26. 少しの間、娘と一緒
「うん、少しの間だけこっちで預かるよ。それくらいなら、うちでも大丈夫だからさ。心配することないよ」
ぼんやりと光る石板に手を当てながら、会話に集中する。
俺の声に少し遅れて、相手の言葉がゆっくりと響く。
「そうね。それがいいかもしれないわね」
落ち着いたトーンの女の声だった。
それでも僅かに困惑の響きがあるのは、状況的に仕方ない。
俺が黙っていると「パーシーの気持ちを察してあげるべきだったわね」と続いた。
同感だねとは言わなかった。
その代わりに「余裕が無かったんだろ。別に君の実家が嫌いになったわけじゃないんだ。落ち着いたら、送っていくよ」と答える。
「分かりました。それではパーシーをお願いします、クリストフ=ウィルフォード様。聖女様にもよろしくお伝え下さい」
「承知しました。マルセリーナ=フォン=ロージア様」
会話は終わり、石板が光を失った。
発光しなくなれば、通信呪文に使う魔道具もただの石ころだ。
しかしさ、元妻と話すのって結構気疲れするなあ。
小さく息を吐きつつ、肩を回しながら振り向く。
エミリアと目が合った。
部屋の隅で待っていたらしい。
「あのぉ、もうよろしいのですかー」
「見ての通り終わったよ。これ使わせてくれてありがとう」
「いいえー、どういたしまして」
ぺこりと頭を下げて、エミリアが気遣わしげな視線を寄越す。
その視線の意味を測りかねて、一瞬だけ戸惑った。
「何だよ。神殿の施設の使用料なら、後で払うって」
「いえいえ、そんなことではないですよぅ。ただ、さっぱりしてるなぁと思ったのですー」
「俺とマルセリーナの会話のことか」
エミリアに席を外してもらっても良かった。
だが、この件では彼女も関係者だ。
そのため、会話が終わるまで控えていてもらった次第というわけ。
この気まずそうな顔を見ると、その判断が正しかったのかは微妙な気がするけど。
「ええ。不躾ですけど、もっとギスギスして気まずいかなーと思っていたんです。意外とさっぱりしているんですねえ」
「ギスギスした空気は、離婚前に嫌というほど味わったからな。お互いもう疲れたから、それはやめようってだけだ。パーシーのことしか話さなかったし」
「そんなものなのですかー。あ、それで数日間一緒に暮らすことで決まったのですよねー。うんうん」
「その嬉しそうな顔は何でしょうか、エミリアさん」
部屋を出ながら問いかける。
薄手の絨毯を軽やかに踏みながら、エミリアはにっこりと笑った。
「いえ、パーシーちゃんのお世話をしてあげられるなあと思っただけですー。子供用の可愛い服買ってあげたり、お膝に乗せて遊んであげたり! 色々できますよねー!」
「たった数日だから、そんなに買い物とかいらないよ。着の身着のままでいいくらいだ」
「えええ、そんなの面白くないんですよー。ちっちゃい子の服って、可愛いじゃないですか! モニカも楽しみにしているんですよぉ!」
「うちの子、おもちゃじゃないんですけどね。まあ、でも」
「まあ、でも?」
「可愛がってもらえるのは、正直ありがたいよ」
そう、どのみちエミリアとモニカに迷惑かけることにはなる。
なので、気にはしていたんだ。
俺はエミリアに小さく頭を下げる。
「少しの間だけど仲良くしてやってくれ。頼むよ」
「任せてくださいよぉ! 三食全部、クリス様に作ってもらっているんですからぁ! 恩返しと思えば、お安い御用なのですー!」
ドーンと力強く胸を叩きながら、エミリアが鼻息荒く答えた。
割りと胸がある方なので、そういう仕草は目に毒だ。
揺れる。
この子、あんまり分かってないよな。
「あのさ」
「何でしょうかー?」
「いや。別に何もない」
女らしさとは何かとか、俺が教えることじゃないよな。
後でモニカにでも話してみるか。
