50.ただいまと豚の角煮
「おっかえりなさいー」
「ただいま、ああ、待っていたのか」
うちに着くと、エミリアに出迎えられた。
深夜という程ではないけれど、そこそこ遅い時間だ。
寝ていてもおかしくはない。
「ええ、何となく眠れなくて。クリス様はいつ帰ってくるのかなーと考えていましたー」
「今日とは限らんだろうに」
長引いても、数日程度だったけどな。
後処理までは引き受けていないので、まずは王都に戻ってきたわけだ。
リーリア夫人にはグランが報告しているだろう。
正式な依頼完了手続きなどは、後日の予定だ。
それだけ話してから、俺は荷物を床に下ろした。
「あー、何だか疲れた。久しぶりに依頼なんか受けたからかな」
「昔は冒険者していたって言ってましたもんねえ。懐かしくなかったですかー?」
「ちょっとは。けど、野宿とかはもう勘弁だな。快適な生活に慣れちまった」
今回は一泊程度だから乗り切れたが、何泊もとなると辛そうだ。
歳だろうかと思っていると、エミリアに「年齢には勝てないんですねえ」と先に言われてしまった。
あれだ、自覚するのと人に言われるのはまた別ってやつです。
ちょっとカチンときました。
「エミリアさんに言われる筋合いはないよ」
「えぇ、これでも心配しているのですよー。戦闘の最中にぎっくり腰にでもなったらと思うと、夜も眠れなかったんですよー?」
「その割にお肌つやつやですよね、あなた」
「若いですからねっ!」
「二十歳そこそこだもんな。はいはい、若い若い」
「今年で二十一歳ですー、覚えておいてくださいー」
「了解、ボケない内に覚えておくよ」
エミリアと軽口を叩いている内に、いつもの調子が戻ってきた。
そうか、これが俺の日常か。
明日の朝には普通に起きて、執行庁に出勤だ。
帰ってきてからは、いつも通り夕ご飯に取りかかろう。
そこまで考えてから、エミリアに声をかけた。
「俺がいない間は、モニカが来てくれてたんだよな」
「はい、お料理も作ってくれたのですー。聞いてください、私、お片付けや皿洗いちゃんと一人で出来たんですよっ。すごくないですかっ!?」
緑色の目を輝かせながら、エミリアが必死にアピールしてくる。
子供か、この聖女は……しかし無視すると、すねるだろう。
それも面倒くさいので「わー、すごいねー。さすがはエミリアさんだなー」と心の底から賞賛しておく。
そう、俺は本気ですごいと思っているんだ。
なのに、何故かエミリアは。
「んんんんっ、何か馬鹿にされているのですっ! お前、子供じゃねーんだからよというクリス様の心の声が聞こえてきたのですよおー! 私、怒りましたっ!」
両手を振り上げて憤慨している。
今にもポカポカと殴りかかってきそうだ。
心外だ。
心の声って何だよ。
いやまあいいや、とりあえずなだめておくか。
「悪かったよ、明日美味いもの作るからさ、それでチャラにしてくれ」
自分は悪くないと思っても、女との口論ではまず謝るという癖がついている。
バツイチ男子の悲しい性だ。
しかし、美味いものという単語はかなり効いたらしい。
エミリアはあっという間に笑顔になった。
「さっすがクリス様なのですー! 久しぶりにクリス様のお料理食べられるのですねっ、一体何を作ってくれるんですかー。あっ、もしかしてワイルドに猪の丸焼きとか!」
「そうそう、あの口から鉄串差し込んでね。庭に薪を積んでこんがり炙って、豪快に大きなナイフで切り分けて……って違うわ。そんな誰でも出来る料理しねーわ」
「冗談ですよぅ。絶対クリス様なら、もっと手の込んだお料理作るって分かってますもの」
くすくすと口に手を当てながら、エミリアは俺の方を見る。
信頼されているのだろうか、一応は。
俺が返事に困っていると「で、何をお作りになるんですかー?」と質問された。
はぐらかす程のことでもないので、正直に答える。
「豚の角煮」
「豚の確認? 何を確かめるんですか?」
