31.今の彼に必要な人はあなただから
歓声が聞こえてくる。
季節の花が咲く庭園を越えて、その幼い歓声はエミリアの耳に優しく届いた。
心地よい響きだ。
聞いているこちらも、それに釣られて表情を緩めてしまう。
"パーシーちゃん、嬉しそう。クリス様、本当にいいお父さんなんですねえ"
エミリアの視線の先で、一組の親子が遊んでいた。
戯れる二人の姿が微笑ましい。
四歳のパーシーにとっては、父親がまだまだ必要だったのだろう。
賢い子ではあるものの、大人の事情を全て飲み込むのは無理というものだ。
そして、クリストフも今回の件でそれを実感したらしい。
パーシーを抱き上げたり下ろしたりしながら、彼自身も和やかな顔を見せていた。
「お茶のおかわりはいかがかしら、聖女様?」
「あ、すみません。それではいただきます」
マルセリーナの申し出を受ける。
彼女が合図すると、控えていたメイドがポットから茶を注いでくれた。
繊細な造りのカップを覗く。
ほぅ、とたおやかな湯気が舞う。
仄かな甘い香りが含まれており、どこか果物を思わせた。
一口含む。
熱と共に、まろやかな甘さが喉を抜けていった。
「いいお茶ですねぇ」
「父の趣味なんですよ。王族の方もたまにお見えになるので、そのおもてなしの為というのもありますけれど」
「えっ、そんな良いお茶いただいて良かったのですかっ」
ギョッとして、危うくカップを手から滑り落としそうになった。
つまり、自分は王族と等しい待遇をされているということではないか。
そんなエミリアの狼狽した様を見て、マルセリーナはおかしそうに笑う。
「気になさらなくてよろしいのよ、エミリア様。貴女だって、立派な聖女様じゃありませんか。気後れする必要など無用ですよ」
「はあ……すみません。それでは遠慮なくいただきますね」
肩から力を抜き、エミリアは茶を啜る。
緊張がほどけていくのを実感した。
受け皿に戻したカップを眺めてみれば、茶の水面には青い空が映っていた。
ぽかりと白い雲が一つ、ごく小さな波間に揺れている。
切り取られた空がそこにはあった。
「マルセリーナ様」
ぽつりと口を開いた。
エミリアの緑色の目は、まだカップに注がれたままだ。
「何でしょう?」
「マルセリーナ様は立派な方ですね」
気がつけば、そんなことを言っていた。
「唐突ですね」
聞かれた方は気にすることもなく、口元に手を当てる。
機嫌を損ねることもなく、マルセリーナは視線だけで問うた。
何故そのようなことを聞くのかと。
「由緒あるロージア公爵家の一族で、領民のことをしっかり考えていらっしゃいますし。ご結婚されて、パーシーちゃんをご出産されて、ちゃんと育てていらっしゃいますから。凄いなあと思ったんです」
「そんなことはありませんよ。そもそも公爵家に生まれたことは、私の実績ではありません。ただ、運が良かっただけです。パーシーを育てているのも、一人では難しいことですし。それに、バツイチというのはあまり格好いいものではないですよ?」
「はあ、ええ、まあ」
どう反応すべきか迷い、エミリアは曖昧に口を濁した。
気の利いた一言でも言えればいいのだが、彼女の語彙にはそうした選択肢は無い。
経験不足か、あるいは単に頭が悪いのか。
前者であってほしいと切に思う。
「エミリア様だって、ご立派じゃありませんか。困った方々を癒やし、女神アステロッサの教えへと導いているのでしょう。それは私などより、よほど幸せに貢献していると思いますよ」
「それはまあ、その通りではあるのですが。聖女としてのお仕事以外では、ダメダメなんですよねぇ」
はあ、と小さなため息を漏らす。
視線を上げて、クリストフとパーシーの姿を探した。
どうやら今は鬼ごっこらしく、パーシーをクリストフが追っている。
