5.寝る前の挨拶はちゃんとしよう
「それでは、私そろそろ寝ますね」
エミリアが大きなあくびを一つした。
居間の隅にあるロウソク時計を見る。
確かにそこそこ遅い時刻だな。
「おやすみ。ちゃんと歯磨けよ」
「はあい……って、勇者様」
「どした?」
「私、一応大人ですからね? それくらい言われなくても出来ますよお」
「本当か?」
どうも疑わしいんだけどな。
俺の不審そうな視線が気に障ったのか、エミリアは「だってもう二十一歳ですよ!?」と憤慨する。
そうか、俺より一回り近く年下だったな。
とてもそうは思えないんだけど。
「分かった分かった。じゃあな。俺はまだやることあるから」
「はい、ではお先にです」
とてとてと彼女が階段を上る音がして、それが小さくなる。
エミリアの寝室は二階、俺の寝室は一階だ。
俺の用事は地下室で行うので、彼女には気づかれないとは思う。
"今日はまだ新しい食材は届いてないだろうけど、事情説明だけはしておこう"
"あいつ"には世話になっていることだし。
二階から音がしないことを確認し、俺は地下室へと降りていった。
✝ ✝ ✝
石造りの地下室は、本来は貯蔵庫として使っているスペースだ。
水や酒が入った樽、パンや小麦粉といった主食、塩漬けの肉、玉ねぎなどの保存のきく野菜が置いてある。
それらをどかし、俺は地下室の一番奥の壁を軽く叩いた。
途端にその壁は実体を失い、奥へと続く通路が現れる。
物質変換の魔術処理の恩恵だ。
そこにさっさと足を踏み入れる。
空間処理を施しているので、どこか現実味を欠いた感じがする。
十歩ほど歩いたところで立ち止まり、俺は手に持っていたランタンからゆっくり手を放した。
それは落ちずに俺の真正面の高さに浮く。
ガラス越しの炎が揺らめく。
その炎を見つめながら、俺は精神を集中させる。
細く、長く呼吸を研ぎ澄ませていく。
ほどなくして、意識が自分の内側に向いていった。
"こんばんは、クリス"
声がする。
男とも女とも分からない中性的な声だ。
耳からではなく、俺の心の内に直接聞こえてきた。
微かな安堵を覚えつつ、俺もまた心で答える。
"お久しぶり、ヤオロズ。この前もらった食材、好評だったぜ"
"おや、それは良かった。誰に作ってあげたのかな"
声の調子が変わる。
もう長い付き合いだから、今はヤオロズの機嫌がいいと声で分かる。
"女の子だよ。今、二階で寝てる。訳あって同居中だ"
"君、離婚してから独り身だったと思うが、特定の恋人が出来たのか"
"色々あんだよ……実は偽装婚約中でさ"
説明するのも面倒だが、やらないともっと面倒なことになりそうだ。
そう判断して、俺はこれまでの経緯を話した。
話し終わると、何だかホッとした。
"へえ、そんなことがねえ。魔王を倒して平和になったと言っても、俗世のしがらみというのは無くならないらしいね"
"人が集まって国家がある以上、それも仕方ないことだろうな。そっちの世界にもあるんだろ、そういうの"
"あるねえ。でも君の世界ほど個人の権威が重要視されていないから、もっとましだと思うよ。大半の国家が民主主義……つまり、国民の総意を政治に反映させる仕組みを取っているからね"
ヤオロズは、時々こんな風に向こうの世界――俺にとっての異世界だ――の事を話してくれる。
食材だけでなく、そうした知識も俺にとっては役に立つ。
"ふーん、面白いな。俺らの世界がそうなるのはしばらく先かな。まあいいや、この話は長くなるから止めだ。なあ、最近お勧めの食材とかあるか?"
"ん、そうだね、話を元に戻そう。そうだな、春キャベツが美味しいね。あとはハマグリもお勧めかな。今日は持ってきてないけどね"
"そうか、手に入ったら頼むよ。サクランボはもう少し後かな"
"あと一ヶ月くらいだね。あれは女の子には喜ばれるだろうからね"
そういうつもりじゃないんだが、反論するのも面倒だ。
"じゃ、頼むよ。いつも悪いな。夜も遅いしそろそろ行くよ"と心の中で答えた。
"うん、そうだね。クリスの現況が分かっただけでも、今日は収穫だ"
"面白がってるかい"
"少しは。でも安心した方が大きいね。やっぱり、独り身でずっと過ごすのはよくないと思ってたから"
"過保護だな。俺、もういい歳なんだけど"
"人間の感覚で言われても困るな。神である私に比べたら、まだまだヒヨッコだよ"
否定はしない。
種族が違えば、そういうものだろうな。
ふと、俺はヤオロズと初めて会った時のことを思い出した。
あれは魔王を倒した直後だったな。
魔王の絶大な魔力が、ヤオロズら他の神が住まう異世界にも悪影響を与えていて。
それが急に消えたから、異世界を代表してヤオロズが俺にお礼を言いに来たんだ。
異世界の料理と食材を貰えたので、俺としては嬉しい誤算だったな。
"九年、か"
"何がだい"
さざなみのように、ヤオロズの声が俺の心に響く。
"俺が魔王を倒してからだよ"
"そうだね。長い時間かな、人間にとっては"
"かもな"
短くは無いだろうよ。
英雄ともてはやされて、結婚して、子供が出来て……そして離婚するには十分な長さだ。
チクンと心のどこかが痛んだ。
いつものことだ、気にしない。
その内気にならなくなるだろう。
"クリス、どうかしたのかな"
"何でもない。じゃあ、また"
返事を待たず、俺は集中を解いた。
視界が元に戻る。
ランタンを手に取り、俺は地下室へと引き返した。
堅パンの匂いが、俺の意識を現実へと引き戻す。
寝るか。
もういい時間だ。
起きたら、またエミリアに朝食と弁当作ってやろう。
そう決めて、俺は一階への階段へ足をかけた。