「確認じゃない、角煮だよ。四角に切った豚肉を、じっくりことことタレで煮詰めた料理だよ。砂糖としょうゆをベースにしたタレがこれでもかと豚バラにしみ込み、箸を入れるとほろほろと崩れるほど柔らかく煮込む。簡単に説明すると、そんな感じだ」
俺が言い終わると、エミリアがポカーンと口を開けた。
よだれが糸を引きかけたことに気がつくと、慌てて口を閉じる。
「危なかったな」と笑うと、顔が真っ赤になった。
「だだだだって仕方ないじゃないですかあー。こんな時間にそんな美味しそうなお料理の話されたら、お腹にくるにきまってるじゃないですかー! クリス様のイジワルー!」
「へえ、じゃあ作るのやめるわ。イジワルだからな、俺」
「ぎ、ぎぎぎぎっ、すいませんゴメンナサイ、作ってくださいー」
そう、人は本当に美味いものの前には無力だ。
手を合わせて懇願するエミリアを見ながら、俺はその考えを確信した。
皆が美味いもので満たされれば、この世界の不幸や争いなど全部消え去るのではないだろうか。
幸福とは口福と書くと、ヤオロズも言っていた気がする。
「分かってるって。それじゃ俺は明日の仕込みがあるから、ヤオロズに挨拶してくるからな。先に寝てなよ」
それだけ言い残して、地下へと向かう。
✝ ✝ ✝
いつもと同じ地下室は、いつもと同じように暗い。
それでも、見慣れた風景に何となく和んだ。
習慣に沿って、ランタンの火をじっと見つめる。
別にこれが無くても出来るだろうが、精神集中には都合がいいんだ。
"やあ、お帰り。早かったね"
"ただいま。敵をぶっ倒してくるだけだからな、そんなにかからないよ"
精神の奥に響くような音なき声だ。
それに対して、俺も無音で答える。
最初は慣れなかったが、今では何の問題もない。
"ワイルドボアだっけ。私は直接は見たことはないけど、君の知識によるとあれだね。こんなのが集団で襲ってきたら、村一つくらいは危なそうな魔物だね"
"戦い方によるけどな。上手いこと罠にはめたらそうでもない。真正面からぶつかったら、ちょっとしんどい"
俺の返答を聞いているのかいないのか、ヤオロズは"ふむふむ"と呟いている。
そこそこ長い付き合いだが、神様の考えることは分からないままだ。
二言三言事情を話しながら、ふと聞いてみた。
"エミリアのやつ、俺の留守中に元気してたかい"
"いやあ、知らないよ。私は君がいない限り、こちらの世界のことは知覚出来ないからね。早々簡単に異世界には干渉出来ないんだ"
"だよな、悪い"
"何だい、あの聖女様が気になってたのかい"
ちょっとからかうような調子が混ざる。
"いや、ちゃんと食事してたか気になっただけだよ"
"それを気にするっていうのさ。いいじゃないか、君にも春がまた来たってことだよ"
"えっ、いやなんだけど"
割と本気です。
だって所詮は偽装婚約の間柄だ。
俺とエミリア?
無い無い、あり得ないよ。
そんなことより、用事を済ませよう。
"本題に入っていいかな。ワイルドボアを使って、豚の角煮作りたいんだ。しょうゆと砂糖、あと何だっけ、タレに使う酒があっただろ。それが欲しいんだよ"
"酒、ああ、紹興酒だね。分かった、すぐに用意しよう。明日の朝にはここの地下室に置いておくよ"
"流石は神様、準備が早い"
"おだてても何にも出ないけれどね。そうか、豚の角煮かー。エミリアちゃんもきっと喜んで食べてくれるんじゃないか? クリス君の手作りだものね、フフフフ"
"あの、ヤオロズさん。その気持ち悪い笑い方止めてほしいんだけど"
俺は久しぶりの豚の角煮を作りたいだけだって。
いやまあ、美味しく食べてくれる人がいるからこそ作りがいもあるんだけど。
え、あれ。
ということはまさか、俺はあの食欲旺盛な聖女を必要としている?
"そういうのをさ、地球ではフォーリンラブって言うんだよねー"
"映画かドラマの見過ぎだろ、暇人が"
異世界の知識を引きずり出して、俺は反論してやった。
きっと俺、疲れているんだろうな。
今日はもう寝て、明日の角煮作りを楽しみにすることにしよう。