27.親子の夕方と晩御飯のリクエスト
子供というのは、予想以上に親の感情を敏感に察すると聞いたことがある。
親が笑顔なら嬉しいし、涙を流せば悲しい。
共感する力が高いとも言い換えることが出来る。
だから、きっとパーシーは悲しかったのだろう。
俺とマルセリーナの仲が悪くなり、家の雰囲気が悪くなった時。
あの子の顔も曇っていた。
"ああいう空気はやっぱりイヤだったろうな"
膝の上で眠るパーシーを抱え直す。
その寝顔は微笑を浮かべているようで、柔らかな印象があった。
頬をそっと突いてみると、ころりと寝返りをした。
まだ軽い体が向きを変える。
"きっとマルセリーナの実家では幸せなんだろうな"
あんなギスギスした空気を感じずに、穏やかに過ごすことが出来るから。
"それでも昔を思い出して、寂しくなったのかな"
俺の姿が見えないから。
パパと呼んでいた存在がいないから。
だから一人で抜け出して、俺に会いに来たんだろう。
どんな顔をして、馬車の中に隠れていたのか――俺には分からない。
「頑張ったな」
眠る娘を抱えたまま、俺はそっと呟いた。
✝ ✝ ✝
パーシーの四日間の滞在は、穏やかに過ぎていった。
朝は皆と共に起き、俺とエミリアの出勤を見送る。
入れ違いにモニカがやってくるから、彼女と一緒に午前中を過ごす。
モニカに言わせれば「楽しそうにされていましたよ」らしい。
家の周りを散歩したり、モニカの家事のお手伝いをしていたんだそうだ。
ちょうど正午に二人で家を出て、エミリアが働く神殿に着く。
そのまま遅めの昼ごはんを食べてから、そこで過ごしていたと聞いている。
エミリアが言っていた通り、神殿には多くの見習い達がいる。
彼ら彼女らがパーシーと遊んでくれたので、パーシーも楽しめただろうと思う。
普段と違う生活というものは、短期間なら新鮮だ。
長期間だとしんどいものもあるけど、これくらいならちょうどいいだろう。
こうやって午後の時間を過ごしてから、神殿を出る。
だが家にそのまま帰る前に、パーシーには寄る場所がある。
「クリス様、娘さんがお迎えに来ましたよ」
職員の一人から声をかけられ、俺は机から顔を上げる。
もうそんな時間か。
急ぎの仕事は午前中の内に片付けたので、帰っても問題ない。
というより、ゼリックさんに事情は話している。
「というわけで、お先に失礼します」
「お疲れ様でした、クリス様。お子さんがお迎えに来てくれるなんて、羨ましいですね」
快く送り出してくれてはいるけど、ゼリックさんの笑い方はどこか人が悪い。
灰色の口髭を整えながら、ひらひらと手を振っている。
「子供に迎えにきてもらう親って、真面目に考えたら格好悪いですね」
わざと自嘲的に答えてみたが、相手は意外にも笑わなかった。
コホンと小さく咳払いしてから、ゼリックさんはピンと姿勢を正す。
「どこも格好悪くありませんよ。娘さんはクリス様が好きだから、早く顔を見たいんでしょう。子供にそれだけ想われているというのは、素直に良いことではないですか」
「――こう、たまに思うんですが」
「何か?」
「堅物の副宰相なのに、ゼリックさんてたまに人間味あること言うよね」
俺の誉め言葉に、ゼリック=フォン=ボルタニカは苦笑しつつ答える。
「事務能力だけの男と思われては心外ですな。他人の心の機微についても、それなりに敏いつもりですよ。論理だけでは、中々人は動かない。人情が分からないと、良い仕事は出来ないと思っていますから」
「覚えておきますよ。それではお先に失礼します」
わざと茶化したふりをした。
でも、彼が言ってることは真っ当だ。
こういう人と働いているから、俺も色々助かっているんだな。
「それじゃ」と軽く一礼して職場を出る。
扉をくぐると、急に天井が高くなった。
開放感を重視しているからか、執行庁の建物はそういう造りになっている。
廊下を進む。
窓から斜めに射し込む淡い光は、今が夕方だと告げていた。
そうか、まだそんな時間なのか。
これくらいの時間に娘と一緒に帰宅出来るというのは、結構いいものなのかもしれない。
「あっ、パパだー!」
廊下の先から聞き慣れた声がした。
とてとてと音を立てて、パーシーが小走りで向かってくる。
廊下を走るのは厳禁と言い聞かせたから、何とか守ろうとしているらしい。
何も言わなかったら、きっと全速力だろう。
「お迎えありがとうな、パーシー」
「うん!」
勢いのついた小さな体を抱きとめてやる。
はは、まだ軽いなあ。
早く大きくなれよな。
そんなことを考えながら、そのまま肩に乗せてやった。
肩車だ。
これをやると、パーシーは喜ぶ。
「わっ、たかーい!」という歓声に、俺は表情を緩めた。
「エミリアさんとモニカさんは?」
「入り口で待ってるよー! あのね、今日もパーシーお利口にしてたよっ。エミリアさんにほめられたもん」
「そうか、そうか。後でゆっくり聞かせてもらうよ。お腹空いた?」
「うん、ぺこぺこー!」
元気のいい声が頭上から聞こえてきた。
そうだな、たくさん遊べばお腹も減るさ。
甘いかもしれないけれど、パーシーが食べたいものを作ってやろう。
「今日、何か食べたいものあるかい」
軽い調子で聞いてみた。
「うんとねー、納豆ネギチャーハンがいーなー! あのネバネバ乗ってるご飯!」
パーシーの返事は明るい。
一点の曇りも、そこには無いように見える。
「納豆ネギチャーハンか……渋いセレクションだなあ。あれ、子供向けじゃないと思うんだけど」
「そんなことないよお、オムライスの次くらいに好きー。それにね、とっても珍しい味だから、帰る前に食べたいっ」
「ああ、まあ確かに珍しいわな」
パーシーを肩車したまま、俺は遠い目をしてみた。
最初あの謎の食材を見た時のことは、恐らく忘れられない。
ぬめりを帯びた豆はてらてらと光り、腐ったような独特の臭いをまき散らしていた。
ヤオロズにはめられたとさえ思ったな。
「あれがいいのか?」
「うん! ご飯と炒めたら、すごくぶわっとお豆の味がしておいしいからー」
「分かったよ、そんなに言うなら作ってやるよ」
答えながら、肩車していたパーシーを下ろした。
もう執行庁の入り口近くだ。
エミリアとモニカが、こちらを向いて立っている。
待っていてくれたんだろう。
二人に軽く右手を振りながら、左手でパーシーの右手を取った。
「なあ、パーシー。この四日間さ、楽しかったか?」
小さな暖かい手が、俺の手をきゅっと握り返してきた。
「うん! パパに会えたし、お料理美味しかったもん! やっぱり来てよかったっ!」
「そうか、良かったな。パパも楽しかったよ」
パーシーが勇気を出して来てくれなかったら、こんな思い出も作れなかったんだ。
「行こうか、二人が待ってる」と手を引きながら、俺は一歩を踏み出した。
夜が来て、明日が来て、そうしたらこの子は家に帰る。
母親が待つ家に帰る。
それは分かっているけれど、それでも。
きっとこの時間は、俺とパーシーだけの宝物なんだろう。
そう、その夜一緒に食べた納豆ネギチャーハンは、格別に美味しかったさ。
「この豆、腐ってますよおっ!?」とどこぞの聖女が悶絶していたが、無視だ無視。