4.聖女、胃袋をつかまれる
そろそろ空が真っ暗になりそうな時刻、王都を急ぐ女が一人。
栗色の長い髪をなびかせたその若い女は、白いゆったりした長衣を着ている。
首回りを飾る金色の装飾品を見れば、女が結構な身分の者だと分かるだろう。
女の名はエミリア=フォン=ロート。
聖女と崇められる彼女は、どこか嬉しそうな顔だった。
その右手には小さな手提げ袋を握っている。
"美味しかったのですぅ、勇者様のお弁当"
昼ごはんを思い出し、ついついにやけてしまう。
今まで食べたこともない料理ばかりだった。
どれも美味だったが、特にカラアゲという料理が気に入ったのだ。
"あんなにしっかり味が染み込んだ鶏肉、初めてでした。それに油でしっかり揚げられていて、口にした瞬間にカリッと――"
ついつい思い出してしまう。
カリッとした歯触わりの後に、じゅわりと鶏の旨みが広がった。
下味がきちんと施されていたため、その旨みにも深みがあった。
あれが異世界の料理なのだろうか。
"どんな調味料を使えば、あのような味になるのでしょうー。塩を使っても、ああはならないですよね"
醤油というものを、エミリアは知らない。
また、酒は知ってはいても、調理用に使う料理酒は彼女の知識にはない。
なので、彼女は考えることを止めた。
「勇者様は本当にお料理がお上手なのですぅ」という一言で十分である。
"そう、それだけじゃなく。あのちょっと塩味の効いたピンク色のお魚……あれが具になっているオニギリとかいうお料理も。初めて食べましたけど、癖になりそうですねえ"
白い粒状の穀物が三角形に成形されたそれは、ぱっと見た限り奇妙な料理だった。
じっと目を凝らして観察しても、この穀物は麦とは明らかに異なる。
こんなにツヤツヤして柔らかそうな穀物を、エミリアは見たことがなかった。
だが、恐る恐る口にしてみると驚いた。
"柔らかいんですけど、粘り気があって! それが口の中でほろっとほどけて、穀物の自然な甘みがたまらなかったのですねー。はー、そして中に入れられたあのピンク色の魚が舌の上に乗って……あれは燻製しているのでしょうか"
あるいは塩漬けしているのかもしれない。
肉とはまた違う、脂の乗った魚の美味しさがそこにはあった。
ほんのりとした塩気があり、実にさっぱりとした風味である。
"いい、本当にあのお弁当はいいですねえ。もし、毎日あのお弁当を勇者様が作ってくれたら――この世の天国ですー"
神殿でも昼食は出るが、あのお弁当と比べると見劣りすると言わざるを得ない。
偽装婚約でもなんでもいいから、勇者様のお弁当は確保したい。
切実にそう考えるほど、エミリアは胃袋を掴まれていた。
退屈な神殿暮らしから逃れるため副宰相のゼリックの話に乗ったが、大成功の予感がする。
"この分なら、夕ご飯も期待出来るのですっ! よーし、頑張って帰るぞぉー!"
エミリアは無言で拳をぎゅっと握る。
魔力の枯渇で転移呪文が使えず徒歩であることなど、もはやどうでも良かった。
美味しいご飯が待っているだろうという期待が、彼女を突き動かしている。
✝ ✝ ✝
「ここここれはっ!」
「豚の生姜焼きだけど」
「ショーガヤキと言うのですか!? こんな美味しいものがこの世にあるなんてっ!」
「そんな大げさな」
いや、確かにいい出来だけどさ。
ごく普通の生姜焼きだぜ?
