2.偽装婚約している理由
どんよりとした気分のまま、俺は目の前の男と視線を合わせる。
歳は五十歳に僅かに届かなかったはずだ。
灰色の髪を綺麗に整え口ひげをたくわえた風貌は、どこからどう見ても紳士だ。
だが、長年の付き合いがある俺は、彼の内面が策士だということを知っている。
「ゼリック=フォン=ボルタニカ副宰相」
俺にその名を呼ばれた男――ゼリックさんは、首を傾げた。
「何か、勇者様?」
「昨日の今日だ、あの聖女との偽装婚約は百歩譲って認める。だが、同居は中止ってわけにはいかないかな?」
俺の言葉に対し、ゼリックさんは肩をすくめた。
「やれやれ、聞き分けのないことをおっしゃるのですな」
「いや、ちょっと、聞き分けがないって」
「よろしいですか、勇者様。二度とは申しませんから、よくお聞きになってください。あなたが前妻のマルセリーナ様と離婚されてから、もう四ヶ月が経過いたしました。国の要人たる勇者クリストフ=ウィルフォード様が独り身では、国家としての面子が保てません。これは申し上げましたね?」
「聞いた、耳にタコが出来るほど聞いたよ」
ついこないだ聞いた事を忘れる程、歳は取っていないつもりだ。
俺はまだ三十二歳だぞ。
「ごほん、よろしい。しかして、一向に次のお相手が定まる様子も無し。これを見かねて、聖女エミリア=フォン=ロート様ととりあえず婚約していただく……これをご説明させていただきました。そしてあなたはそれをご了承したのですよ」
「……相違ない、だが」
「だがもへちまもありません。偽装婚約とはいえ、婚約は婚約。お二人が同居していた方がより自然です。それにエミリア様は神殿内のご自分の部屋を、既に引き払っております。自分より一回り近い年下の女子を、あなたは路頭に迷わせる気ですか?」
「いや、そんなつもりはない。ないけどな、一晩考えたけど、その気も無いのに未婚の男女が一つ屋根の下ってさ。絶対問題発生するだろ。事が起こってからじゃ遅いんじゃないかって、俺は危惧してるんだよ」
俺の必死の弁解を、あろうことかゼリックさんは鼻で笑った。
く、こいつ!
「そんな心配はエミリア様当人がなさればよろしいのです。副宰相として発言させていただきましょうか。勇者と聖女のカップルが成立するのは、我らがエシェルバネス王国にとって大変喜ばしいと。人も羨むロイヤルカップルだ。ですから」
「何だよ?」
「さっさと過ちが起きればいいな、と私は願っております」
断言するかのように、ゼリックさんが告げる。
くそう、この腹黒副宰相が。
口で勝てる気がまるでしない。
よほどの事が無い限り、俺はあの生活能力皆無そうな聖女と同居続行か。
過ちなんぞ起きてたまるか。
「分かったよ、ちくしょう。けどな、聖女があんなに生活スキル低いとは聞いてねーぞ」
傍らの椅子に腰掛け、俺は愚痴った。
愚痴ったからって問題が解決するわけじゃないが、人はそんなに合理的には出来ていない。
そんな俺とは対照的に、ゼリックさんは穏やかな表情のままだ。
「ずっと神殿住まいなのです、それもやむを得ないとご理解ください。そう、九年前に魔王を討伐したクリス様なら、彼女の教育くらい容易いはず」
いつもの呼び名に戻ってやがる。
「今さらおだてても何もでねーよ。俺が手取り足取り教えてやらねえと、あの娘やばいぞ? 今朝もすごい寝癖のまま、起きてきたんだぞ?」
「良いではありませんか、元気があって」
「髪に元気があっても仕方ねーだろ!?」
「いや、失敬。ですが色々言いながらも――」
束の間、ゼリックさんは沈黙した。
俺にお茶のカップを差し出しながら、また口を開く。
「自分の手料理を食べてもらう人がいることが、嬉しくはないのですか? クリス様はそういう方だと私は記憶しております」
言葉に詰まった。
離婚してからのこの四ヶ月間、呆けていた自分を見透かされていたようだ。
いくら俺が料理を作っても、食べてくれる人がいないと作る意味がない。
空虚な時間はもうたくさんだ。
だから渋々頷いた。
「そいつは認める。朝飯に出したピザトーストも、美味そうに平らげてた。弁当も持たせたよ。舌に合うかどうかは分からねえけどな」
「ほら、やっぱりね。何だかんだ言っても、クリス様はお腹の減っている人がいたら見捨てられないんですよ」
「ちっ、ほっとけよ」
くそう、俺、まんまと国の都合ではめられたくさいんだよな。
勇者様もついにやきが回ったか?
けど不思議なことに、そんなにイヤなわけでもない。
弁当受け取った時のエミリアの笑顔を、不意に思い出したからだ。
あの娘、本当に嬉しそうだったな。
「果たして舌に合うかどうかは別問題だけどな」
わざと憎まれ口を叩く。
「いやいや、大丈夫でしょう。うちの家内も、クリス様の手料理は絶品と言っておりましたよ。あの料理、何でしたっけ、卵を焼いて繊細な味付けをした」
「だし巻き卵か?」
ピンと来たので、俺は自分の弁当箱を開ける。
エミリアの分だけ作るのも不経済なので、自分の分も作ったのだ。
ほわりとカツオ出汁の効いた卵の匂いが、弁当箱から広がった。
「そうそう、これです! また食べたいと願っているのですよ!」
「今度また作ってきてやるから、奥様にはそう伝えてくれよ。今日はダメだぜ、これは俺の弁当だからな? ゼリックさんに分けてやる余裕はねえよ」
作るのも好きだが、俺は食べるのも好きなんだ。
だから、弁当のおかずは簡単にはあげないんだよ。
例え相手が副宰相でもね。
「ふふ、それは楽しみですな。家内と共に心待ちにしておきましょうか」
「と言いつつ、その物欲しそうな目は何だよ?」
分かっていながら、あえて聞く。これぐらいのイジワルは許容範囲だろ。
「いやあ、そのベーコンが巻きつけられた緑の野菜が美味しそうに見えまして。何ですか、それは?」
「ああ、これは見たこと無かったか。アスパラガスって言うんだよ。この前さ、異世界から送られてきた。油とは相性いいから、よくベーコンとは組み合わせて使う」
「ほう……実に、こう、瑞々しさを放つ野菜ですね。どんな感じの食感がするのですか」
「繊維質が適度に多めで、シャクリとした歯ごたえが特徴かな。取り立てを茹でても美味しいんだぜ。ま、今日はあげないんだけどな?」
「ぐ、ぐぬぬ、聞くのではありませんでした」
ゼリックさんは歯ぎしりするが、仕方ないだろ。
「次に入手したらおすそ分けするよ」とだけ言い残して、俺は自分の席に戻った。
さー、昼の弁当を楽しみにして働くとするか。
働かざる者、食わずべからずが俺のモットーだからな!