ベアトリクスの眠れない夜
(※第二部、マクライン家来訪の日の夜)
「失礼します。ロイド様、チェスのお相手お願いします!」
どばん! と勢いよく開かれるドア。ロイドがゆっくり顔を上げると、壁にぶち当たってばいんばいんと振動する扉と、戸口に立つ黒髪の美少女の姿が。
ソファに座ってゆったりと紅茶を楽しんでいたロイドは、突然の来客に片眉を上げる。
「おや、ベアトリクス・オルドレンジ侯爵令嬢。夜這いですか?」
「違いますっ!」
ベアトリクス・オルドレンジはきっと眦を吊り上げてズカズカ入室する。彼女の後からやって来た執事は、彼女に頼まれたのだろう、ロイド愛用のチェスセットを持ってきていた。
「お相手願います。ロイド様はすばらしいチェスの名手だと伺いました!」
「ええ、はい。盤上ゲームやカード、ギャンブルなんかは昔から得意でして」
「今日は、ロイド様から一本取れるまで床には入りません!」
声高に宣言するベアトリクス。ロイドはやれやれと肩をすくめ、妹と同い年の侯爵令嬢をソファに招く。
「こうなったらテコでも動きそうにないな……分かりました。ただ、手加減はしませんよ」
「望むところですわ!」
ソファに座り、ベアトリクスは執事がチェスの準備をするのを、目を細めて見つめている。
何か、事情があるようだ。
彼女の胸中が分からなくもないロイドは、肩を落として傍らにいたメイドにお茶の準備を頼んだ。
コチ、コチ、と柱時計が時を刻む音が、妙に大きく部屋の中に響く。
「……チェックメイト」
こつん、とロイドのクイーンが盤上に置かれる。ベアトリクスはしばし、自分の手駒である白と、ロイドの黒駒を順に見ていたが、やがて豊かな黒髪を震わせて首を横に振る。
「……投降ですわ」
「これで僕の四戦四勝ですね。……まだするのですか?」
「しますとも! 勝てるまで寝ません!」
「……とすれば、あなたは今日、一睡もできないことになりますよ?」
執事が手際よくチェス盤に新しく駒を並べる間、ロイドは目を細めて正面のベアトリクスを見る。
「差し支えなければ……そこまであなたをかき立てるものの正体を伺っても?」
「……おそらく、お察しの通りですわ」
やや拗ねたようなベアトリクスの返事に、ロイドは微かに微笑む。やはり、彼の読み通りだ。
「うちの妹がご迷惑をお掛けしますね」
「そんなことはありません。ただ……」
「釈然としない、といったところでしょうか?」
静かに尋ねると、ベアトリクスの動きが止まった。執事が駒を並べ終えても、彼女は再戦を促そうとしない。
「……分かっていますのよ。あの場では、アリシアにとってはあの判断が限界だったと」
「マクライン家は相当の罰を受けていないと、そうお考えなのですね」
「ええ……わたくしもカチュアも、思っていることは大体同じでした」
ベアトリクスは肩を落とし、メイドが淹れてくれた茶を飲む。先ほど淹れ直してくれたばかりなので、まだカップからは湯気が立っている。
「マクライン家は、貴族であるアリシアを集団で囲み、わたくしたちの到着が遅ければ取り巻きがアリシアを殺害するにまで至っていました。主犯は彼ではないとはいえ、彼も立派な同罪者。平民が貴族の令嬢を虐げたとして、取り潰しをしてもおかしくないと思いますの」
「そうですね。貴族としては妥当な判断ですね」
ロイドも同じく、昼間の場に同席した。彼は見守っているだけだったが、あの引っ込み思案で事なかれ主義の妹にしては頑張ったと拍手を送りたかった。
ロイドは次期男爵として、いざとなれば他者を斬り捨てるくらいの覚悟はいつでもできている。穏和でお人好し、と妹には言われるが、それは妹の前では素顔を出さないだけ。もしあの場の采配を任されたのがロイド――否、アリシア以外の三人の誰でもいい――であれば、間違いなくマクライン家は没落の一途を辿っていただろう。ロイドも、アリシアに全てを任せていたから黙っていただけであり、自分に主導権があれば無謀な平民の一家なんて片手で捻り潰していた。
だが、アリシアはそれをしなかった。そしてその場にいた三人の誰も、彼女の決断に異を唱えなかった。それは――
「あなたも……分かっていたのでしょう? 形は違えど、妹が出した結論は『正解』であったと」
ひくっとベアトリクスの肩が震える。尊大な態度を取っているときは実年齢を凌駕する威厳を見せる彼女だが、弱気になるとそこにいるのは、ロイドより三つも年下の、いたいけな十七歳の少女だった。
