75.親子丼はフワリと優しく
一心不乱に食べている姿というものは、いいものだ。
ただひたすらに目の前の一食に集中し、手と口を動かす。
噛み締め、啜り、飲み込む。
味覚をフルに働かせ、料理を隅々まで味わい尽くす。
その集中力はある種の尊さすら覚える。
「よく食べますね」
声をかけると、ヘンドリックス氏が顔を上げた。
その目は喜びに満ち、生き生きとしている。
「はっ、すいません。つい夢中になってしまいました。目の前に勇者様がいらっしゃるというのに」
「いえ、お気遣いなく。それだけ熱心に食べていただければ、俺も嬉しいですから。お気に召しましたか?」
「ええ、それはもう!」
ヘンドリックス氏は大きく息を吐き出した。
「これほど美味しい食べ物がこの世にあるのですね」と、しみじみ呟く。
そこまで言われると、こっちも照れくさい。
「大げさだな。そんな大したものじゃないですよ」
「いや、これは凄い料理ですよ。玉ねぎにはしっかりと芯まで火が通り、甘みがこれでもかと引き出されている。とろけるようなと言えば陳腐な表現です。だが、それしか言いようがない」
「そうね、ほんとに美味しくいただいております。ありがとうございます、勇者様」
横からレネッシア夫人が口を挟んできた。
こうして見ると、エミリアに良く似ている。
朗らかな笑顔を見せ、感想を述べてくれた。
「この玉ねぎと鶏肉の相性の良さといったら、もう、何と言ったらいいのか。鶏肉って軽めでしつこくないでしょう。さらりと食べられていいんですよね。そこに玉ねぎの甘みが寄り添って、とても美味しいです」
「は、はあ」
誉めてくれるのはいい。
けど玉ねぎと鶏肉って、ありふれた取り合わせだけどな。
その疑問を読み取ったのだろうか。
レネッシア夫人は更に言い続けた。
「けれども、何より味付けが最高ですわねっ。何でしょう、今まで味わったことのない柔らかい、それでいて深みのある味付けです。スープやソースでは、この繊細な味は出せませんわ。ちょっと変わってますが、何度でも食べたくなる味付けです。どうやって作られたのですか?」
「そこはちょっと秘密にしておきますよ。手品のタネ明かしは、知らない方が幸福ですから」
今回使った醤油、みりん、カツオ出汁は、異世界の調味料だ。
説明が面倒なので、ここでは省かせてもらった。
代わりに「隠し味に砂糖を入れているのが、ポイントですね」と一言添える。
単に甘さを加えるだけではない。
食材の旨味を引き出すという、サブ効果もある。
これに反応したのは、エミリアだった。
「だからお砂糖入れていたのですねー。この半熟卵がふんわりと甘くて、何だか幸せな感じなのですよっ。よく味わうと、卵がとろりととろけて、そこにお肉の脂がじんわり溶けて。炒めた玉ねぎの素朴な甘さも、そこに加わるのですー。このお料理考えた人、天才ですねっ」
「おいおい、それだけじゃないだろ。ご飯と一緒に食べてこそ、真の美味しさが産まれると思わないか?」
笑いながら返すと、エミリアはにこりと笑った。
固さの取れたいい笑顔だ。
「ですですっ。一緒に食べると、相乗効果があるのですっ。ご飯の穏やかさが、この半熟卵に染まるんですよねー。そして甘く優しい味わいが決まって、次の一口が本当にとろけるようで。子供から大人まで虜にするお料理なのですー」
エミリアの力の入った説明に、俺もご両親も頷く。
確かに親子丼は万人受けする料理だ。
卵を使うと、大抵は優しく受け入れやすい味付けになるからな。
さらに一口噛み締めながら、ヘンドリックス氏が「おや?」と呟いた。
「どうしました」
「いえ、先ほどご飯とお聞きしたのですがね。よく考えてみると、この白い穀物は米と呼ぶのではないかなと」
