骨の隙間からジャーッてこぼれちゃうんです。そこまで働けば、勤勉手当出ますよ!」
「死者に鞭打って働かせるのか、この国は!?」
おかしい。
執行庁はこんなヤバい職場だったか?
定年を迎えても尚働けとか、この世の地獄そのものだな。
地球ではこういうのは確か、そう、ブラック企業と呼ぶんだっけ。
「嘘です、冗談ですよ。でも、出来ればクリス様には長くいてほしいですね。勇者だからとか、そういう理由は別にして」
「ありがとう、その言葉を信じるよ」
珍しく部下が、まともなことを言ってくれた。
珍しくというのが、そもそもおかしいんだが。
「いえ、当然ですよ。なので、今回の屋台対決も精一杯バックアップします! 他の庁なんかに負けないですよね」
「おう、期待していてくれ。やる以上は勝つつもりだ」
「特に軍務庁には負けないでください。他の庁はともかく、軍務庁にはっ」
「えらく力が入っているが、何かあったのか?」
「べ、別に何もありませんよっ。元彼が軍務庁に勤務していて……婚約までしていたのに……結局、私を裏切って職場結婚したなんてこともありませんから……ふふ、ふふふふ」
「すまん、余計なことを聞いた」
部下の目からハイライトが消える。
あ、これダメなやつだ。
俺の声も聞こえているか怪しいものだ。
「軍務庁、軍務庁だけは、ふふ、絶対許さないんです……あの人の勤め先なんか……」という呪詛の呟きが小さく響く。
怖っ、完全に闇落ちしてるっ。
うん、可哀想だが、俺が出来ることはあまりない。
そうだな、強いて言えばこれくらいかな。
「分かったよ。とにかく軍務庁に勝てばいいんだろ。それで君の気が晴れるなら、精一杯頑張るからさ」
「ほんとですか、クリス様ー! 私の中でクリス様の株が爆上げですよ! 好感度が振り切れそうなんですけど!」
「好感度が」
「好感度が! ええ、もう挙式はいつにしますかと聞きたいぐらいに!」
「あ、ああ、そう」
駄目だ、こいつ。
早く何とかしないと。
とりあえず放置しておくことにした。
「ああっ、無視しないでくださいっ」という声が聞こえたが、気にしない。
「火魔石あるか? ちゃんと使えるか確認したいんだが」
「はっ。分かりました、こちらです」
部下から十個の火魔石を受け取る。
麻袋に入っており、結構重い。
これを鉄板の下に並べ、全部点火する。
ゴッと一気に火が燃え上がった。
メラメラと音を立てて、真っ赤な炎が鉄板を炙る。
"鉄板全体に熱が伝わるには、ちょっと時間かかるか"
軽く指で触ったが、まだ熱くない。
いつものフライパンとは違う。
当日は早めに熱しておく必要がありそうだ。
しばらく待つと、白い湯気が鉄板から漂い始めた。
よし、頃合いかな。
「収納空間オープン」
何もない空間から、ボウルを取り出す。
中には、お好み焼きの生地が入っている。
試作用に、あらかじめ準備しておいたものだ。
これを鉄板の上に流した。
一つ、二つ、三つ、連続して横に並べる。
「あの、クリス様、一体何を?」
「見りゃ分かるだろ。デモンストレーションだ。家で作るのとは訳が違うからな」
環境の変化はバカにならない。
夏祭り当日を想定して、一度トライしておきたかったのだ。
周囲を見る。
人はいないが、この広場が祭りの会場となる。
今は昼で明るいが、当日は夜だ。
視界に入る光景を、想像力で暗く染めた。
そこに祭りの盛況をイメージしてみる。
「当日は凄い人なんだろうな」
「そりゃもう。夏祭りといえば、一大イベントですからね! そう、あたいの実家の本領発揮の時なんだよっ!」
「それはもう分かったよ。頼むから静かにしてくれよ」
こういう奴いるよな。
普段はまともだけど、イベントになると血気盛んになるタイプ。
悪い子じゃないんだけど、ちょっと面倒だ。
「えへへ、すいません。祭りと聞くと、つい。真面目な話、例年より多いと思いますよ。各庁の屋台勝負の話、王都中に広まってますからね」
「えっ、初耳なんだが」
「そりゃそうです。今朝決まったのですから」
部下の差し出したチラシを手に取る。
本当だ。
チラシの中心にデカデカと、屋台勝負のことが書いてある。
ちょっと待て、俺の名前まであるじゃないか。
「あの勇者クリストフ=ウィルフォードの超絶屋台料理を見逃すな、だと。煽り文句にも程があるぞ!?」
「きっと国王陛下の号令じゃないでしょうか。ほら、陛下は派手好きですしね」
「くっそお、俺に一言断われってんだよ。ますます負けられなくなってきた」
ぼやいてみたが、仕方ない。
ふと視線を落とす。
さっき三つ落とした生地が、じゅじゅっと音を立てていた。
「頃合いか」とそっと焼き加減を見る。
うーん、まだもうちょいかな。
「練習するからしばらくほっといてくれ」
「はい、分かりましたっ」
部下に背を向け、俺はゴムべらを手にした。
この本番環境での練習は貴重だ。
一枚たりとも無駄にはしたくないね。