35.勇者は元勇者のことを語る
今でも時々思うことがある。
もしあの事件がなければ、どうなっていたんだろうと。
きっとライアルは勇者のままでいられただろう。
俺はそれを受け入れて、あいつのパーティーの一員という立場だったはずだ。
「魔王城へ直結する冥落って場所があってね。そこで俺達は魔物の大群に囲まれた」
エミリアとモニカは黙ったまま聞いている。
ジ、ジジと洋灯の中の小さな炎が音を立て、部屋の空気を焦がす。
何となく部屋の隅の方を見ると、俺の影が踊っていた。
ほら、早く話せよと言いたげな軽妙なステップで。
「全員で戦えば、けして勝てない数じゃなかった。だが、そうならなかった。俺達の制止を振り切って、ライアルが単身飛び出したんだ。大規模攻撃呪文を乱発すれば、周囲を巻き込むからってさ」
語りながら、俺は自分の視界にあの時の光景を浮かび上がらせていた。
自信満々で敵陣にライアルが突っ込んでいく。
「俺一人で片をつけてくる。その間に回復しておけよ」とだけ、あいつは言い残していった。
誰も何も言わなかった。
いや、本当は。
「何も言えなかったんだ。絶対的な強者として、勇者ライアル=ハーケンスは存在していた。だから同じパーティーメンバーでも、あいつの決定には口を挟めなかった。そういう空気があったから」
「そんなの、仲間って言わないんじゃないですかー。お互いに信頼して背中を預けて、初めて仲間って言うと思うのですー」
エミリアが口を挟む。
口調は静かだったけど、どこか怒りと不満が滲んでいた。
仕方ない、彼女の言う通りだ。
「そうだ。だが、そういう意味では俺達は仲間じゃなかった。ライアルを引き立てるためのサポートキャストであり、あいつが絶対だった。その結果……」
目を閉じれば、苦い記憶が甦ってきた。
数えるのも面倒なほど、魔物の死体が転がっていた。
いや、死体とさえ数えられない状態の腕や足も、恐ろしい程あった。
地面は赤黒く流血で染まっていたし、空気までもが血の匂いがしていたな。
「あれだけの数の魔物が全滅していたことに驚いた。だけど、ライアルが見つからない。慌てて、俺達は戦場に飛び出した。魔物の死体の中で下敷きになってやしないか、あるいはもうくたばっちまったのかって懸念してさ。苦労したけど、何とか探し出すことは出来た」
躊躇う。
いや、何を今更?
鈍痛と共に、言葉を吐き出した。
「全ての力を使い果たし、倒れ伏していたライアル=ハーケンスをな。打撲、骨折、裂傷、更には魔力の枯渇とぼろぼろもいいところだった。けど、それなら回復呪文さえかければいい。それが効かないダメージが残っていたのが、あいつの右腕だ」
モニカがハッとしたように顔を上げた。
「右腕ですか、ライアル様の」と呟きながら、人差し指で唇をなでている。
「その様子だと見たんだな? 黒い十字状の痣があっただろ」
「え、ええ。初対面で申し訳ないのですが、どこか禍々しさを感じさせるような」
「その感覚は正しい。あれはな、加護の過剰使用の痕だよ。ライアルの加護は、闘神グアリオアッテ。人ならざる存在の力を限界以上に使い、あいつはその代償を払う羽目になったんだ」
「まさか、ライアル様が元勇者と呼ばれるのって」
「勘がいいな、エミリアさん。そうさ、過剰使用による加護の喪失が原因だ。膨大な負荷に耐えかね、ライアルの体は壊れた。その時点で、戦神もあいつを見放したらしい。自分の限界もわきまえない馬鹿ってことなんだろうよ」
冷たいようだが、神様ってのは大概気紛れと相場は決まっている。
力にはリスクが伴い、ライアルはそのリスク管理を間違ってしまった。
「あとは分かるだろ」と俺は言う。
「戦う力を失くしたライアルを、俺達はパーティーから外した。戦力外と認定して、安全な後方の町へと送り届けた。体も心も折られたあいつを庇っていちゃ、とても魔王と戦うことなんか出来なかったからな。同時に勇者の座も、俺が引き受けることになった。俺も加護は得ていたから、何とか出来るだろうと思ったんだ」