✝ ✝ ✝
結果から言うと、その日から四日間、パーシーをうちで預かることになった。
俺がつきっきりで一緒というわけにもいかないので、昼間はモニカに頼むことにした。
そのせいで頭が上がらない。
「ほんと悪いんだけど、よろしく頼みます」
「いえいえ、いいのですよ。クリス様のお願いならば、国からの公式な命令も同じです。神殿からも了解は得ましたので、お気になさらずに」
「そうですよー。昼間はモニカに神殿まで連れてきてもらえれば、暇な神官や聖女見習いが相手してくれますし。絶対楽しいですよぉ」
エミリアが横から顔を出してきた。
暇なというところに引っかかりを感じたが、贅沢は言うまい。
女神アステロッサの神殿で預かってくれるなら、勉強にもなるし。
「というわけだ、パーシー。こっちにいる間はなるべく早めに帰るから、夕ご飯は一緒に食べような」
傍らのパーシーを抱き上げてやる。
幼児特有のせいか、体がふにゃりと柔らかい。
俺と目線を合わせながら、小さな顔がニパッと笑った。
「うん! パパ、ご飯作ってくれるのー?」
「おー、当然。何か食べたいものあるか?」
「パパの作ってくれるものなら、何でもー」
「あ、私、から揚げがいいですぅー。きちんと醤油の風味がきいているのをお願いしますー」
「あ、あの、私も。その、パーシーちゃんが食べたオムライスというお料理を、ぜひ」
うん。
パーシーはいい。
至極まともで聞き分けがいい。
だが、エミリアとモニカ。
「お前らはダメだ」
「「ええー!」」
「と言いたいところだけど、作ってやるよ。迷惑かけてるからな」
一斉に歓声が上がる。
パーシーまで一緒になって喜んでいる。
ま、いいか。
美味しく食べてくれるなら、作りがいもあるさ。
窓の外を見ると、暗くなりかけている。
夕ご飯にはちょうどいい頃合いだ。
「これから作るけど、今日はお任せでいいかい。から揚げとオムライスは明日以降な」
異論は誰からも出なかった。
モニカも一緒なのは、もはや何の不思議もない。
一人分くらい増えても、大した手間じゃない。
今ある食材で作れるものというと、そうだなあ。
たまには魚介類もいいな。
「ブイヤベースにしよう。魚は問題ないな?」
旬の魚であるスズキが手元にある。
両手で抱える程の大きさがあり、あっさりした白身魚だ。
貝もハマグリやムール貝があるので、いい出汁が取れるだろう。
想像するだけで磯の香りが漂いそうだ。
「ちょっと待ってろ」と食材を取りに行こうとすると、エミリアに声をかけられた。
「クリス様、ブイヤベースって何ですかー? お魚のお料理ですかー?」
「ああ、魚介類をオリーブオイルで炒めて、ニンニクや野菜と一緒に煮込んだスープだよ。独特の風味があって美味しいぞ」
「お魚……あんまり食べないですねえ」
エミリアがそう言うのは分かる。
ここ、エシェルバネス王国の王都は、内陸部だ。
海に面する沿岸ならともかく、保存の問題から海産物はあまり流通しない。
冷凍保存が可能な地球とは、そこが大きく違う。
技術力の差はどうしようもない。
俺はヤオロズからその恩恵を受けているが、あくまで例外だ。
「オリーブオイルで炒めると、脂の乗り切った大きな魚がジュッとはねてだな。潮の香りを台所中にまきちらしながら、その脂を透き通らせていくんだ。スープも最高だぞ。特に貝からにじみ出る旨味は、肉には出せない深みがある」
「はうっ!? オリーブオイルって分からないですが、すごく空きっ腹にきましたっ」
「ふわー、パパのお料理美味しそうー」
「パーシーちゃん、よだれが垂れてますよっ。気持ちは分かりますけど!」
エミリアだけじゃなく、パーシーとモニカも悶えている……いや、それはさておいてだ。
四日間か。
短いかもしれないけれど、楽しい日々にしてみせるさ。