32.留守番中のメイドと訪問者
パタパタと窓にはたきをかけ、丁寧に埃を落とす。
そう大きくもない部屋なので、窓もそれに合わせたサイズだ。
拍子抜けする程、すぐにそれは終わった。
"勇者さまと聖女さまのお家にしては、質素すぎないでしょうか"
頭に浮かんだ問いに答える者もいない。
モニカ=サイフォンは、すぐにそのことを忘れることにした。
当人達がそれでいいなら、いいではないか。
外野がとやかく口を挟んでも、何の益も生まれない。
そう考えると、自然と納得した。
手を休め、今しがた掃除を終えた部屋を眺める。
こざっぱりとした部屋だ。
壁際に据え付けられたベッドが一つ、その反対側にクローゼットが一つ。
それ以外には、書き物に使う机と椅子が1セットあるのみ。
この素っ気ない部屋が聖女の私室と言えば、大抵の者は驚くだろう。
女らしさを感じさせるような装飾品などはない。
強いて言うなら、机の上にある季節の花くらいだろうか。
滑らかなラインを描く白磁の花瓶から青や赤の花が覗き、殺風景な空気を緩和させている。
"エミリア様は欲の無い方ですね、ほんとに"
微苦笑を洩らしつつ、モニカは掃除の次の手順に移る。
腰を屈め、薄い金属製のバケツの中から雑巾を手に取る。
手を伝う水の冷たさに口元を引き締めた。
聖女エミリア=フォン=ロートの私室の掃除中なのだ。
あまり余計なことを考えるべきではない。
✝ ✝ ✝
全ての掃除を終え、モニカはホッと一息ついた。
隅から隅まで掃除をすると、そこそこ運動になる。
水拭きした床には塵一つ落ちておらず、モニカは密かに自画自賛した。
ポスンと小さな音を立て、自分用の丸椅子に座る。
クリストフには「別に勝手にソファとか使っていいぜ」と言われてはいるが、やはり気が引けるのだ。
クリストフもエミリアも優しいが、それに甘えるべきではない。
メイドはメイドの立場をわきまえるべき――少なくとも、モニカはそう考えていた。
自分のいるリビングにゆるりと視線を走らせる。
いつも通りの部屋だ。
掃除が終わった時点ということもあり、きちんと整頓されている。
それを確認するモニカの目が、床のある一点で止まった。
藍色の双眼が瞬き、感傷に小さく揺れる。
「忘れてしまったのですね、パーシーちゃん」
子供の描いたどうということもない絵だ。
赤や緑の線が縦横斜めに走った……よく言えば独創的な、悪く言えばただの雑な落書きである。
今朝、出立前の時間にパーシーが遊びで書いていたものだ。
クリストフとエミリアの二人と共に、今頃は自分のお家に着いているだろう。
近寄り、その落書きを手に取る。
パーシーに届ける程のものでもないだろうと判断し、食卓に丁寧に置いた。
他愛のない落書きであっても、きっとクリストフには大切なものになる。
そう判断してのことだった。
"向こうで大丈夫でしょうか"
自分で淹れたお茶を啜りながら、モニカはクリストフとエミリアに想いを巡らせる。
前妻と現在の婚約者が顔を合わせるというのは、クリストフにとっては中々に修羅場なのではなかろうか。
「無事でいてほしいものですね」とモニカは嘆息した。
半ば自業自得ではあるものの、同情せずにはいられない。
偽装婚約とはいっても、恐らくエミリアはクリストフに好意を抱いている。
場合によっては、ロージア公爵家で火花の一つくらいは飛ぶだろう。
"お二人がもしご結婚されたなら、私はどうしましょう"
天井を仰ぐ。
今のところ現実味の無い未来だが、可能性はゼロではない。
考えても損は無いだろう。
二人の専属メイドとして、そのまま仕えられるだろうか。
もし叶うなら、それが一番楽だ。
駄目ならどうするか。
他のお屋敷で働いても構いはしないが、人間関係の再構築は面倒だった。
寿退職という選択肢があれば楽だが、あいにくそういう男性はいない。
「うーん」と軽く眉をしかめて考えても、将来の選択肢は広がりそうもなかった。
"深刻に考えても仕方ないですね"
なるようになる。
思考を放棄して、モニカが立ち上がった時だった。
コン、コンコンという控えめなノックの音、それに続いて声が聞こえた。
通りのいい、落ち着いた男の声だった。
「すいません、勇者クリストフ=ウィルフォード……様の家はこちらでしょうか」
数瞬判断を巡らせる。
相手が誰か分からないので、居留守をしても良い。
だが、相手はクリストフを最初呼び捨てにしている。
つまり、それなりに親しい立場なのではないか?
クリストフ不在の現在、そのまま返すと彼に迷惑がかかるかもしれない。
結論は一つ。
「あの、どちらさまでいらっしゃいますか。こちらは確かにクリストフ様のご自宅でいらっしゃいます」
自分が代わりに出るしかないだろう。
決断と共に、玄関に出る。
相手がもし不審者であっても、特に問題は無い。
モニカはただのメイドではない。
聖女お付きのメイドとして、一定の武芸の心得はある。
よほどの腕利きでない限り、引けはとらないつもりだった。
そんな物騒なことを考えている内に、相手が扉越しに返答してきた。
「申し遅れました。俺の名前はライアル=ハーケンスと言います。昔、クリストフとパーティーを組んでいた者だ。今はただの流れ者だけどね」
「えっ」
瞬きを二度繰り返した。
エミリアの記憶の水底から、その名前がぷかりと浮かび上がる。
軽い驚きに包まれながら、急いで扉を開けた。
斜めに差し込む陽射しの中、黒髪の男が佇んでいる。
やや長めの前髪が顔の左側にかかり、その左目が隠されていた。
髪と同じ色の右目は優しい光を帯びている。
かなり背が高いが、威圧感は感じさせない。
「初めまして、お嬢さん。クリストフはどこにいるかご存知ですか?」
「――失礼しました、かの高名なライアル様とは知らずご無礼な真似を。クリストフ様は外出中です。今日中には戻ると思います」
「今日中か。すぐではないんだね」
残念そうな素振りを見せながら、ライアルと呼ばれた男は前髪をかきあげた。
その時、黒炭のように艶の無い痣がモニカの目に映った。
男の右腕に、その痣が黒い十字架のように刻まれている。
"やはりこの人は"
モニカの背に緊張のさざなみが走った。
ライアル=ハーケンス……この男の名は知っている。
クリストフと共に、魔王討伐の任に従事していたこともあったはず。
だが事情があって、最終的にはパーティーから離脱した先代の勇者である。
その経歴を知るならば、平常心でいられるはずもなかった。