26、私だけの場所
部屋へ入り、ティアをベッドに降ろす。噛み付かれた肩はまだじんじんと痛んでいた。
ベッドの上でティアはふんす、と鼻息荒く、怒り心頭と言ったご様子だ。
「ごしゅじん、ティアのだもん!くっつく、だめ!」
「だからって噛むなよ……」
じんじんと鈍く痛み続ける肩をさすりつつ、隣に腰を下ろす。やっぱり、教育上悪いことをしたら怒るべきなのだろうか?
「……いたかった?」
肩を落とし溜め息をつく俺の心中を察してか、ティアがぴったりと寄り添ってくる。その顔をうかがうと、申し訳なさそうな表情で俺を見上げていた。
え、ちょっと待て。この可愛さしかない娘をどうやって怒れと?だってほら、怒ったら泣いちゃうかもしれない。
いやでも、ここで怒っておかないとこの先問題があるかもしれないし、ここは心を鬼にして叱らなければ。
「すごく痛かった。だから、もう二度こんな事するんじゃないぞ」
怒鳴る事は出来ないので、少し低い声音で諭すように言ってみる。言ってから顔を確認してみると、その不安そうな眸にはすでに薄く涙が溜まっていた。
「ティア、わるいこ……?」
「全然悪い子じゃない!」
はい、ギブアップ。もう無理これ以上言えないです。この表情を見て更に言える奴なんて居る訳がない。
「でも、噛むのは止めた方がいいぞ……?」
精一杯の注意も、口調が探り探りなのが情けない。
「……ごめんなさい」
それでも、ティアがは少しだけしゅんとして肩を落とし、素直に謝罪の言葉を述べた。本当にいい子だな、ティアは。
とにかく、叱るには叱って、ティアも落ち込んだ。それに、ティアは素直に謝ることもできた。俺はティアの脇に手を差し込み、ひょいと膝の上にのせる。
奴隷店に居た頃は今にも折れそうな位に痩せていたが、店に来てからは随分子供らしくぷっくりとしてきた。しかし、それでもティアはまだまだ軽い。
「ごしゅじん、おこる……?」
膝の上から未だに不安そうに見上げるティアの頭にポンと手を乗せ、わしゃりとさらさらの銀の髪をかき混ぜるように撫でてやる。
「もう怒ってない。素直に謝れて偉い子だな、ティアは」
まぁ、最初から微塵も怒ってないんだけどな。俺がティアに向ける感情に怒りは存在しない。
「かんだのに、ティアいいこ?」
「噛んだのは悪い事だけど、ちゃんと謝れたからいい子だ。ティアもしっかり反省しただろ?」
「……うん、もうかむ、しない。ごめんなさい」
ティアは改めて膝の上で鋼兵と向かい合うよう座り直し、ぺこりと頭を下げた。そして、再び顔をあげたティアは耳をぴこぴこ動かし、落ち着きなくそわそわし始める。
最近は、鋼兵の外出も多くなった。鋼兵が居る時間にも、常にアリスがそばに居る。
ようやく鋼兵と二人きりになれたのだ。甘えたいし、たくさん撫でてもらいたい。しかしそれよりも、ティアには伝えたい想いがあった。
「どうした?」
ティアは上目遣いでちらっと鋼兵の顔を確認し、意を決して自分の想いを伝える決心をする。すうっとひとつ深呼吸をすると、真っ直ぐに鋼兵の目を見据えた。
「……ごしゅじん、ティアとあそんでくれないの?」
案の定、鋼兵はティアに不思議そうな顔を向ける。
「アリスと三人で一緒によく遊ぶだろ?」
「ちがうよっ!ごしゅじん、ティアちがうにおいする、いや!おふとんも、おねーちゃんのにおいするもん!」
「そりゃあこの部屋にもよく来るからなぁ……」
おねーちゃん、と言うのはアリスの事だ。この部屋にアリスが訪れ、一緒に遊ぶことも良くある。手をぶんぶんと振り回しながら必死で説明するティアに、鋼兵は「まいったな」と頭を掻いた。
「いやなの!ここ、ティアのへや!ごしゅじん、ティアの!ほかのにおい、いや!」
ティアは立ち上がり、布団の上でその銀色の綺麗な髪を振り乱し、ぽふぽふと足を地団駄を踏む。本人は必死なのだが、傍目に見ればただ可愛らしく我が儘を言っているようにしか見えない。
「わがまま言うなよ……俺はティアだけのものじゃ……」
そこまで言いかけ、鋼兵はハッと口を紡ぐ。なぜティアがここまで俺を独り占めしたがるのか、その理由を思い出したのだ。
確かあれは、ティアに初めて服を買ってやった帰りの事だった。その時ティアは俺の腕の中で、今よりずっと拙かった言葉で、ハッキリと言ったのだ。
《……ここ、わたしの、だから。ほかだっこしちゃ、めっ、だよ。》
今思い返すと、あのときやたらと身体を擦り付けていたのは恐らく匂い付けだろう。あの時はメルと同じ空間にいただけでああなった。それが、今ではアリスをがっつり撫でたり、だっこしたりしている。犬系統の獣人ならば、尚更気になる事だろう。
――――確かに、そりゃ怒るわ。先に約束破ってんの、俺だもの。
目の前で頬を膨らませ、涙の浮かんだ眸で俺を睨みながら服の裾をぎゅうと握って全身で怒りを表現している少女を見る。
途端に、罪悪感と愛しさが込み上げた。あんなに前の会話を覚えていて、ずっとそれをアピールしていたのだ。なんともいじらしいではないか。
「わぷっ!」
俺はティアを抱き寄せ、その小さな身体を包み込むように、優しくぎゅうっと抱き締めた。ティアは一瞬慌てたように手で宙を掻いたが、やがて脱力しきり完全に俺に体重を預ける。
「ごめんな、ティア。忘れかけてた。確かに、俺の腕の中はお前だけの場所だった。」
「そうだよぅ……なのに、ごしゅじん……」
小さな手が俺の服を掴み、顔が押し当てられている場所がじわりと暖かく濡れる。
「どうだ?今は他の匂い、あるか?」
「ううん……ごしゅじんでいっぱい……だいすきぃ……」
ティアは俺の胸板に顔を埋めると、すんすんと鼻を鳴らす。そして、まるで出会った頃のようにぐりぐりと身体を擦り付けた。もしかすると、ずっと我慢してくれていたのかもしれない。
俺はしがみつくティアを抱き直し、肩にあごを乗せる形で抱き上げた。ティアは俺の首に腕を回し、首元に顔を埋め直す。
小さな背中をぽんぽんと叩いてやると、あっという間に寝息をたて始める。珍しく感情を露にして暴れたものだから、きっと疲れたのだろう。
「おやすみ、ティア」
「んにゅむ……おやしゅみ、ごしゅじん……」
俺はティアをベッドに降ろすと、起こさぬよう静かに布団をかけ、柔らかな頬についた涙の雫を親指で拭い取ってやる。
そして、音をたてぬようドアを開くと、部屋を後にし店の方へと向かったのであった。




