18.夕暮れ、追憶、そして再会
ぱたぱたと音を立てて、小さな女の子が俺の横を駆け抜ける。
何がおかしいのか分からないが「キャー!」という笑い声が耳元を掠めた。
「待ちなさい、こら!」と声をあげながら、母親らしき若い女がその後を追っていく。
ぶつからないように道を空けると「すいません!」と頭を下げられた。
急いでいたからだろう、多分俺が勇者とは気が付いていない。
何とはなしに見送ると、ちょっと先でさっきの女の子が捕まっていた。
はい、鬼ごっこはおしまいだ。
「やだ、やだ、もっと遊ぶのー」
「ダメでしょっ、もうこんな時間なんだから。帰ってご飯の支度しないといけないの!」
「えー、うん、じゃあ帰るう」
「よしよし、いい子いい子。さ、おいで」
耳に飛び込んできた会話は、どこにでもある他愛無い内容。
どこの家庭にもある、何てことの無い日常。
初夏の夕暮れの中、その平凡で暖かな光景が赤い光に斜めに浮かび上がる。
多分、こんなことをあの親子は何度となく繰り返してきて、これからも何度となく繰り返すのだろう。
そんなことを思った。
フッと記憶が過去に飛ぶ。
胸の中に引っかかった何かが、チクチクとして邪魔だった。
"ちぇっ、俺らしくもない"
視線を前へと戻し、足を進めた。
気持ち速めに歩きながら、そのチクチクとしたトゲを無視した。
それでも喉に引っかかった魚の小骨みたいに、それはしばらく俺の心に刺さったままだった。
まったく、俺も女々しいもんだな。
自嘲の念が、口元を歪ませる。
けれど、今思えばそれは何かの予兆だったのかもしれない。
✝ ✝ ✝
うちに着いた瞬間、違和感があった。
大人が二人いることは気配で分かった。
けれど、もう一つ小さな気配がある。
エミリアとモニカの他に、誰かいるのだろうか?
「ただいまー。おーい、誰かお客さんでもいるのか?」
声をかけると、奥からエミリアが飛び出してきた。
長い栗色の髪を振り乱している。
いや、それはいつものことなんだけど、ずいぶん慌てて見えるのは何故だろう?
「どうかし」
「クリス様っ、いいところにっ!」
俺の問いを遮って、エミリアが低く鋭い声を発する。
そのままぐいぐいと右手を引っ張られ、居間へと連れていかれた。
何なんだよ、いてえな。
けど、そんな文句も口を出る前にぱっと消えたよ。
あまりにも意外な人物がいたからな。
「おかえりなさいまし、クリス様。良かった、もうどうしようかと思っていました」
長椅子に腰かけながら、モニカが苦笑している。
その藍色の目がついと下がり、彼女の膝の上――いや、正確には膝の上で眠る小さな人物に注がれた。
「え、おい、何でここに」
癖のある茶色の髪が、夕陽を反射している。
寝ているらしく、その小さな肩が規則正しく上下している。
うるさくない程度にフリルのついた服は、この人物のお気に入りだった服だ。
ころりと顔がこちらを向いた。
まぶたは閉じられたままだ。
ぷっくりとした柔らかそうな頬が、モニカの膝に当たる。
「クリス様、この子やっぱり」
「うん」
エミリアのいつになく真剣な声にうなずく。
「俺の子供だよ。パーシー、パーシー=フォン=ロージア。嘘だろ、どうやってここまで来たんだ?」
離婚した時に親権を手放した。
今は、パーシーは俺の元妻であるマルセリーナ=フォン=ロージアと住んでいる。
そのはずなんだけど、何で目の前にいるのだろうか。
いや、ダメだ。
驚いてばかりじゃ何も進まない。
とにかく事態を把握しないと。
額に手を当てながら、エミリアとモニカの顔を交互に見る。
「この子を無理に起こしたくないから聞くけどさ。うちを訪ねてきたのか? 事情は聞いた?」
「はい、最初に応対したのは私ですね」
モニカが手を挙げる。
寝ている子供――パーシーを起こさないために、声は小さい。
目だけで促すと、彼女はゆっくりと話し始めた。
「夕方になる少し前くらいでしょうか。午前中に忘れ物をしたことを思い出して、こちらに寄らせていただきました。そうしたら、こちらのお子さまが家の前にいたのです」
「一人で?」
「はい。身なりのいい服装をしてらっしゃったので、変だなとは思いました。それ以前に、子供が何の用でこの家にとも」
確かに。
偽装婚約中の勇者と聖女に用のある子供なんて、そうそういない。
パーシーが目覚めないことを確認しつつ、モニカは説明を続ける。
「ただ放っておくわけにも参りません。声をかけると、パーシー=フォン=ロージアと名乗られました。同時にクリス様の子供と明かされ、驚きましたね。私も自分の名前と立場を明かすと、家に入れてくださいと言われまして……」
「あのお、順番としては私がその後に帰ってきたんですよう。多分相当疲れてたらしく、モニカの膝の上ですーすー寝ていたんですー。おせっかいかなと思ったんですけど、疲労回復の呪文唱えておきましたよぅ」
エミリアが口を挟む。
「すまないな」と答えながら、眠り続けているパーシーの顔を見る。
最後に見たのは六ヶ月前か。
少し大きくなったと思うのは、親の欲目だろうか。
「どうしてここに来たのか、パーシーは話したかい」
「ううん、私は聞いてないですねぇ。モニカは?」
「申し訳ありません、私もお聞きしておりません。パパが帰ってくるまで待たせてください、と……それしかお話してくれず」
「そう、か」
続ける言葉が見つからなかった。
マルセリーナは別れた後、パーシーを連れて彼女の実家に戻っている。
ここ王都から、馬で二日ほど西に向かったところだ。
領地としては、この国の中心と言っていい。
大して離れてはいない。
けれど何のつてもない四歳の子供にとっては、結構な距離だろう。
"起こすのもかわいそうだよな"
膝を着き、パーシーの顔をもう一回近くで見た。
事情はどうあれ、俺の血を引いた子には違いない。
わずかなためらいを振り切る。
「すまなかったな、モニカ。俺が預かるよ、貸してくれ」
「え、はい」
起こさないように慎重に、モニカからパーシーを受け取る。
幼児特有の柔らかい体が両の手のひらに乗る。
少し高めの体温は昔からだったか。
「エミリア、悪いけど夕飯ちょっと待ってくれないか。モニカ、預かってもらってありがとう。引き止めて悪かったな」
「はい、もちろんいいですようー」
「いえ、クリス様のご息女ですし当然です。もし何かありましたらお呼びください」
「悪い、恩に着る」
こうやって話す間、パーシーの顔から目が離せなかった。
起きたら何を聞けばいいのか。
何を話せばいいのか。
そんな疑問も浮かんだけれど、後回しでもいいだろうよ。
ほんのちょっとくらい、久しぶりの娘の寝顔を眺めさせてもらっても――バチは当たらないだろうから。