100.聖女、天ぷらに魅了される
エミリアにとって食事は大事だ。
その中でも夕ご飯は特別だ。
朝も昼も大事だが、夕ご飯の重要性は別格と言っていい。
働いてくたびれて、そして迎えるのが夕ご飯だ。
楽しみであると同時に、貴重な栄養補給の機会である。
"それがもうこんな時間なのですー。楽しみでないわけがないのですっ"
心の中ではジタバタしている。
この我慢が報われなければ、多分自分は暴れるだろう。
自信を持って言い切れる。
ローロルンが客として隣にいるが、自制心が働くとは思えない。
「お待ちかね。リヴァイアサンのタタキと天ぷらだ。天ぷらはつゆと塩をお好みで」
陽気な声と共に、クリストフが大皿を食卓に置く。
エミリアは思わず生唾を飲んだ。
何だろうか、この料理は。
今まで数々のクリストフの手料理を食べてきた。
だが、その全てを圧倒している。
それだけの存在感があった。
「むう、妾は異世界の料理は初めてじゃ。聖女様は経験はあるんじゃのう?」
「え、はい。クリス様と同居してからは、ほとんど毎日ですねー。生姜焼き、カレー、オムライスなど色々食べましたよっ」
「ぬ、今のは料理の名前かの。まったく聞いたこともない。ちょっと羨ましいのう」
「ぎ、ぎそ……いえ、婚約している仲ですからねっ。僭越ながら、恩恵に預かっているのですー」
冷や汗をかいた。
根が正直なので、本当のことを言いかけてしまった。
クリストフがこちらを睨んでいる。
気をつけろということか。
いつか打ち明けるとしても、それはこの場ではないだろう。
幸いローロルンは「ええのう、うむうむ」と頷くだけである。
気がつかなかったようだ。
「ほら、会話はそこまでだ。せっかくの天ぷらが冷めちまうぞ。熱いうちに食べちゃえよ」
「そうですねっ。いっただきまーす」
そのとおりだ。
エミリアは全ての意識を食事に向けた。
箸を手にする。
ターゲットを絞る。
ああ、そうだ。
やはりまずは天ぷらだ。
ゆらりと湯気が上がっている。
一口目の温かさを想像した。
たまらず箸を伸ばす。
サクッと揚がった衣の感触が伝わった。
口に含めばどれほどの天国が広がるのか。
「想像することさえ怖いのですー。いや、ともかく食べないとー」
ポツリと漏らしつつ、つゆに浸した。
薄茶色のつゆは、醤油がベースなのか。
この鼻先をくすぐる匂いは、おなじみのカツオ出汁と見た。
いや、もう考えない。
行動が思考を追い出し、エミリアの口を開けさせた。
噛む。
"うっわあ、軽いのですっ!"
