ヤマト計画ヲ阻止セヨ
H-Iロケット
550キロの静止衛星を打ち上げられる、日本の新型ロケットだ。
実はこのロケット、低軌道なら、2,2トンの衛星が打ち上げられる。
米国の最初の宇宙船マーキュリーは1.4トンだった。
マーキュリーは1人乗りだったが、これなら2人乗りだって十分設計可能だ。
「やっと、ここまで来た」
醍醐の胸に感慨深い気持ちが沸いた。
人工衛星は米国1958年、日本1970年
静止衛星は米国1964年、日本1977年
日本の宇宙開発は、米国に比べて概ね12、3年の遅れだった。
しかし、有人宇宙開発は、米国が1962年に既に達成しているのに対して、日本は未だ計画すらなかった。
N-I、N-IIロケットとも、技術導入に人的リソースが取られ、有人宇宙開発まで、手が回らなかったのである。
実は、N-IIロケットの時点で既に、低軌道へ2トンの打ち上げ能力があり、十分可能だったのだが・・・
「よし、あの計画を発表するぞ」
醍醐は、残業の合間や休日を利用して、有志で研究会を開いていた。
俗に言うヤミ研である。
そこで、醍醐らは日本独自の有人宇宙船のプランを練っていたのだ。
そこでは2つの案が示された。
案1:カプセル型宇宙船。米国のマーキュリーを拡大し2人乗りとする。
総重量2トン程度、現在のH-Iでの打ち上げを想定。
案2:再利用型宇宙船。スペースシャトルを小型化し4人乗りとする。
総重量10トン程度、将来開発するH-II以降での打ち上げを想定。
日本の宇宙開発予算は少ない、そこで、醍醐は一計を案じた。
マスコミへの発表である。
いや、リークといった方がよいかも知れない。
名称は当時流行っていたTV番組からとって、その名も「ヤマト計画」。
発表したのは、案2のスペースシャトルの小型版だ。
こちらの方が一般人に分かりやすく、人の目を引きやすいだろう。
翌日の宇宙開発事業団のオフィス内は、沸いていた。
有人宇宙開発は技術者の夢だ。
誰だって関心があるだろう。
「醍醐君、ちょっと」
醍醐は部長から別室に呼ばれた。
見慣れない人物がいた、そうだ新しい理事だったか。
「日米宇宙協力協定については、君も知っているね」
付属の秘密協定。
米国の提供する部品もしくは技術を使用した有人宇宙船開発には、米国政府の承認が必要とされる。
しかし、ここまで厳しいものだったとは。
まさか、あの新しい理事は米国のスパイだとでもいうのか?
醍醐は奮い立った。
米国技術からの完全脱却。
第1段エンジンの自主開発だ。
次こそは米国のMB-3エンジンを廃して、新たな大型液体エンジンを開発するのだ。
仮にLE-7とでも呼ぼうか。そして、新型ロケット、H-IIを開発するのだ。
そして、その時こそ、日本独自の有人宇宙船は、誰にも文句を言われずに作れるだろう・・・