さっきからずっと、クリストフはパーシーと遊んでいる。
疲れないのだろうか。
その姿を追っている内に「クリス様は私と同居して良かったのでしょうか」と呟いていた。
「何故そう思われるの?」
「うーん、私、家事とか身の回りのこと全然出来ないんですよね。実家出てから、ずっと神殿暮らしなんです。お付きのメイドさんがいて、その方たちが全部やってくれるので。これでいいのかなあ、とは薄々思ってはいたんですが」
マルセリーナに話すことではないのかもしれない。
だが、身近ではない人だからこそ話せることもある。
この機会にと、エミリアは思っていることを口に出してみることにした。
「クリス様と一緒に暮らしていると、もうほんと何でもやってもらっちゃっているんですよ……自分の服畳んだりとかはしますけど、ご飯は完全にお任せしちゃってます。お部屋の掃除やお洗濯は、モニカ――あ、お付きのメイドさんなんですけど――がしてくれますし。全部やろうとは思わないですが、少しは出来た方がいいのかなーと思うのです」
「そういうことですか。楽で快適な生活だけど、それに甘えていいのかなということ?」
「ええ、まあ。その内、クリス様にこんなやついらねーと愛想尽かされないかなー、とか」
冗談めかして言ったものの、情けなかった。
偽装婚約という立場もあり、いつかはクリストフとの同居は終わるだろう。
それは仕方ないにしても、相手から見捨てられてサヨナラは避けたい。
自分と一緒にいて良かった――そう思ってもらいたい程度には、エミリアはクリストフに親近感を抱いていた。
だが、今のままでは。
「大丈夫ですよ、エミリア様」
かけられた声に、聖女は顔を上げた。
その拍子に長い栗色の髪が揺れる。
マルセリーナの優しい視線を受け止めた。
「何故そう思われるのですか? 自分で言うのもあれですが、私お荷物だと思うんですよ」
言っていて情けなくなり、人差し指同士を突き合わせた。
いじいじモードである。
「ふふ、そんな顔なさらないで下さい。あのね、簡単なことなんです。あの人ね、自分の料理を美味しく食べてくれる人が必要なんです。お料理しか趣味の無い人だから」
「え」
「本当ですよ? 私はそれが分からなくて、あの人とは上手くいかなかったのです」
澄ました顔を保ったまま、マルセリーナは答えた。
微かに寂しそうな、けれどもさっぱりしたものがそこにはあった。
思わずエミリアは姿勢を正す。
「確かに食べること大好きですっ。クリス様のお料理すごく美味しいし、いつも楽しみなんですよ。でも、本当にそれだけでいいんですか!?」
「いいんですよ。どんなお料理だって、笑顔で食べてくれる人がいないとね。自信を持って、エミリアさん。勇者クリストフ=ウィルフォードにとって――」
一息入れてから、マルセリーナ=フォン=ロージアはその言葉を厳かに告げた。
「それは間違いなく貴女だと、私は信じていますから」
「は、はいっ! ありがとうございますっ!」
胸の前で握り拳を作りながら、エミリアは力強く答えた。
そうか、大丈夫だ。
きっと大丈夫なんだ。
ちゃんと美味しく食べて、満面の笑顔を見せてあげよう。
それがクリストフに必要なら、何でも食べて何度でも笑ってみせる。
「そっか、私は必要とされているんですねっ。よーし、頑張るぞー」
テンションを上げたまま、エミリアは椅子から立ち上がった。
テラスの手すりにもたれかかると、クリストフとパーシーが遊ぶ姿が良く見える。
どこからどう見ても平和な光景が、エミリアの背中を押した。
「私も一緒に遊んできますねっ」と声をかけて、パッとテラスから庭園に飛び出した。
マルセリーナはただ頷いて、快く送り出す。
「あの人のこと頼みますね、エミリアさん」
マルセリーナ=フォン=ロージアの呟きは、春の微風に紛れて静かに消えた。