68.夏はいきなりトラブルの予感
「暑くなったなあ」
ボソリとこぼす。
上着はとうに脱いでいる。
真夏にはまだ遠いけれど、春はすでに終わったようだ。
「どうぞ、クリス様」
「ありがとう、気が利くな」
タイミングよく、お手伝いの女の子が冷水を持ってきてくれた。
一息に飲みほす。
事務仕事で頭に熱でもこもっていたのか。
それとも、知らない内に喉が乾いていたのか。
どっちにせよ、気分がシャキッとなった。
女の子にグラスを返す。
「暑くなりましたものね」
「そうだね」
「聖女さまとの仲も、ますます熱いとお噂ですよ?」
予想外のツッコミに、変な咳が出た。
水を飲んでいる途中だったら、きっと吹き出していただろう。
「あ、すみません」と女の子はコロコロと笑っている。
悪意はないんだろう、多分。
「う、うーん。そうなのかもしれないね」
ムキになって否定するのも大人げない。
ここは余裕を見せて、笑ってかわすことにした。
表向きには婚約中だから、それくらいでいいだろう。
偽装婚約のことは、ごく一部の人間しか知らない。
"いや、待てよ。もし俺以外の人間がそのことを知っていて、それを黙っているだけだとしたら?"
不意にそんな考えが浮かんだ。
実は皆、偽装婚約だということを知っているのでは?
知っていながら、俺のために黙っているだけだとしたら?
俺の知らない場所では、こんな会話がされているのかもしれない。
「ふふっ、まだ勇者さまは婚約中のふりをしてるぜ。本当は偽装婚約だって、俺達知っているのにさ」
「そのうち適当な理由をつけて、婚約解消って考えているんでしょうね。おあいにくさま、そうはいかなくてよ」
「勇者さまと聖女さまには、一緒になってもらわなくてはね。偽装婚約? そんなもの周囲の思惑で、本当の婚約にいくらでもなり得るし」
「「「二度目のご結婚〜、おめでとうございます〜、勇者さま〜!!!」」」
「ふつつかものですがー、よろしくお願いしますー。あっ、ご飯はいつもどおりでお願いしますねー」
「えええええええ!?」
エミリアの顔が視界を横切った瞬間、意識が現実へと立ち返る。
お手伝いの女の子はもういない。
変な声が出たと後悔したけど、どうやら夢の中の出来事だったようだ。
良かった、周りからおかしいと思われずに済む。
ごく短時間だけ、妄想に囚われていたようだ。
"地球のテレビ番組じゃあるまいしさ。そんなドッキリあるかっての"
自嘲する。
ヤオロズによると、地球にはそういうものがあるらしい。
ターゲットになった人間だけが何も知らない。
周りの人間は、それが仕組まれたものということを知っている。
ターゲットが右往左往するのを見て、皆が笑うわけだ。
罪の無いイタズラならいい。
けれども、もし俺の偽装婚約をネタにされたら洒落にならない。
"結婚は……もういいよなあ"
窓枠に腰掛けた。
フラリと外を見てみると、子供達が道端で遊んでいる。
その横を、空の荷馬車がゆっくりと通り過ぎていく。
平和だと思いながら、俺は自虐的な自分を噛み締めた。
自分で意識している以上に、離婚したことがキツかったのかな。
† † †
この季節になると、それだけ陽が落ちる時間は遅くなる。
普通に執行庁を出ても、まだまだ明るい。
「お先に」と門番に声をかけ、足取り軽く家路につく。
今日は市場にも寄らず、まっすぐ帰るだけだ。
"今日の夕ご飯は、マスのムニエルと決めているしな"
こんな風に献立が決まっているから、寄り道することもない。
時には酒場に立ち寄ることもあるけど、それもずいぶんと減った。
それより料理作る方が楽しいし。
自分の手で食材が変化していくのは、創造の楽しみがある。
"そこだけ見たら、君ほど家庭的な人間もいないけどねえ"
いきなり脳内で呼ぶ声にも、俺は驚かない。
最近、ヤオロズは自分から会話を始めることがある。
あの地下室で無ければ会話出来ないってこともない。
精神集中のためには、あの部屋と洋灯の明かりが好都合ってだけだ。
"悪いけど、自分でもそう思う"
"君、地球に来ない? 自炊出来て、背も高くてルックスも悪くないしさ。そういう男性、女の子にもてるよ"
"この世に絶望したらお願いするよ"
返答しながら、俺は午後見た白昼夢を思い出した。
ああ、あれが現実になったら絶望的な世界だな。
もう誰も信じられなくなりそうだ。
"絶望かあ。じゃあ、そんな日は来ないだろうね"
"そう願うよ。俺も今更違う世界に行きたくねえしさ。あんたに見せてもらうだけで、お腹いっぱいだよ"
"それもそうだね。あ、そろそろ会話切るよ"
"おう、またな"
ツッ、と微かに耳鳴りがして、ヤオロズの声が消えた。
思えば、あいつとも長い付き合いだな。
一回くらい、地球をこの目で見てみたい気もしなくは――いや、面倒くさそうだ。
そんなことを考えている内に、馴染みのある我が家が見えてきた。
遠目から見ると、屋根の塗装が色褪せてきている。
そろそろ修理でも頼もうか。
あれ?
"誰かいる"
うちの庭には鍵がない。
だから誰でも入ることが出来る。
間違いなく、あれは人影だろう。
庭木に隠れたつもりだろうけど、甘いな。
夕陽のせいで、影が家の外壁に伸びている。
"何だ、泥棒かあ。俺の家に侵入しようとは、いい度胸だな"
鍵は厳重だし、魔術的な防犯対策も仕込んではいる。
だが、それとこれとは別だ。
空き巣にかける情けは、持ち合わせちゃいない。
ちょっと痛い目見てもらおうか。
憲兵に引き渡すか、個人的に処罰するかは後で考えるとしよう。
そろそろと裏手に回り、背を低くする。
こういう体勢だと、まるで俺の方がこそ泥みたいだ。
余計に腹が立ってきた。イライラを抱えたまま、するりと怪しい人物の背後に立つ。
"あれ、結構高級そうな服だな? 近頃はこんなこそ泥もいるのか"
小さな疑問はさておき、素早く首に右腕を回した。
同時に左手で相手の左腕を捕まえる。
「グゲッ!?」という呻き声と共に、相手の体が硬直する。
「おい、俺の留守を狙おうとはいい度胸だな?」
まっとうな人間なら、ちゃんと玄関に回るはずだ。
怪しいことこの上ない。
俺がそう思っても、無理はない。
そのはずだった。
「ち、違う、違っ、うんですっ」
「は? 言い訳するなよ、人の家をこそこそと。ごたくは後で聞いてやるから、こっち来やがれ」
声を低めながら、顔を覗いてみた。
当然ながら見慣れない顔だ。
けど待てよ、何だか既視感があるぞ。
四十代半ばの男だ。
ちょっと癖のある栗色の髪は、綺麗に撫で付けられている。
その緑色の目が忙しく動いていた。
栗色の髪に緑色の目……え、まさかね。
俺のその疑問は、すぐに打ち破られることになる。
「ただいまーなのですー、って、えええ、お父様っ、何をしでかしたのですかあー!? 何でクリス様にとっ捕まっているんですかあー!」
いいところにと言うべきか、悪いところにと言うべきか。
ちょうど帰ってきたらしく、エミリアが庭の表戸から走ってきた。
ああ、何だか面倒くさいことになりそうだな。
時刻は黄昏、そして俺の気分もそれと同じくってところ。




