44.いざペレニア丘陵地へ
転移呪文で移動するというのは、人によっては嫌なものだ。
時間と空間の法則をねじまげ、その影響をこの身で受ける。
慣れるまでは、目眩や耳鳴りに悩む人もけして少なくはない。
ただ、慣れてしまえば大したことない。
俺達みたいにね。
「やっぱり便利だよな。これに慣れると普通の移動が面倒くさくなる」
「そうだね。俺は最近使ってなかったから、ちょっと違和感あるけれど」
俺に答えながら、ライアルが軽く頭を振っている。
その横ではグランが荷物を背負い直していた。
現地への案内や討伐以外の雑務が、彼の仕事だ。
俺とライアルに余分な神経を使わせないため、リーリア夫人が気を遣ったらしい。
「転移呪文は無事に成功したようですね。それでは行きましょうか。あちらになります」
大型の革製のナップザックを背負いつつ、グランが俺達の前に立つ。
その左手には、長い真鍮製の杖が握られていた。
転移呪文の為のアイテムらしいが、俺も今まで見たことがない。
使う前に「使用条件はありますが、便利なものですよ」とグランは言っていた。
こんな便利なアイテムを貸してくれるとは、流石は侯爵家といったところか。
「ここからちょっと歩くんだったな」
「ええ、徒歩一時間くらいですね」
俺の問いに、間髪入れずにグランが答えた。
一時間か。
体を慣らすには丁度いい。
足元を見る。
幾分古びた革長靴のつま先が見えた。
金属で補強されており、武骨な造りになっている。
こいつを履くのも久しぶりだな。
平時には必要ないから、当たり前か。
「ライアル」
「何だい」
振り返らないまま背後に声をかけると、すぐに返答があった。
しっかりした足取りで、俺の二歩後ろをついてくる。
「お前とこうして歩くのも、ずいぶんと久しぶりだな」
「九年ぶりだよ。あの頃も、クリスが先頭に立っていたよな」
「俺が一番重武装だったし、頑丈だったからなあ。打たれ強さには自信があったし」
ふと記憶が巻き戻る。
九年前、俺達は同じパーティーを組んでいたんだ。
他の仲間は今はどうしているのだろうか。
俺とライアルの他に、あと三人が共に行動していた。
「なあ、皆どうしているんだろうな」
「どうって、お前知ってるはずだろ? ジョードは暗殺者やめて、故郷に帰るって言ってたし。シャンティも昇進して、上級司祭になったんだろ。今はもっと高い職位かもしれないけど」
「覚えてるよ、それくらいは。そうじゃなくてさ、あいつら、幸せにしてるのかなってさ。柄にもなく、そんなこと考えちまったわけだ」
自分から話を振ったものの、どうも決まりが悪いな。
ライアルは「お前らしいよ、そういう人を心配出来るところは」と小さく笑う。
さくさくと下草を踏んで進みながら、俺は最後の一人のことを口に出した。
「あのエルフ、絶対今もどこかで迷子になってそうだよな。どこにいるかは知らないけれど、それだけは賭けてもいいぜ」
「ミスティッカ=ローロルンか。あいつ、苦手だったんだよ。エルフだから見た目は美人なのは認めるけど、性格がおかしかったから……あんまり思い出したくないね」
「呪文の腕はピカイチだったけど、色々と奇特なエルフだったよな」
ライアルと話している内に、俺もはっきりと思い出してきた。
見張り番しているのに、魔術書を一心不乱に読み耽るなよな、あいつ。
敵の奇襲がもしもあったら、下手したら気が付かないまま全滅ものだったぞ。
他にもあった。
錬金術に挑戦するのは、別に構わないさ。
だけど調子に乗って、変なゴーレムを産み出すのはやめてくれ。
「これを大量生産して、妾の下僕で魔王城を攻略するのじゃ! 力づくで蹂躙! 力づくで蹂躙! 大事なことだから二度言ったのじゃ、フハハハハー!」って、お前どこの悪党だよ。
「お名前だけは聞いたことがありますが、そんな変な方だったんですか。エルフの才媛こと、ミスティッカ様は」
興味を惹かれたのか、グランが聞いてきた。
エルフの才媛ね。
表面だけ見れば、うん、そうだな。
「変な奴だったね。エルフってちょっと堅苦しいけど、きちんと常識があって理知的な性格っていうのが定番なのにさ。いい意味でも悪い意味でも、ミスティッカはそんな常識を打ち破ってくれたよ」
「あの性格だから、わざわざ魔王討伐に参加したんだろうなあ」
「ライアル様までそう言うとは、余程の方だったのでしょうね。ですが、そうだな。私から見ると、何だか羨ましいですね」
「え、何で?」
俺の問いにすぐには答えず、グラン=ハースは一度空を見上げた。
「雨になるかもしれない」と呟いてから、ようやく答える。
「私が元冒険者だったことはご存知ですよね。長期間パーティーを組むということを、私は経験していないので。良いことも悪いことも共にした仲間がいるということが、ちょっと羨ましい。それだけです」
しみじみとした口調の裏には、どれほどの人生が積もっているのだろうか。
想像するしかなかったが、楽なものでは無かったはずだ。
だから、わざと気楽な口調で言ってやることにした。
「いいじゃないか、昔のことは。今のあんたは、侯爵夫人の信頼する片腕だ。それを誇りに思えるなら、過去なんて大したことないさ」
「――そうかもしれませんね」
グランと目が合う。
一つ力強く頷きながら、彼は一歩前に出た。
背後から「あ、降ってきたね」というライアルの声が聞こえた。
✝ ✝ ✝
小雨の中を一時間ほど歩き、予定通り丘陵地の端っこ辺りに着いた。
ここまでの主な道程は、木々の密度がまばらな林だった。
それが急にばらけ、代わりにごく低い丘が連なる地形に変わっている。
無視できない程雨が強くなってきたので、俺達は手近な老木の下に駆け込んだ。
「この雨の中じゃ、猪共の気配も消されるな。見つけるのが手間だね」
黒髪から雨粒を払いつつ、ライアルが幹にもたれる。
既に通常の衣類から、戦闘用のチェインメイルへと着換え終わっていた。
艶を消された鎖がちゃりんと鳴る。
「一匹一匹探せばな。大丈夫、ちゃんとそこは策があるさ。グランさん、頼む」
「そうですね。ただこの雨だと仕掛けの効果が薄れますから、止むまで待ちましょうか。雨宿りの間に、私は野営の準備をしておきます」
「よし、そいつは任せた。雨が止んでから、俺とライアルは周辺の偵察でもしておくよ」
「俺はいいけどさ。クリス、お前装備は?」
「特にない。ワイルドボアに遭遇しても、防具無しで事足りる。下手に鎧着けたら、重さで動きが鈍るしな」
「そりゃまた。流石は勇者さまってところかな」
軽く肩をすくめてはいるが、ライアルも別に文句は無いらしい。
確かに指摘されてもおかしく無いほど、俺の装備は軽装だ。
武器もまだ手にしていないし、服は外出用の厚手の上着だけときている。
雨避けのためのマントを羽織っているが、これも防御力は心もとない。
"それでも今はこれでいいんだ"
過信でもなんでもない。
俺の武器は収納空間から即座に取り出せる。
「さて、グランさんの邪魔にならないようにしようぜ」と声をかけ、俺は濡れた顔を拭った。
水筒から温かい茶を飲み、冷えた体を暖める。
白い湯気が風景に重なった。
視界を手前から奥へと切り換えてみた。
銀色の雨が細く細く連なり、人の手の入らない丘陵地へと降り注いでいた。