15.聖女、カレーライスに夢中になる
空腹だった。
昼から働きづめで、水を飲むくらいの暇しかなかった。
あまりに空腹過ぎて一時的に空腹を忘れるほど、エミリアは空腹だった。
「熱いから気をつけろよ?」とクリストフ=ウィルフォードに注意されても、右の耳から左の耳へと素通りだ。
右手に握ったスプーンを、迷うことなく目の前の料理へと突っ込む。
馴染みのない刺激的な匂いが鼻孔から侵入し、空っぽの胃を直撃した。
待ってて、私の胃袋!
今、その飢えをこの未知のお料理で満たし――ふわっ!?
「辛っ、あ、いや、でも、美味しいっ!?」
辛い。
それは確かだ、だがこの辛さは刺すような辛さではない。
どろりと濃厚なこの茶色いソース、カレールーと呼ばれていたか、は多種多様の味を含んでいる。
それを辛さが美味くまとめている。
"ピリッとじゃなくて、じんわりと優しく包み込むようなスパイシーな辛さっ……とろとろと舌の上に広がる辛さの中に、甘さが広がってっ……"
異世界の料理とは聞いていたので、期待はしていた。
しかしこれは予想以上だ。
何種類もの香辛料を使っているのか、この茶色いカレールーとやらがエミリアの舌を魅了してやまない。
最初に感じた辛さが薄れると、別の味が顔を出す。
甘さ、これは果物や野菜の甘さだろうか。
香辛料の他に果物や野菜を隠し味に使っているのか。
そこに酸味がアクセント程度に忍び込み、複雑さを更に増している。
「こ、これがカレーライスっ! なんという絶妙な味覚のハーモニーなのですかっ!?」
「え、そんな大げさな」
「大げさなんかじゃありませんっ! これ、ものすごく美味しいですっ!」
スプーンを忙しく皿と口の間に往復させながら、エミリアはクリストフに感想を告げる。
具もまたいい。
しんなりと炒められた玉ねぎは、滋味あふれる自然な甘みをたっぷりと含んでいる。
このじゃがいもはどうか。
ほっくりと茹で上げられ、カレーの辛さをちょうど良く中和してくれている。
カレーの具として使われることで、玉ねぎもじゃがいももそれぞれの本領を存分に発揮している。
「そしてお野菜も美味しいのですが、何よりこのお肉がまたっ……空きっ腹にガツンとくると言いますかっ……!」
夢中であった。
白いご飯と共に、カレールーと肉をほおばる。
肉は二種類あるようだ。
片方は鶏肉だろうか。
比較的あっさりとしていて、とても柔らかい。
ぷりぷりした肉質がカレーの複雑な辛みとマッチして、舌の上でとろけるようだ。
そしてもう一種類ある。
鶏肉より、ほんの少しだけ固い。
いや、固いというよりはむしろ、ぷちりとした歯ざわりが心地よいのか。
噛むと独特の癖があり、それがまた楽しい。
鶏肉がカレーの従順な引き立て役とすれば、こちらの肉はカレーと真っ向から張るだけの存在感がある。
だが互いの個性を損なうことなく、逆にお互いを照らし出しているような――!
「クリス様、このお肉何ですか? こっちのちょっとだけ固くて、でもすごく美味しい方ですー」
「ああ、それ? 一角うさぎの肉だよ。分かんないよな、これだけ丁寧に下処理されてたら」
「え?」
一瞬エミリアの思考が停止する。
聞き間違えだろうか。
「だから一角うさぎの肉だよ。あの低ランク冒険者の標的になるやつ。炊き出しの時は聞かれなかったから、わざわざ言わなかったけどな」
「こ、このカレーにベストマッチしているお肉が!? 肉汁がじんわり滲んで、カレーの辛旨さにコクを添えるこのお肉が!? 臭くてエグくて食べられたものじゃない、あの一角うさぎのお肉なんですかぁー!?」
「うん。もちろん普通に食べられる肉にするために、色々手は施したよ。血抜きした後で、白ワインをふりかけたのがまず第一。酒で肉の臭みを取る方法があるというのは、エミリアさんも知っているだろ?」
「はい、それは知っていますよぅ。でもそれだけじゃないですよね? 第二の方法があるんですよね?」
エミリアは確信していた。
一角うさぎの肉は、普通なら食材には使えない。
飢饉の時などに仕方なく食べるような――そんな肉が何故これほど美味しいのか。
「ああ。種明かしすると、パイナップルに漬け込んだ。異世界の果物だ」
答えながら、クリストフが手元の小皿をこちらに向ける。
そこには輪切りにされた果物が、数切れ乗っていた。
綺麗な黄色い果肉が印象的だが、これが一角うさぎの肉を変えた?
たかが果物なのに?
