華胥の夢
(※とある昼下がりにて)
夢を見ていた。
それが夢だと分かったのは、目の前の光景があまりにも現実離れしたものだったから。
現実離れといっても、空を飛ぶとか、不老不死になるとか、そういう類ではない。
だが――あまりにも生々しく目に焼き付いたその光景は、静かに、そして確実に胸を抉ってきた。
カチュアは自分の小さな悲鳴で目を醒ました。がばっと体を起こすと、無理な姿勢で寝ていた体がビシビシと悲鳴を上げる。
低く唸った後、カチュアはテーブルに肘を突いて額に手の平を当てる。ひらり、とまとめている途中だった取引報告書が床に落ちる。
窓の外は、暖かな夕暮れ時。「ティリスのすずらん」の奥の部屋で一人、書き物をしていたカチュアはいつの間にかうとうとと微睡み、夢を見ていたようだ。
カチュアは緩慢な動作で身をかがめ、足元に落ちていた報告書を拾う。少しだけ埃が付いたそれをぱぱっと手で払い、そしてふと、天を仰いだ。
まだ鮮明に脳裏に焼き付く、先ほどの夢。カチュアは夢を見てもすぐ忘れる質なので余計に、意識に刻み込まれた夢の内容がじわじわとカチュアの胸を侵食する。
不思議な、妙な夢だった。
夢の中のカチュアは、まだ学院の生徒だった。その証拠にカチュアは制服を着ていたし、彼女が立っているのは学院の裏手にある物置同然の空き教室だったから。
だが、カチュアは囲まれていた。ほとんどの登場人物の顔はぼやけており、判断がしづらくなっていた。
それでも、皆の先頭に立つ可憐な少女と、その隣でカチュアに向かって細身の剣を突き付ける青年の姿だけは、認められた。彼らが誰なのかも、分かった。
青年は、少女を庇うようにカチュアの前に立ちふさがっていた。彼の顔は、相変わらず霧に包まれていて分からない。だが、その口元だけは笑みを浮かべていた。
少女が、何かを言う。青年が一歩カチュアに詰め寄り、持っていた剣を振り上げた――
そこで、カチュアは目を醒ましたのだ。斬られた瞬間、ふわりと体が水中から浮上するように上昇し、小さな悲鳴と共に現実世界に引き戻される。
あれは、何の夢だったのだろうか。
カチュアは持ったままだった報告書をテーブルに戻し、腕を組む。
あのボロボロの教室。複数の人間に囲まれる自分。
それは、いつぞや見たことのある光景と酷似していた。ただし、あの時のカチュアは囲まれる側ではなく、囲まれた人物を助けに部屋に乱入した立場であった。
約二年前、夢の中のカチュアとほぼ同じ位置にいたのは、アリシア。編入生メルティ・アレンドラとその取り巻きに拉致され、囲まれ、カチュアたちの乱入がなければ凶刃の前に倒れていたかもしれない、彼女。巡り巡って今はカチュアの友人となり、「ティリスのすずらん」店長として店を切り盛りする、同い年の少女。
実際にメルティ・アレンドラたちに囲まれていたのは、アリシア。彼女はカチュアたちによって一命を取り留めたが、夢の中のカチュアは間違いなく、絶命していた。夢なので痛みも何も感じなかったが、アリシアと違ってカチュアは、誰も助けてくれなかった。
先ほどの夢は、一体何なのか。
二年前のアリシアの身に降りかかった出来事をそのまま、カチュアにすげ替えただけにしては妙だ。アリシアの時、抜刀したのは青年――カチュアの元執事であるラルフ・オードリーだけでなく、剣術講師のルパード・ベルクもだった。その他にも、登場人物の立ち位置などの細部も微妙に違ったはずだ。
夢、と一言で片付けるにしてはあまりにも生々しすぎた。かつて、が付くとはいえ、自分の主君だったカチュアに斬りつけるときのラルフは、笑っていた。冷静でそっけないラルフだが、まさか人殺しをするときに嘲笑したりするものなのだろうか。
レグルス王子などから聞いた話では、ラルフは今、どこぞの鉱山の鉱夫として働かされているという。ラルフは生まれも一流で採掘工事なんてしたこともない。プライドも高い男だったので、屈辱にまみれながら鉱石を掘っていることだろう。
