63.聖女、カルパッチョに魅了される
肉か魚かといえば、エミリアは肉派である。
魚が嫌いというわけではない。
一般的にエシェルバネス王国では、肉を食べる機会の方が多い。
その食習慣に沿った結果、肉により親しみを持っただけである。
彼女の魚に対するスタンスは――嫌いではないし、ものによっては美味しい――という感じだ。
クリストフと同居するようになってからも、それはさほど変わらなかった。
"これは"
だが、エミリアはその考えが浅はかだったことを知る。
このカルパッチョなる料理を口にした瞬間、彼女は魚の魅力に触れた。
緑色の眼を見開き、さらにもう一切れ食べてみる。
「このお料理、すごく美味しいのですー」
コメントが続かない。
味覚は働いているのに、言葉が出てこない。
初めて食べた生魚だからか?
いや、そうじゃない。
シンプルに言おう。
このカルパッチョという料理が、彼女の想像を超えていただけだと。
「ずいぶんと静かだな?」とクリストフは聞いてくるが、すぐに反応することも出来なかった。
何秒か経過する内に、自分の中で溢れた感動が落ち着く。
どう言えばいいのか、ようやくまとまってきた。
「生のお魚を食べたこと、ほとんど無かったのですっ。ましてやスカールを食べるなら塩焼き、そう教わってきましたからー。でもでも、新鮮なお野菜と一緒に食べる生のスカール美味しいのです! 肉とは違うあっさりとして、かつキメの細かい舌触りっ。魚の冷たい脂身が口の中で静かに溶けていくっ。そう、肉が動的な美味しさとするなら静的な美味しさなのですよー!」
一気に言い切った。
まだだ、まだ足りない。
このカルパッチョの魅力は、それだけではない。
「それに何ですか、このセロリというお野菜は! シャッキリとした歯応えはもちろんのこと、爽やかな苦みが良いアクセントになっていてー。スカールの柔らかな歯応えに、遊び心を加えてくれるのですー。はあ、幸せ」
一息に言い切ったせいで、喉が乾いた。
白ワインを一口飲む。
スカールの余韻が洗い流され、口の中がさっぱりとした。
これでまた、更に美味しく食べられそうだ。
美味しいと言えば、まだ言い足りていないことがある。
これは伝えなければならないだろう。
「クリス様」
「何だい、あらたまって」
「このオリーブオイルという油、ただの調味料ではないですよねー? 植物性ということは風味で分かります。でも、ちょっと癖があるのに本当にまろやかなお味なのです。このオリーブオイルが無ければ、カルパッチョは成り立たないですよねー」
エミリアの追及に対し、クリストフは「そうだね、その通り」とあっさり認めた。
ライアルとモニカも、クリストフの言葉を待っている。
二人はまだコロッケを食べているが、カルパッチョにも惹かれつつあるようだ。
その場にいる全員に、クリストフが説明する。
「エミリアさんの言う通り、オリーブオイルは植物を原料とした調味料だ。異世界で栽培されるオリーブという木に、この実が成る」
クリストフがポケットから取り出したのは、数個の丸い実であった。
つやつやとした表皮は、濃い黒紫色をしていた。
クリストフはそれを指でもて遊ぶ。ころりと丸い実が転がった。
「オリーブは生食には適さない。苦すぎるので、食べるとしても塩漬けだ。その代わり脂肪が多いから、油を搾り取って使う。それがオリーブオイルだ。植物性だからしつこさが抑えられ、独特のまったりとした奥深さがある。カルパッチョには、よくこれを使うね。いくら新鮮な魚を使っても、やはり微妙に生臭さは残る。オリーブオイルを使うと、それがまったく気にならなくなるんだ」
「つまり、オリーブオイルはカルパッチョの隠れた主役なのですねー」
「そういう言い方も出来るな。他に使っている調味料は、塩を少しふっているだけだ。オリーブオイルによって、生の魚と野菜の新鮮さが最大限に活かされる。味にも深みが出て、全体の調和が取れる。それがカルパッチョだ」
「納得なのです」
頷きながら、エミリアは箸を伸ばした。
スカールとセロリを一緒に食べる。
新鮮そのもののスカールは、静かにとろけるかのようだ。
そこに、セロリの微かな苦みと爽やかさが加わる。
とろりとしたオリーブオイルが、二つの食材を調和させている。
さっきの驚きが過ぎ去ったせいか、細かい点まではっきりと分かった。
「じゃあコロッケも味わったし、俺ももらおうかな」
「私もいただいてよろしいでしょうか、クリス様」
「どうぞどうぞ。そのつもりで作ったしさ」
ライアルとモニカにカルパッチョを勧めながら、クリストフはカニクリームコロッケに箸を伸ばしている。
作った者としては、熱い内に食べたいらしい。
その気持ちも分かる。
コロッケとカルパッチョを同時に食べられたらと、エミリアは願う。
だが、そんなことが出来るわけもなかった。
「ううー、口が一つしか無いことが悲しいのですよー」
エミリアは恨めしそうに声を上げた。
無茶苦茶だとは思うが、そう思うのも仕方ないのではないか。
それもこれも、クリストフの料理が美味しすぎるのが悪い。
「もう、エミリア様。お行儀悪いですよ」
「ええっ、でもでもー、それだけ美味しいのですよっ。モニカはそう思わないのですかー?」
「美味しいですよ、当たり前じゃないですか」
食べる手を止め、モニカはにっこりと笑った。
お洒落をしているからか、その笑みが眩しい。
何だか悔しくなった。
「じゃあ何でそんなに余裕なんですかー?」
「口が一つしかないからこそ、長く美味しいものを楽しめるじゃありませんか。お料理は逃げていかないのですよ、エミリア様。ゆっくり楽しみましょうね」
「それもそうですねっ! ふふ、じゃあコロッケを三個同時に食べるのはやめときますねー。二個にしておきますー」
モニカの意見はもっともだ。
だから自重したつもりだった。
けれども、何故か男性陣の反応が悪い。
「やめとけ、やめとけ。二個もいっぺんに食べたら、喉に詰まる。それにいくら美味しくても、これ揚げ物だからな。胸焼けするぞ」
クリストフには呆れられ、そして。
「いやあ、いい食べっぷりですよね。良く食べる女の子って豪快でいいよね。あんまり聖女らしくないけれど」
ライアルには笑われてしまった。
「ええー、何ですかあ、ひどいー! これでも自重したのにいー」
自分の食事に対する感覚は、どこか彼らの感覚とは違うのだろうか。
ちょっとカチンときた。
ワイングラスを傾け、一気に中身を飲み干す。
「わっ、エミリア様!?」というモニカの声も気にならない。
喉から頭へワインが抜け、微熱に包まれたようになる。
「うふふ、美味しいお料理には美味しいお酒なのですー。幸せー」
頬をアルコールで赤らめながら、エミリアは微笑んだ。
今日から3月25日まで連続更新します。