エミリアは「何をどうやってですかー?」と素直に聞いた。
考えても分かる訳がないからだ。
「詳しい理屈は俺も知らん。ただ、このパイナップルの酵素、ええと中から染み出す液体の中の成分かな、には肉を柔らかくする効果がある。更に果物なので、天然の甘みが肉に追加される。白ワインによる効果と合わせて使えば、十分使える肉になるってわけだ」
「ええっ、そんな素晴らしい効果がっ!」
「正直言うと、俺も半信半疑だったけどな。味わいが違う二種類の肉を使えたから、面白いカレーになって良かったよ」
クリストフは微笑すると、自分もスプーンを持った。
彼は彼で空腹なのだと気が付き、エミリアはまたカレーを食べることに集中する。
「クリス様って凄いのです」と呟きながら頬張るカレーは、コクと旨味が凝縮された辛さを存分に彼女の口に展開してくれた。
カランと空になった皿に、スプーンが転がる。
「ごちそうさまでしたぁー、美味しかったー!」
エミリアは満足感で一杯だ。
これ以上の幸せは無い。
向かいの席では、クリストフが同じように食事を終えている。
「お粗末さま」
「いえっ、とびっきりのごちそうなのですぅー! はー、お料理上手って素敵ですねー!」
エミリアの言葉に、クリストフはただ微笑するだけだ。
銀色の髪が微かに揺れる。
勇者クリストフ=ウィルフォードと卓を挟み、それどころか偽装婚約して同居している。
そう思うと、エミリアは奇妙な状況だと思わざるを得なかった。
"誰がどう考えても、おかしな状況でおかしな関係なのです。でもこれはこれで"
少なくとも今は幸せかもしれない。
こんな美味しいものを食べられるのだ。
文句は言えない。
食後の余韻に浸りながら、エミリアはふと一つの問いを口にする。
今なら聞いてもいいだろうか。
「あの、クリス様。クリス様は何故、お料理が好きなんですか?」
それは前からずっと思っていた疑問。
聞かれた男は、ツ、とその青い眼光を閃かせた。
「んー、俺が料理していたら不思議かい?」
「不思議ですよー。食べるのが趣味という男の方はたくさんいます、でもクリス様みたいにお料理作るのが好きな方は少ないですよぅ」
エシェルバネス王国では、伝統的に男が料理をすることはあまり無い。
厨房に立つことは男子の仕事ではない――そのように考える人が多いのだ。
「そうかー、うん。ま、答えるとしたら単純な話さ。俺が元々寒村の生まれってのは聞いたことあるだろ?」
「はい、クリス様の英雄譚でお聞きした事がありますよ」
「うん。実家が貧しくてね、口減らしの為に俺は自ら村を出たんだ。食い扶持減らす為に仕方なかったんだけど。辛かったな」
クリストフが目を閉じる。
彼の中の時間は、過去へと巻き戻っているのだろうか。
エミリアには分からない。
ただ、頷くしかなかった。
「……はい」
「そんな顔すんな、君のせいじゃない。話の続きをするとさ、二年くらいで傭兵団を抜けたんだ。そのまま成り行き上、冒険者としてギルドに登録した。クエストこなす内に、運良く才能が開花して、あとはご存知の通りさ」
万人の憧れである、勇者の地位に上り詰めた。
そこまではエミリアも知っている。
子供でも知っている勇者の英雄譚である。
知りたいのはその先だった。
目だけで促すと、答えはすぐに返ってきた。
「飢えに悩んだせいか、俺は食べることが好きだ。でもそれだけじゃない。勇者って言っても、やってきた事は破壊活動に違いはない。幾多の魔物を切り倒し、奴らの根城をぶっ壊す。そして攻め滅ぼす。良心の呵責は無かったけど、そんな壊してばかりの生活はもうたくさんだった。心がすさむんだよ」
「あぁ、だから、なのですか」
「そうだね。壊しまくってきた代償に、俺は何かを創りたいと思った。料理ってのは奥が深くてさ、食材と調理法の組み合わせで無限の可能性があるんだ。それでもって、食べた人を笑顔に出来る。自分も食べることが好きだから、料理を極めようと決めるには時間がかからなかったな」
聞いてみれば自然な話だ。
凄いのは、男は料理をしないという王国の風習をまるで気にしない点である。
それだけ意志が強固なのだろう。
"何でしょう、クリス様って"
小さな、けれど確かな暖かさがエミリアの胸に宿る。
"勇者さまと言っても、すごく面白い普通の方なのです"
もちろんいい意味で。
そう思った時、自然と笑顔になっていた。
「なんだよ、ニヤニヤ笑って?」
「いえ、何でもないのですよ。こう、私は幸せだなあと思いまして。こんなに美味しいものが食べられて」
「いーえ、どういたしまして」
プイとクリストフがそっぽを向く。
その横顔はちょっと赤くなっていた。
エミリアの勘違いかもしれない、けれども。
少し可愛いなと思った気持ちは、きっと勘違いではないのだろう。
第16話からは基本的に金、土、日の投稿にするつもりです。