「あの、クリス様ー。そんな重大な事情があって、クリス様はライアル様から勇者の座を引き継いだのですよね。なのに、何故その話が皆に知られていないんですかー」
エミリアは納得出来ないらしく、眉をしかめている。
なるほど、そう疑問に思うのも無理はないか。
「推測も混じるが」と断ってから、自分の考えを話すことにした。
「加護の過剰使用ってのは、力の乱用そのものだ。勇者がそんな馬鹿な真似をしたって事実を、王国としては隠蔽したかったんだと思う。士気に関わるからな。だから表向きは、負傷したライアルが自発的に、俺に勇者の座を譲ったことになってるんだ」
「巧妙ですね。事実は限りなくそれに近いですし。でも、決定的に」
卓の上で、モニカが両手をギュッと組み合わせる。
やるせなさがその動作に滲んでいた。
「ああ、異なる。過信はあったかもしれないけど、基本的にはあいつは俺達を守る為にあんなことをした。だけど、その行為は王国には否定されちまった。どれだけライアルが落胆したのか、俺には分からない」
分かるはずもない。
棚ぼた式に勇者の座を手に入れた俺が、その栄光を失った男に何を言えるんだ。
喉の乾きを覚えた。
グラスを掴み、一気に喉の奥へと流し込む。
強い酒だ。
だが強いだけの酒だった。
「あとは知っての通りさ。冥落という最大の難所をくぐり抜け、俺達は魔王城へと到着した。魔王城は巨大なダンジョンと化していたから、攻略に時間はかかりはした。けど、袋のネズミには違いなかった。三ヶ月後には、俺達のパーティーは魔王の首を獲り勝利の凱歌を上げたんだ。王国は平和を取り戻し、今に至るってわけさ」
事実ではある。
だけど、俺はわざと重要なことを言わずにいた。
空になったグラスを持って、洗い場へと立とうとした時。
「クリス様」
「何だい、一応話はここで終わりだぜ?」
問うたのはエミリア=フォン=ロート。
その緑色の双眼は、俺のごまかしを許してはくれない。
「魔王を倒した時、ライアル様はどうされていたのですかー。そこ、大事なところじゃないんですかー? 何でわざとやり過ごそうとされるんですか」
「もう終わったことだからだ」
「終わってなんかいないんじゃないですか。ほんとに終わってると思うなら、クリス様はそんな辛そうな顔はしないですよー」
口調はまだのんびりさを残しているが、エミリアは真面目だった。
傍らのモニカは何も言わない。
観念した。
ため息と共に答える。
「町に預けてから、あいつとは会っていないんだ。魔王を倒した後、もちろん会いに行ったさ。けれど、その時にはライアルはいなかった。手紙を一通、ただそれだけ残してな」
「お手紙だけ……ですか」
エミリアが沈痛な面持ちになる。
黙って頷くしかなかった。
内容は言いたくない。
さよならと一言書かれていただけだから。
沈黙がその場を支配しそうになり、俺は自分の言葉でそれを破る。
「気まずいさ、もしライアルに再会してもな。だが、今あいつが俺に会いに来たというなら――それは絶対に事情がある。モニカさん、あいつ何か言ってたか? 次いつ来るとか、どこに住んでいるとか」
「お住いはおっしゃっておりませんでした。でも、すぐに会うことになるから探すなと。ただ、それだけです」
「何だか謎めいた言い方ですねえー。クリス様との間にだけ分かる、秘密の約束でもあるんでしょうかぁ?」
モニカの返事を受けて、エミリアが自分の考えを話す。
その視線は洋灯を見つめ、それから俺の方を向いた。
「そんな約束無いよ」とだけ答え、俺はもう一度グラスを掴んだ。
"なあ、ライアル。お前、俺に話があって来たのか? すぐに会えるってどういうことだよ"
相手のいない問いと知っていながら、心の中で問う。
グラスに酒を注ぎつつ、あいつの顔を思い出した。
黒髪黒目の優男だったな。
勇者らしく傲慢な程に自信満々に振る舞って、そして責任感が強かった。
今もそうだろうか?
いや、あの頃と同じな訳がない。
九年間は、人を変えるのには十分な長さだから。