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53.聖女、角煮に魅了される

 エミリア=フォン=ロートはお腹が空いていた。

 いくら早退したといっても、もういい時間である。

 外を見れば、春の闇はとろりと暗い。

 もし窓を開けたなら、花の香りが夜の底から漂ってくるだろう。

 しかし、今の彼女にはそのような風情を楽しむ余裕はない。

 目の前に置かれている料理が、エミリアの全ての注意力を奪っていた。


「これが豚の角煮……っ」


 呟きと共に生唾を飲み込む。

 ごとりと切られたバラ肉は、やや赤みを帯びた茶色に染まっている。

 肉本体は色が濃い。

 ところどころ覗く脂身は、少し白っぽくなっている。

 見た目からして美味しそうだ。

 本当に、これがあの粗野なワイルドボアの肉なのだろうか。


 "いえいえ、クリス様が持って帰ってきたのです。これがワイルドボアでないわけがない。それは分かってはいるんですけど"


 理性では分かっている。

 だが、どうしても納得が出来ない。

 ワイルドボアと言えば、粗野で野蛮な魔物だ。

 普通の猪ならともかく、食用としては適さないはず。

 だが――この角煮の見た目と匂いが、その常識を軽々と押し潰していく。


「これ、絶対美味しいですよね」


「食べてみた方が早いだろうよ、ほれ」


「あ、すみません」


 対面のクリスからお茶碗を受け取った。

 白いご飯にも慣れたものだ。

 だからこそ分かる。

 この豚の角煮と白いご飯は、絶対に合うと。

 そう思った瞬間、エミリアは箸を手にした。「いただきますー」と一礼してから、そっと角煮を箸でつまむ。

 タレが滴となって落ちる。

 もう待てない、口の中に一切れ丸ごと放り込んだ。


 "っ、わっ、美味しいのですっ!"


 舌の上に広がったもの、それは純粋な肉の旨味だった。

 ほどよく柔らかく煮込まれており、筋の固さが消えている。

 じっくり煮込んだだけでは、中々こうはいかないだろう。

 紹興酒も一役買っているのだろうか。


 "うん、そしてこの……何というジューシーな!"


 夢中で頬張った。

 一噛みごとに溢れるのは、甘辛いタレと肉の旨味のハーモニーだ。

 バラ肉の隅々までタレが行き届いている。

 そうか、このおかげで猪特有の臭みが消えているのか。

 タレの味は濃い、だがそれがくどくはない。

 猪肉の臭みを見事に消し飛ばし、逆に旨味を存分に引き出している。


「柔らかいし、すごく美味しいのですー。元がワイルドボアというのが、信じられないくらいにっ」


 思わず声をあげた。

 クリスはというと、可笑しそうに表情を緩めている。


「そりゃ美味しいだろうな。中々ここまで手をかけた豚肉料理ないし。味付けは割とシンプルだけど、砂糖で甘めにしているのがポイントかな」


「卑怯なまでに美味しいのです。これと比べたら、普段私達が食べているものは何なのかと」


「調味料が塩とちょっとしたソースくらいしかないからかな。そもそも醤油は、地球でもごく一部でしか使ってないらしいぜ? これの原料が豆だって信じられるか」


「豆!? この黒い液体がですかー!」


 クリスが醤油の瓶を指差すと、エミリアは驚愕した。

 原料が何かなど知る由もなかった。

 だが、まさか豆とは思わなかったのだ。

 エミリアが知る限り、豆はもそもそした食感をしている。

 何をどうすれば、こんな黒くてほんのり美味しい液体になるのだろう。

 想像も出来ない。


「ふー、私の知らないことばかりなのです。考えることは止めます、もぐもぐ」


 エミリアは切り替えが速い。

 思考を捨て、食べることに集中する。

 豚の角煮を更に一切れ。

 歯がぷちんと肉を噛み切る。

 そこから溢れるのは、脂特有のほんのりとした甘さだ。

 存分に染み込んだタレは肉本来の旨さを引き出し、脂の甘いコクが絡む。

 多層構造ともいえる美味しさが溢れた。

 それを噛み締め胃に落とした。

 プルンとした舌触りが余韻として残る

 それを楽しむ。

 愉しむ。

 柔らかさはもはや言うまでもない。


 "ここで白いご飯を"


