39、それぞれの覚悟
「イル姉、修行しよう。母様の所で」
私の向かい側に座るメルは、至って真面目な表情で突然そんなことを口走った。
「……どしたの、急に?」
それに対して、私の口からこぼれ出たのはメルの発言に対する正直な感想だった。突然そんなこと言われても、としか言いようがない。
働いている最中、裏庭から戻ってきたメルに突然「話がしたい」と呼び出された。その時は店も混み合ってきていたしアリスちゃんが抜けた穴もあるからと断ったのだが、どうしても、と結局半ば強引に部屋まで引っ張られてきてしまい、今に至る。
「突然修行だなんて、お互い仕事もあるのに。あ、それよりメル、鋼兵さんと二人っきりで一体何を―――――――」
……あれ?まさか。思考の片隅に一抹の疑念がぷかりと浮かぶ。正直、当たって欲しくはない疑念だ。しかし、聞かずには何も始まらない。おそるおそる、ソレを口にする。
「……まさかそれって、鋼兵さんとしてた話に関係してたりする?」
一瞬、メルが固まった。それは非常にわかりやすい「図星」の反応だ。
「……うん、まぁ、そうなるかな。」
ややあって口ごもりながら口にしたのは、ハッキリとした肯定。
つまり、つまりだ。メルはこれから鋼兵さんの身に起こる何かを、鋼兵さんひとりの手には負えないと判断した訳で。
私の心にポタリと、一滴の、深く暗い不安と言う名のインクが落ちる。それはじわじわと広がり、見る間に奥深くまで染み入ってゆく――――――
「……イル姉、そんな顔しないで?大丈夫だよ、私も鋼兵さんの事信じてるもの。でも、万が一のために――――――」
よほど不安そうな顔をしていたのか、いつの間にか隣に来ていたメルが私の肩に手を置き優しく語りかけてくれる。
「大丈夫だよ、ごめんね。話聞かせてくれる?」
いつもの私なら、きっとそう言葉にしていただろう。しかし、今日ばかりは違った。
私を不安にさせまいとするメルの行動が、私のささくれだった心を無機質に逆撫でする。私を思いやる優しい言葉が、耳を無意味に通り抜ける。
落ちたインクが、更にじわりと広がって私の内を蝕み黒く染めた。
「――――――やめてよ」
……私よりずっと知ってるくせに。
気づけば、私は肩に置かれた手を強かに払っていた。吐き捨てるような言葉は酷く冷たく、温度を持たない。驚き見開かれたメルの瞳が網膜に焼き付くけれど、もう抑えられなかった。劣情が、溢れ出す。
「……ずるい、ずるいよ。なんで、メルには話すのに私には教えてくれないの?」
口から勝手に零れた言葉は、自分でも驚くほど子供っぽくて、なんともわかりやすい嫉妬だった。自分の声が遠く、他人の物のように響く。
メルの顔が怖くて見れない。どんな表情でこんなにも情けない私を見ているのか。顔を伏せると、大粒の涙がふとももを濡らした。
「私、何も知らないよ。鋼兵さんに何が起こるの?何も知らないのは嫌だよ……っ」
声が震え、言葉に詰まる。メルが話してくれなければ、私は何も知らず明日を過ごす事となるのだろう。手の届かぬ場所で大切な人を失ったとしても、何も知らずに。そんなの、酷すぎる――――
「……ごめんね」
不意にふわりと、柔らかな温度が私を包む。
「……先に、何があったか話すべきだったね。不安にさせてごめん。大丈夫、ちゃんと話す。全部話すから。」
赤子をあやす様に一定のリズムで叩かれる背中。メルは昔からそうだ。私を姉と慕ってくれはするけれど、大切な時にはいつも私よりずっと大人で、落ち着いていて、優しい。
情けない。そう思いはするけれど、この温もりに身をゆだねてしまうのは何故だろうか。
「……ごめん」
はらりと唇からこぼれた言葉にメルがひとつ頷くと、その揺れが私にも伝わってくる。メルは黙ったまま私を抱き続けた。
「……落ち着いたら、ちゃんと話すよ」
「うん、お願い……」
その胸の奥から響く規則正しい鼓動につられ、私も徐々に落ち着きを取り戻してゆく。
やがて涙も乾き、もう大丈夫――――――と口にしようとしたまさにその時、予期していたかのように私を包んでいた心地よい圧迫感が解かれた。呆気に取られた私を見て、メルはにこりと微笑む。
「……メルには本当にかなわないなぁ」
思わず口にすると、先程までの包み込むような母性はどこへやら、メルはいつも通り、何も無かったかのように悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「案外、使い道あるもんでしょ?二人ともおっぱい大好きでよかった!」
……二人とも?今、二人ともって言ったよね?
「ねえ、メル。ちょっとその話詳しく――――――」
「じゃあ、そろそろ話始めよっか」
聞こえていただろうに、メルはわざとらしく真面目な表情に戻り私に向き直った。
……まぁ、いいか。後で問い正せば。
そうして、メルはゆっくりと語り始めたのであった。
◆◇◆◇◆◇◆
「……ねえ、イル姉。」
不意に名を呼ばれ顔を上げると、そこにはどこか寂しさを漂わせる微笑みがあった。
「……私はさ、鋼兵さんが先に私に言ってくれて良かったと思ってるんだ。もちろん私もイル姉の方が先に知るべきだとは思ってるよ。それでも、私が先で良かった」
その笑顔は変わらないのに、何故だかメルが言葉を重ねる度に身に纏う寂しさが増してゆくような気がする。
まるで、なにか大切なことを見落としているような―――――
「だってさ、イル姉が先に知ったら、きっと私に何も言わないで行っちゃうでしょ?私は弱いから結局巻き込んじゃったけど、イル姉はきっと、ひとりで背負い込んじゃう。そんな気がするんだ」
ようやく、感じていた違和感の正体に気づいた。むしろ、何故今まで気づけなかったのか不思議なくらいだ。少し考えればわかる事だったのに。
メルはきっと、私に話すと決めるまでにもひどく悩んだことだろう。メルが進んで私を危険に巻き込もうとするわけがない。
……ああ、そっか。こういう時にするのか。私は静かに両腕を伸ばす。
「……メル、ありがとね。話してくれて」
耳元に口を寄せ、優しく囁く。一瞬強ばったメルの身体は、ゆっくりと弛緩しやがてその重みを私に任せた。触れる体温が心地よい。
「……私のハグでも、ちょっとは落ち着く?」
「……うん。やっぱ、バレちゃったかぁ」
腕の中ではにかむメルを優しく撫でてやると、微かに身体を擦り寄せて来た。その独特の仕草には覚えがある。よくよく見れば
、徐々に身体の変化も始まっていた。
「ああ、そっか。今日って―――――――」
窓から空を見上げると、藍に変わりつつある遠くの空から真円が緩やかに登ってきているのが見えた。
「私に乗ってけばすぐ着くよ。さ、急いで準備して」
次の満月の日は、今日からちょうど一月後だ。その日までに、出来るだけのことを。せめて、一緒に死ねるように。一緒に生きられるように。私が願うのはそれだけだ。
とっぷりと日が暮れ、黄金の真円が藍の頂点へ達した頃、開け放たれた窓から吹き込む夜風がカーテンを膨らませ、ベッドの上に残された置き手紙が、風に触れて微かに揺れた。