「ああ、なるほど。それは俺の説明が足りなかっただけです。米は水に浸してから、炊き上げて食べます。その状態をご飯と呼ぶんですよ」
「そういうことですか。はあ、しかしこのご飯というものは美味しいですね。初めて食べましたが、適度に水気があって食べやすい」
「ええ、私も夫と同じ意見ですわ。最初は麦粥に近いのかなと思ったのです。でも、それよりもっと穏やかで雑味がなく、食べやすい。もっと食べたくなりますー」
「レネッシア夫人も大丈夫そうですね。いや、ほんとはちょっと心配だったんですよね。人によっては、無理な人もいますから」
これは本音だ。
地球の食材の中では、癖が少なく食べやすい方ではある。
でも無理なものは無理ってのが、食べ物だからな。
エミリアは「無理なんてありえないですよぉー。明太子をおかずにして、何杯でもいけますー」と言っているが、一応釘を刺しておこう。
「それ、割と特殊ケースだと思うぞ? パンしか食べられないという人は、結構いるだろうよ。ライアルもモニカも、全然抵抗ないみたいだけどな」
「はっ、言われてみればそうですねぇ。食べ物には、理屈を超えた何かがありますからねー。私はご飯なら、オムライスでもお茶漬けでも何でも好きですがっ」
これでもかと言うくらい、エミリアは元気がいい。
そんな娘を見て、両親は目を丸くしている。
多分、実家では見たことがない表情なのだろう。
エミリアは、そして両親は、その頃幸せだったのだろうか。
ふと、パーシーが小さい頃を思い出した。
胸の奥が微かに湿り気を帯びる。
"切り出すなら今か"
決断は早かった。
「えーと、皆さん。俺の作った親子丼を召し上がっていただき、ありがとうございます」
いつもより丁寧に、きちんと頭を下げる。
その途端、ヘンドリックス氏が立ち上がった。
レネッシア夫人もそれに続く。
「何をおっしゃるのですか、勇者様。お礼を言うのは、こちらの方です! こんな美味しいお料理をいただいて、どう感謝していいのかっ」
「私も夫と同じですわ。ぜひ、何かお礼をさせてください! それにお料理だけじゃありません。エミリアが楽しそうにしていて、本当に安心しました。あの子がこんなにもいい笑顔で」
「……お母様?」
ポカンとした顔で、エミリアは丼を置いた。
どうでもいいが、口の端にご飯粒がついたままだ。
「おい、ついたままだぞ」と指摘すると、慌てて取った。
子供か、この聖女は。
「し、失礼したのですっ。うう、何ですか、お母様。急に優しいこと言わないでくださいよ。私なんか、どーせ」
「どーせなんて言わないでくれ、エミリア。全て私の態度が悪かった。すまなかった」
「お、父様?」
ヘンドリックス氏が頭を下げると、エミリアは硬直した。
親子丼の匂いが、まだ食卓の上に漂っている。
この優しい匂いの中なら、絶対に上手くいくさ。
そう信じて、俺は口を開く。
「今食べた親子丼ってさ、鶏肉と卵を使うからそういう名称なんだ。実の親子でも何でもないけど、調理次第でこんなに美味しくなる。あなた達は実の親子なんだろ? なのに仲違いしたままじゃ、ずっと不味い料理のままだぜ。お互いの気持ち、ちゃんと話してみろよ。きっと上手くいくからさ」
会話というレシピが、きっとこの人達には必要なんだ。
時間を重ねて、こじれてしまったものはある。
だけど心を開いて話さなきゃ、良くなるものも良くならない。
そう信じたから、こんな機会を設けたんだ。
「クリス様、あの」
「分かるよな、エミリアさん。逃げてばかりじゃ、どうにもならないってことは。俺はこの場を外すからな。あとは当事者同士でちゃんと話すんだ」
返事を待たず、俺は台所を出た。
最初からこうする予定だったしな。
そのまま玄関を出て、さっさと街へと下りていく。
エミリア、君なら出来るだろ。
冷えた感情に火を入れて、極上の美味に変えてみろよ。