別にそんなありがたがる程の料理じゃねえだろ。
微かに眉を寄せた俺を見て、怒ったと勘違いしたのだろう。
エミリアは慌てて弁解するように説明し始めた。
「このショーガヤキっ、タレがすごく美味しいんですよおっ。甘くてコクがあって、豚肉の脂と絡み合っててっ……」
気持ちは分かる。
脂がタレの旨味を増し相乗効果を発揮する――そんなタイプの料理だ。
「そうか? ごく普通に醤油、みりん、酒を2:2:1で配合しただけだぞ。あ、醤油とかみりんってのは調味料の名前な」
「それでいて、さっぱりしていて臭みもなく! 微かな辛さがぴりりと後味をよくしていて! どうやってこんなお料理がっ」
えらく感動してやがるな。
それはそうと、口の周りにご飯粒がついているんだが……指摘すべきなのか迷う。
「そいつはおろした生姜を混ぜてるからだよ。ただ単に甘いだけだと、味が単調だからさ。生姜を利かせてやるからこそ、立派な一品料理になるってわけだ」
「なるほどぉ、それで。はぁ、この滴る肉汁とタレが一体となった美味しさといったら……これ、この白い穀物に本当に合いますね」
「ああ、米ね。今のその炊いた――水吸わせて蒸した状態の米をご飯って呼ぶんだけど。ご飯と生姜焼きはめちゃくちゃ合うよ、うん」
「合いますよね、ベストマッチって感じですうー。ほかほかした白いご飯にお肉のボリューム感がフィットして、満足感が凄いのですよー」
はー、とエミリアは満足げなため息をつく。
その視線を隣に移し、彼女はフォークできのこのサラダをすくった。
「これも、うん、上にかかったこの黒っぽいソースがさっぱりしてて」と感想を漏らす。
ソースじゃないんだけどなあ。
面倒だけど指摘しておくか。
「それさ、ドレッシングって言う調味料なんだ。サラダ油っていう植物から取れる油に、バルサミコ酢と少量の香辛料を加えてる。俺の説明に分からない単語が出てきたら、全部異世界のものって思っておいてくれ」
「へ、ふぁ、ふぁいっ! そ、そうなんですかー、妙に黒っぽい液体がかかってるから、ちょっと警戒していたんです。でもでも、ほんのりとしたまろやかな酸味が、きのこの野趣溢れる味にすごく合ってますよね!」
「その辺りはちゃんと計算してるよ。きのこの土っぽさが苦手な人もいるけど、このドレッシングならそこも気にならなくなる。純粋に森の恵みを味わえるだろ」
「はい! 特にこの肉厚の茶色い大きなきのこが、本当に美味しいですね」
そう言いながら、エミリアはフォークできのこを一つ突き刺した。
チャコールブラウンの肉厚のかさがプルンと震える。
なるほど、それに目をつけたか。
「それは椎茸と言うんだ。軽くあぶってから、他のきのこと一緒にしてる」
俺の説明に頷きつつ、エミリアはフォークとナイフで器用に食事を進めていく。
俺は箸が使えるが、彼女にはちょっと難しいだろう。
とりあえず拒否反応は示さなかったから、俺も一安心だ。
すまし汁の椀を手に取る。
ゆっくりと啜れば、かつお出汁の上品な味が口の中に広がる。
具はシンプルに、お麩と刻み葱だけにしておいた。
改めてじっと眺める。
澄んだ汁の海に、ぽつんと白い麸が浮かんでいる。
その周りに、刻み葱が濃い新鮮な緑色を添えていた。
うん、絵になるな。
「はー、汁ものの暖かさって、ホッとするねえ」
しみじみと感想が漏れる。
それが聞こえたからなのか、エミリアが俺を見た。
「あのお、勇者様」
「ん、どうした? 何か変なこと言ったか?」
「あ、いえ……何ていうか、あの高名な勇者たるクリストフ=ウィルフォード様とこうしてお食事してるんだなあって」
「不思議ってことかい」
俺の問いに、エミリアはこくんと頷く。
生姜焼きの最後のひと切れを名残惜しそうに見つめてから、それを口の中に放り込んだ。
もぐもぐと品良くそれを噛み締めた。
やがて彼女の細い喉がこくんと動き、再び口を開く。
「はー、美味しかったのですぅ。えっと、そうそう、その勇者様がこんなにお料理上手なんて知らなくってですね。私、幸せだなあとしみじみ思ったんですよ」
「大げさだな。ま、旨いものを旨いと感じられるのは、健康な証拠だよ。俺もそう言ってもらえると、作った甲斐があったってもんだ」
これは本当だ。
誰かの為に料理をして、それを美味しいと言ってもらえる。
俺にとっては、それは一番の喜びだから。
そんな俺の満足そうな顔を見て、エミリアの表情がパッと明るくなった。
全く、感情豊かな聖女だな。
「はー、勇者様にそう言ってもらえると、私すごくホッとしますねえ。お話した通り、神殿住まいが長くて身の回りのこと全然出来ないんですよぅ。だから、勇者様みたいにお料理上手な人に対して、引け目感じていたんです……」
「事情があるなら仕方ないだろ。美味しく食べてくれる限りは、俺がちゃんと作ってやるからさ。もし料理覚えたければ、ちょっとずつ教えてやるよ」
「本当ですかっ!? わ、私でも作れますっ!?」
「基本さえ押さえれば、誰でもある程度は出来るって。さてと、食べ終わったなら後片付けだ。食器、流しに持ってきてくれ」
食器洗いくらいは任せようかと思ったが、それも自分でやることにした。
エミリアは基本的な生活能力が無いことを思い出したからだ。
手を滑らせて皿がガチャーン、というのは避けたい。
「はいっ! ごちそうさまでした、勇者様っ! 本当に美味しかったのですっ、ありがとうございますうー!」
「はい、ごちそうさま。何か食べたいものあれば、遠慮なく言ってくれよ。大抵のものは作れるからさ」
それだけ言って、俺も自分の食器を手にして立ち上がる。
これだけ俺の料理が好評なら、何とかやっていけるだろう。
自分の料理を美味しく食べてくれる誰かがいるって、やっぱりいいものだな。