32、決勝
修正前との落差がすごい。
ぎり、と爪先に力を込め、神経を研ぎ澄ます。ティアを奪うと宣言した男を前にして、鋼兵の思考からは既に『敗北』の選択肢は消え失せていた。
とは言え、相手は公式の国のトップ。前回の大会にはでていなかったため実力は未知数だが、当然強いのだろう。油断はしない。
ごわぁあぁん、とゴング替わりの銅羅が響く。それと完全に同時のタイミングで、鋼兵は飛び出した。
「えっ」
間抜けな声を発し、ディランの鼻面に拳がクリーンヒット。何かが砕けるような鈍い音が響く。
「あぁ……?」
鋼兵もこれには思わず、訝しげな声を上げる。正直ノーガードで顔面にヒットするとは思っておらず、牽制のつもりで放った拳だった。
もしや、俺の攻撃など避けずとも効かぬとでも言いたいのだろうか。警戒は解かず、一度離れて構えを取り直す。
「……!!ちょっと待って……うわぁ、鼻折れてない?これ……」
しかし、ディランはボタボタと止めどなく溢れる鼻血に混乱しているようで、到底余裕があるようには見えなかった。
その余りの情けなさに、思わず同情心すら湧く。
「何だよ……王都で自称一番とか言うからただの天狗になってる雑魚かと思ったのに……普通に強いじゃないか……」
おいおい、駄々漏れてんぞ。別に自称してねえし。
──面倒だし、腹立つから手短にボコしちまおうか。
「おい、行くぞ」
「えぇ!?鬼なの君!?あぁあもう!!」
なおも容赦なく殴りかかる鋼兵に、ディランは悲痛な叫びをあげる。しかし拳がぶつかるその刹那、鋼兵の視界が紅く染まった。
「──ッ痛ってぇえ!?」
突如として、二人を隔てるように赤い壁のようなものが発生。勢いそのままに殴りつけた鋼兵は、予想外の痛みに思わず声を上げる。
ディランの固有魔力である《凍血》は、自らの血を武器として戦う、ハイリスクな魔法である。
しかし伸縮、軟硬を自在とするソレは攻防一体を可能にすし、固め防壁とすることで、鋼兵の拳を見事に防いでみせた。
「てめえ、魔法使ってんじゃねぇよ!!これ反則じゃねえのか!?」
『いえ、本人の血を凍らせてるだけですのでアリです』
「自分の身体の一部だからね!」
ザルかよ審判!と言うか、お前ドヤ顔してるけど自分の鼻血で戦って勝ったとして何か嬉しいのか?
「それじゃ、お許しも出たところで──さっさと決めようか」
その声音から先程までのちゃらけた印象がかき消え、その柔和な目付きは獲物を狙う肉食獣のような鋭い眼光へと変貌を遂げる。
なお、鼻血によって迫力は皆無である。台無しだ。
しかし、突如地を這うような動きで俺に迫った血氷は、反射で跳んだ足元で、脚を捕らえんと一瞬にしてとぐろを巻いた。
──あの硬度で捕らえられたら、逃げるのは難しい。捕まったら終わりだと思った方がいいな。
となれば、立ち回りも自然と変わってくる。幸い操れる血の量が少ないためか、追撃の密度は凌げない程ではない。この程度ならば、いっそ懐に飛び込んで決めた方がいいだろう。
もちろん出血しないように、内蔵を損傷させない程度のボディで、だ。
「ふはは、逃げ回ってばかりじゃないか!この鼻の恨みは──うわっ!?」
一足飛びで懐に飛び込み、低い体勢からボディブローを放つ。
しかし、やはり赤い壁──もとい血の盾が、それを阻まんと現れた。
「……君がこれを砕けないのはさっき実証済みだからね」
「……チッ……」
それでもなお、鋼兵は力を緩めない。そして、拳はその超硬度の壁へと激突し、何かが破砕する嫌な、嫌な音が会場に響いた。
「馬ァ鹿、俺が本気だして砕けねぇ訳ないだろうが」
「…は?」
勢いそのままに壁を突き抜け、腹部へと深くめり込む鋼兵の拳。ディランは顔面に驚愕を張りつけ、がくりとその場に膝を着く。
「──がはっ。な、なんで砕けた……?さっきは無理だったのにッ」
「単純に、拳痛めんのが嫌だったんだよ。……くそッ、痛え」
吐き捨て、ずきずきと痛む右手を見る。代償として、鋼兵の中手骨は完全に砕けていた。
「──まあ、左手は残ってるがな。決着だ」
鋼兵は痛みを散らすように息を吐くと、再び拳を振りかぶる──しかしその拳が顔面にめり込むよりも先に、今度はディランが先手を打った。
ディランは両手を真っ直ぐ天に掲げ、声高に宣言する。
「──降参ッ!!」
──それは、紛うことなき降伏のポーズであった。
そのあまりの潔さに、拳を止めた鋼兵は目を点にして、唖然と佇むのみである。
「……お前、情けなくないの?」
「俺は君と違って、明日も仕事があるからね。これ以上の怪我は、仕事に支障をきたすから……もう、十分ボロボロだけどね……。」
余りにも呆気ない決勝戦。勝負が決したと言うのに観客はしんと静まり返り、審判ですらコールを忘れ呆然としていた。
『えっと……あ、勝者、鋼兵。』
かつてこれほど情けない試合終了のコールがあっただろうか。観客も乗るに乗りきれて居らず、決着だというのに、場は冷えきっていた。それどころか、ちらほらと帰って行く者も見える。
「え、本当にお前これで──あ?」
ディランの方へ顔を向ければ、驚くことに、忽然と姿が消えている。目線を動かせば、遠くに駆けてゆく後ろ姿が見えた。
「ええ、マジかあいつ……」
こうして、何とも締まりの無い決闘祭は、参加者、観客すべての心に何とも言えない残念さを残し、幕を閉じた。
さしもの鉄彦も、流石にこの勝利を喜ぶ気にはなれなかったのであった。