そんなラルフのことなんて、正直ほとんど記憶から吹っ飛んでいた。ラルフの後を追い、憧れを抱いていたあの頃の自分が、今では信じがたい。ラルフがメルティに傾倒するものだからほんの小さな嫉妬を抱いたのも、今では昔の話。「ティリスのすずらん」で忙しく働いている間は、かつての片想いの相手のことなんて、思い出すこともなかった。
――だが。
カチュアは目を閉じる。わずかに首を動かした拍子にさらり、と青銀髪が揺れ、頬をかすめる。
先ほど見た夢、あれはあながち、ただの夢想ではなかったのかもしれない。
ラルフの気持ちがメルティに傾いていると気づき、悩んだカチュアはまず隣のクラスのベアトリクスに相談し、彼女の薦めを受けてアリシアにも相談を持ちかけた。その頃から、カチュアは変わってきたと思われる。
ベアトリクスやアリシアと一緒にいると、ラルフのことがだんだんどうでもよくなった。素っ気ない執事を追いかけるよりも、学院生活を満喫する方がずっと楽しい。いつ振り向いてくれるのか分からない男に傾倒するより、素直でいつもカチュアに思いを返してくれる友人たちといる方が、よっぽど有意義だ。
だから、ラルフがいよいよメルティのことばかり気にして執事の仕事を疎かにしても、仕事を放棄した彼に対する怒りはあっても、嫉妬の思いはなかった。むしろ、いつ屈辱的にクビにしてやろうかとほくほくするくらいだった。
もし、カチュアがアリシアたちに相談を持ちかけなかったら――あのまま、ラルフの後を追ってメルティに嫉妬していたら、どうなっていただろうか。
ひょっとしたら、先ほどの夢はともすればカチュアが歩むはずだった未来――十五歳にして生涯を閉じる、悲惨な結末だったのかもしれない。アリシアと会うことも、生涯の友人と出会うこともなく、ラルフに執着する女となってラルフに斬られてしまうという、伯爵令嬢にあるまじき醜態をさらすことになっていたのかもしれない。
からんからん、と遠くで来店のベルが鳴る。接客係のアリシアの元気な声が、ここまで届いてくる。
「失礼します……ケイト? 夕暮れ時でお客様が増えたから、フロアの応援を頼む、とアリシアからの伝言ですわ」
ドアのノックに続き、顔を出したのはベアトリクス。カチュアを店内での愛称で呼んだ彼女は今、グランディリア屈指の侯爵家令嬢ではなく、ひとりのパン職人としての顔をしていた。顔立ちは出会った頃と変わらない、強烈な美貌なのだが、あの頃に比べて彼女も、だいぶ眼差しが柔らかくなり、物腰も落ち着いてきたように思われる。
「フロアの方ですね。分かりました。報告書を片付けてすぐに行きます」
「頼みますわ。わたくしはこれから、寝かしていた生地を焼いてきますので」
「はい、お願いします、ベティ」
そう、ここにいるのは学院で猛威を振るっていたオルドレンジ侯爵令嬢でも、レイル伯爵令嬢でもない。
自分の歩むべき道を模索し、見つけ出した、二人の十七歳の少女たちだった。
ベアトリクスが足早に厨房に戻ってから、カチュアは報告書を束ねて脇に置き、椅子の背もたれに掛けていた自分のエプロンを身につける。
いつか、自分もラルフと決着を付けなければならないのかもしれない。ラルフの本性は分かった。あれは、カチュア以上に粘着質でしつこい男だ。今は僻地に追いやられているが、何の拍子にふらりとこちらにやってくるか分かったものではない。
その時には、自分が身を挺してでもアリシアとベアトリクスを、守る。
三人の中で武術の心得があるのはカチュアだけだ。二人の身に危険が迫ったら――しかももし、それがラルフなどだったら――
カチュアはエプロンの紐を腰で結び、ちらっと壁際に目をやる。三人分の私物がある壁には、鞘に収まったカチュアの剣が立てかけられている。
騎士に憧れ、剣を振るってきた自分。この平和な男爵領に来てからは、鍛錬以外で使うことはなかった剣。
優しい友人たちを守るなら、カチュアはあの剣を手に取る。
夢の中のように、やすやすとやられたりはしない。自分がやられる前に――友人たちの肌が切られる前に、カチュアがやる。そのために、この牧歌的な地方に来ても欠かさず、特訓をしてきたのだ。
からんからん、またしてもベルが鳴る。フロアはかなりの盛況のようだ。
カチュアは剣に背を向け、歩きだした。カチュアの運命を変えてくれた友人の元へと。