3.今日は豚の生姜焼きにします
空を見上げれば、すっかり茜色になっている。
こんな春の夕暮れというのは、どこかホッとする。
そんな月並みな感傷を抱えつつ、上着のポケットに手を入れた。
向かう先は市場だ。
目的はもちろん、晩飯の食材を買うため。
「おっ、いらっしゃい、勇者様! 今日は何にするんだい?」
肉屋の店主が声をかけてきた。
数年来の付き合いだから、もう完全に顔馴染みだ。
軒先にぶら下がったでかいハムも美味そうだが、お目当ての品は決まっている。
「豚の肩ロース、大人二人分もらえるか。ああ、いつものでいい」
「あいよっ、ごひいきにしてくれてありがとうございますっ」
「こっちこそ助かってるよ」
豚肉の部位を指す異世界の単語も覚えてくれたので、俺としても助かっている。
他の客が「肩ロースって何かしら?」と言いたげな顔をしているが、一々説明するほど暇じゃない。
「ちょいと筋が入って固いから、調理前に入念に叩いた方がいいと思うね。もっとも勇者様が思い切り叩いたら、肉だけじゃなく台所も壊れちまうか!」
「普段は常人と同じくらいの力しか出さないよ。そりゃ全力出せば、台所どころか家の床まで抜ける自信はあるけどな」
代金と引き換えに肉の包みを受け取りながら、軽口を返す。
「まいどありっ。しかし、あれだね。勇者様がうちみたいな普通の店も使ってくれて、嬉しい限りですよ」
「ん。異世界の食材、そんなに手軽に入手出来るわけじゃないしな。身近な食材使えた方が、料理するには便利だから」
「ああ、前に言ってましたもんね。ところで今日は何だか嬉しそうに見えますが、何かいいことあったんですかい」
「いや、特に何も?」
何故そんなことを聞かれるのだろうか。
俺の怪訝そうな顔に気がついて、肉屋の店主は指摘する。
「そうですか? こう、パッと見て機嫌良さそうなお顔でしたんでね。あ、もしかして」
「何だよ?」
「勇者様、二人分の肉買われるの久しぶりでしたよね。それと関係あるのかなと」
言われてみれば、そうかもしれない。
四ヶ月前に離婚してから、この店で買う肉は自分の分しか買っていなかった。
買い物カゴの重みは確かに違う。
「そうかもしれないな。じゃ、これ以上邪魔しちゃ悪いから」
「あ、お引き止めしてすいません! ありがとうございました!」
店主の声を背中で受け止めながら、俺は市場を後にした。
二人分という言葉が、妙に胸の中で響いている。
それはちょっとくすぐったいけれど、別に不快な感覚でもなかった。
✝ ✝ ✝
荷物を置き、肩を回す。
いつもの部屋に視線を走らせる。
これでも勇者の端くれなので、留守中に何か無かったか確認する癖がついている。
神経質かもしれないが、これも一種の職業病だ。
見えざる敵がどこかにいないとも限らない。
"やけに埃が無くなって……あ、そうか"
微かな違和感の原因には、すぐに思い至った。
そうだ。
聖女付きのメイドさんに、留守中に清掃をお願いしていたんだったな。
それを思い出すと同時に、机の上のメモを発見する。
つまみ上げて、目を通した。
『エミリア様付けのメイドの職務として、以下行わさせていただきました。
台所、食卓、洗面所などの共用スペースのお掃除。お二方の寝室のベッドメイク。エミリア様の服のブラッシング。衣類の洗濯、及びごみ捨て。
それではまた明日。モニカ=サイフォン』
なるほど、やるべきことはきちんとやってくれたらしい。
俺は料理は好きだが、他の家事は苦手だ。
非常に助かる。
"近いうちに飯くらい招いてやろうか"
エミリアと相談の上だが、それくらいは構わないだろう。
あの堅物っぽいメイドさんが遠慮するかもしれないが、それはその時考えよう。
思考を切り替え、俺は自分の仕事に切り替える。
え、何のことかって?
もちろん楽しいクッキングタイムに決まってるだろ。
俺の唯一の趣味は料理だ。
こう言うと「勇者が料理?」と大抵の人はおかしなものを見るような顔をする。
別にいいじゃないか、誰に迷惑かけるわけじゃないし。
命の奪い合いなんかより、よっぽど実りある事だと思う。
"けど、あんまり理解してもらえないんだよなあ"
言葉に出さないため息は、不意に浮かんだエミリアの顔で封殺された。
あの聖女様は俺の趣味を聞いても、全く笑わずにいてくれた。
それどころか「もしお料理作っていただけるなら、願ったり叶ったりなんですっ。私、全くお料理出来ないので!」と真剣な顔でのたまった。
その勢いに圧されたのもあり、ゼリックさんの偽装婚約案を認めてしまった――という訳だ。
浅はかだったかもしれない。
だが趣味を理解してくれる人というのは貴重ではある。
生活スキルの低さは目を覆わんばかりだが、それはどうにかしてやるさ。
「さてと、やりますか」
自前の白いエプロンをつけながら、台所に立つ。
まずは炊飯から取りかかる。
鉄鍋に入れた米を水に浸し、そっと手を入れた。
水の冷たさと米粒の軽い感触を感じながら、米粒同士をすり合わせるようにする。
無洗米なので気持ち程度で十分だ。
あんまりやると、米粒が削れる。
終わったら、しばらくこのままにして米に吸水させておく。
"献立は豚の生姜焼き、きのこのサラダ、すまし汁、それにご飯だから……すまし汁の出汁だけ先に取ろう"
乾物入れの壺から、かつお節を取り出す。
最初これを見た時は、原料が魚だとは信じられなかったな。
いや、今でも半信半疑だけどさ。
"あいつ"が言うには、異世界ではそうした原型をとどめない乾物がたくさんあるらしい。
俺がその製造過程を目にする機会は無いだろうけど、興味は惹かれるね。
ペティナイフをあてがい、必要な分だけ削り出す。
木屑のようだが、一削りごとに香ばしい匂いが立ち込める。
牛や豚の骨から取るスープの旨みと違い、元が魚であるかつお節はあっさりとしてくどさがない。
こいつを教えてもらってから、料理のレパートリーが増えたもんだ。
削ったかつお節を鍋に入れ、あらかじめ用意しておいた湯をその中に注ぎ入れていく。
湯の中でかつお節が揺らぎ、それがピンク色の花のようにも見えた。
火魔石を稼働させ、鍋を火にかける。
これであとはほっておけば良し。
"さあて、メインにとりかかるとしようか"
さっき買ったばかりの豚肉を取り出し、まな板に並べた。
エミリアが何時に帰ってくるか分からないけれど、少なくとも下ごしらえはしておこうか。
視線を落とすと、鮮紅色の豚肉が視界に入ってきた。
この肉に火を通すより前に、最低限やらねばならないことはあるんだよな。
試しに指で軽く肉を押すと、強めの弾力があった。
肉屋の店主が言った通り、少々固いようだ。
ためらわず、包丁の刃を返した。
トンとドンの中間くらいの強さで、リズミカルに肉を叩く。
こうすることで、筋を叩いて柔らかく出来るんだ。
同じ豚でも、大抵の場合こちらの豚の方が肉質は固い。
料理自体はもちろん出来るけど、異世界の柔らかい豚に慣れると少し面倒だ。
"ま、贅沢は言えないか"
この世界の人間のほとんどは、こちらの世界の食材しか知らないんだからな。
足りない分は努力と工夫で補えば、どうにかなるもんさ。