サクサクと衣が壊れ、口中でとけていく。
まるで砂糖細工のように軽い。
だが、味はもちろん異なる。
上質の油で揚げられ、香ばしさは恐ろしいほどだ。
抜群の歯ざわりがたまらない。
そして、何よりその中身だ。
"これが伝説の海の魔物、リヴァイアサンですかあー。ほろほろと身がほぐれて、すごく美味しいのですー。ああ、それにこの脂の質感……"
魚に近いと一口目で思った。
クリストフの言った通り、これが天ぷらの凄さなのか。
油で揚げているにも関わらず、風味が殺されていない。
衣で包まれているおかげなのか。
まったりとしていながら、小さくまとまっていない。
適度な歯応えの心地よさ、そしてこの豊潤な味のふくらみはどうだ。
そう、例えるならば――海そのものが舌の上に広がっている。
「これはたまらないな。美味いだろうと思っていたが、予想以上だ。赤身だけだと、ひょっとしたらしつこいかもしれない。白身が入ることで、適度に淡白さが加味されてくる」
「どういう構造の身なんじゃ、これはー! いや、そんなことは後回しじゃ。この天ぷらなる料理、妾は気に入ったぞっ。香ばしさを前面に押し出しているかと思いきや! 本命は中の素材を活かすことにあるとはっ!」
クリスとローロルンの会話が聞こえてくる。
だが、エミリアは食べることに夢中だ。
これほどの美味を前にして、会話は無意味だ。
この未知の味覚は、まさに無限大の広がりを感じさせる。
一口ごとに、豊かな海が舌を支配していく。
海龍というだけあって、潮の気配が微かにある。
赤身に残る濃厚なコクはどうだ。
白身に残る軽やかな旨味はどうだ。
つゆがそれらを更に活かし、より味の輪郭をはっきりさせている。
「これがリヴァイアサン、いえ、リヴァイアサンの天ぷらの破壊力っ。何というスケールの大きい味なのですかー!」
一息入れると共に、自然と感想が口をついた。
ちまちました形容詞は、この料理には不要だ。
恐らく料理の完成形の一つだろう。
素材の良さがフルに活かされている。
その上で、味のスケールアップに成功しているのだ。
それを痛感したことが、エミリアに感嘆の声をあげさせた。
「おっ、エミリアさんの評価が出たな。その顔を見れば分かるけど、満足いったかい?」
「満点も満点ですー。というよりもですねー、点のつけようがないですよぅ。不敬にあたりますよー、そんなことしたらー。多分、リヴァイアサンて刺し身でも美味しいとは思うんですよ。でもでも、衣で包んで間接的に加熱することでっ」
息が切れた。
水を一口飲み、それからクリスの方を向く。
「身の中の旨味が、活性化されてるというのかー。味に立体感が出てると思うんですよっ! 揚げ油が衣を通してわずかに浸透し、身の脂と溶け合って。美味という名の海を、口の中へぶわっと展開するんですよー。これ、凄いのですー!」
「一気に言い切ったなあ。いや、でも分かるよ。俺もこの天ぷら、いい出来だと思うしね。ローロルンはどうだった?」
クリスも相当上機嫌だ。
天ぷらをかじり終えつつ、ローロルンに話を振る。
彼女は彼女で、この天ぷらに夢中になっていた。
美貌のエルフは顔を上げた。
その視線を二人へと移す。
「どうじゃったじゃと? 愚問じゃな。最高に決まっておるわ。揚げたて故のこのパリッとした歯ざわり。そして、このつゆが気に入ったぞ。珍しい味わいじゃが、素材の風味がしっかりと生きておる。甘辛く、だがしつこくはない。そして一噛みごとに、このリヴァイアサンの身が語りかけてくるのだ」
「詩人ですねー、ローロルンさん」
「茶化すでないぞ、聖女様よ。芳醇極まりないこの味は、まさに大海の息吹そのもの。滋味溢れる深い味わいぞ。魚介類独特のさっぱり感に、この赤身がパンチを効かせおる。浅瀬から深海へと引きずり込むような……そう、まさに王者の風格」
しみじみとした口調以上に、その表情が雄弁だった。
「今度は塩で食べる」と言うや否や、もう一つをフォークで突き刺す。
次の瞬間には、塩の小皿に載せていた。
サラッとした塩をまとい、天ぷらは装いを変える。
それを見て、エミリアは触発された。
「私も塩で食べまーす! 熱い内に食べないと、もったいないですよねー」
「うむ、それが良かろう。ほれ、塩の皿はこちらじゃ」
「ありがとうございますー、ローロルンさんー。んんっ、これはまたつゆとは違うのですっ! 一口目のしょっぱさが癖になりそうなのですよー!」
エミリアは歓喜の声を上げた。
恥じらいやマナーという言葉は、どこかに置き忘れた。
今はただ、この天ぷらを味わい尽くしたい。
その欲求だけが彼女を支配している。
「おーい、タタキもあるんだからなー。忘れるなよー」
クリスの言葉は聞こえていた。
だが、しばらくはこの天ぷらから離れられそうにもなかった。