 一体どんな味になるのか。

 引き返せないなと微かに怯えつつ、箸を動かした。

 ほっくりと柔らかい米の味……だが、それだけでは物足りないのも事実。

 その欠点を、この豚の角煮がカバーする。

 ややもすればしつこい料理ではある。

 それだけに、シンプルな白いご飯とは本当に合うようだ。


「なめていました」


「何を?」


 エミリアがぽつりと言うと、クリスもまた短く答えた。


「この豚の角煮と白いご飯の恐ろしいまでの相性の良さを、ですー。ご飯自体にはあまり味が無いだけに、おかずを引き立てる。それは分かってはいたのです。が、しかし、この豚の角煮との相性は最高なのですー!」


「分かる。ご飯にタレが染み込むというのが大きいな。角煮って、どうしても肉の旨味がタレに溶ける料理だ。ご飯と一緒に食べれば、その旨味も全部逃さず食べられる」


「そうなんですよっ。ちょうどいい箸休めと思っていたら、そこからタレの味がカーンとくるんですよっ! 不意打ちみたいで悔しいんですけど、胃袋が降伏してしまってっ」


「降伏というか、口福なのかもね」


「ああっ、クリス様のドヤ顔、すごくムカつくのですー! 上手いこと言ったと思ってるんでしょ、うぐぐぐ」


「いや、どっちかというと美味いことかなあ」


「何という口達者なのですかっ」


 どうやらこの人には勝てないらしい。

 だが悪い気は全くしない。

 ワイルドボアを使った豚の角煮、この料理があればいいのだ。

 一息入れるため、水を飲む。

 お腹も徐々に満たされてきたところで、エミリアは「ふぅ」と小さく息をついた。


 クリスの料理スキルの高さを、改めて認識しているのだ。

 臭みもなく、ただ猪肉の野趣溢れる旨味を濃い味付けで引き出している。

 いくら異世界の知識を授かったとしても、料理の腕自体は彼の努力の成果だろう。

 覚えたからといって、手がその通りに動くとは限らない。


「悔しいですねぇ、何となく」


 存分に角煮を堪能しつつ、エミリアはぽつりと呟いた。

「え、何が?」と反応しながら、クリスもまた角煮に箸を伸ばす。


「クリス様って何でも出来るじゃないですかー。勇者だから当然強いし、顔だって結構イケてますし」


「そりゃどうも」


「家事も苦にせず、しかも料理はとびっきり上手って何なんですかー? 同じ人間として羨ましくてたまらないのですよお」


 エミリアは本心からそう思っている。

 得手不得手はあるとは思うが、欠点らしい欠点は無い。

 生活能力ゼロと自他共に認める彼女からすれば、天と地の差がある。


「同じ人間だよ、俺は」


 けれども、クリスはあまり嬉しそうではない。

 苦笑いを一つ浮かべ、それ以上は何も言わない。

「自分で作っておいて何だが、この角煮美味いな」と、更に箸を伸ばしただけだ。

 何となく拍子抜けしてしまう。


「嬉しくないんですかあ、クリス様は? 私なんかが誉めても、全然価値ないんですかあ?」


「そうじゃない。ただな、人が見たら俺にもいいところはあるんだろうけどさ」


 言葉を切り、クリスは箸を止めた。

 彼の青い双眼が、エミリアを正面から捉える。


「――自分なりに悩みはあるんだよね。旧友とずっと仲違いしていたりとかさ。何とか解決したけれどね」


「あ、そ、そうでしたよね」


「ま、そういうこと。それにエミリアさんだって、俺から見たら凄いと思うよ。聖女の役割は誰でも背負えるものじゃない。自分の駄目なところより、いいところに目を向けるべきだと――俺は思うけどね」


 そう言われると、ちょっと照れてしまうエミリアだった。

 食欲優先で行動するが、根は素直な娘なのだ。


「へへ、そうですかあ。やだもう、クリス様ったらー。そんな甘い言葉で口説こうとしても、簡単には落ちませんからねー」


「誰が口説いているんだ、誰が? アホなこと言ってると、この角煮全部食べちまうからな」


「はうっ、それだけは勘弁なのですっ!」


 慌てながら、聖女は角煮をもう一切れ頬張る。

 とろりと舌の上でとろけた味は、この上なく美味だった。

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