「僕たちが持つ『正解』とアリシアがひねり出した『正解』は、全く形が違います。でも、あなたはそれが最善策だと分かったから、あの場で妹に口添えしたりしなかった。葛藤の吐き出し所がないから、こうして僕とチェスをすることで胸中のわだかまりを消そうとしている……違いますか?」
ベアトリクスはゆっくり首を横に振る。
「……悔しいけれど、おっしゃる通りですわ」
「かといって、落ち込む必要はありませんよ。考えてみてもください。もしアリシアがマクライン家に対して、『正しい』処罰を与えていたら、どうしますか? あなたは今後も、妹と今まで通り接することができますか?」
「……無理、だと思います」
「そうでしょう? 実は僕もです。兄馬鹿だと言われても仕方ありませんが、アリシアはあれでいいんです。甘くて、僕以上にお人好しで、傷つきやすい子。こう挙げていると欠点ばかりに思えますけど、それもアリシアの魅力じゃないですか? 少なくとも僕はそう思いますよ」
ロイドは思う。
もしアリシアが、ロイドのような人間だったら。容赦なく敵を切り伏せ、再起不能になるまで叩きのめす少女であったら。
おそらく、ベアトリクスもここにはいないカチュアも、アリシアを今後も支えてくれることはないだろうと。
「だから、兄としてお願いです。アリシアは今後も、優しさと甘さゆえに間違いを起こすことがあるかもしれません。いや、たぶんあります。その時――あなた方には、アリシアを支えてもらいたい。ああ、特別何かをしろってわけじゃないんですよ」
「承知しておりますわ」
ベアトリクスはやっと、顔を上げた。深海のような深い青の目が、ロイドを射抜く。
「わたくしも、親友として約束します。……今後も変わらず、アリシアを支えることを。今日の、弱いアリシアを見て、わたくしはいっそう彼女を助けたいと思うようになりました。彼女にできないことは、わたくしたちがします」
「感謝します、ベアトリクス嬢」
ロイドは微笑み、ソファから立ち上がってテーブルを迂回し、ベアトリクスの前に跪いた。そして、その手を取って軽く手の甲に口付ける。
侯爵令嬢らしい真っ白な手だ。それでいて、少しだけ肌が荒れ、爪も短く切っている、労働者の手でもあった。
「妹に、あなたやカチュア嬢という強い味方が付いていてくれて助かりました」
「……い、いえ。わたくしたちが好きでしたことですから」
ベアトリクスの声が跳ねている。ん? とロイドが顔を上げると、ベアトリクスは顔を真っ赤にして、ぷいっとそっぽを向いてしまう。
十五歳までは社交界にも出ていたということなので、手の甲へのキスなんて慣れっこだと思っていたのだが。
「……して、ベアトリクス嬢。チェスの続きは?」
「それですけど……わたくし、眠くて……」
「それはいけない。すぐに床に入りましょう」
「いえ、勝つまでは寝ないと……宣言したのに……」
「でも、あなたの闘争心をかき立てるものはもう既に、僕が退治しましたよ。安心してお眠りください、レディ」
ロイドが微笑むと、気丈なベアトリクスもぷっつり緊張の糸が切れてしまったようだ。こっくり、とその頭が船を漕ぎ、数秒の後には彼女はソファの肘掛けに身を預け、すうすうと寝息を立て始めた。
ロイドは立ち上がり、テーブルの上に目を走らせる。そこには、ベアトリクスが飲み干した紅茶のカップが。
どうやら、メイドがこっそり入れてくれた睡眠剤が効果を発揮したようだ。せこい手を使ったような気もしなくもないが、夜通しチェスをさせるわけにはいかない。
ロイドは執事とメイドに、ベアトリクスたちの部屋を整えるように命じた。彼らと入れ替わりに、すらりとした青銀髪の少女が入ってくる。
彼女は後ろ手にドアを閉め、リビングの様子を見回した後、最後にソファで眠るベアトリクスに視線を注ぐ。
「襲ったわけではないようですね」
「僕を何だと思ってるんですか、カチュア嬢」
「いえ、場合によっては送り狼になるのもあり得るかと。そのために、アリシアは先に部屋に送っておきました」
「さすがに婚約者のいる女性をどうにかしたら、僕の首がオルドレンジ侯爵家の門前に据えられることになりますよ」
「意外と侯爵殿も喜びますかもね。腐れ王子にくれてやるよりは、と」
「僕はフィリップ王子よりはまし、の程度ですか」
「失礼しました。あなたはボンクラ王子よりずっと魅力的な、アリシアのお兄様です」
「どうも」
さくさくとやり取りされる会話。そうしている間に執事が戻ってきたので、ロイドは眠るベアトリクスを彼に託す。間もなく男爵家の衛兵がやってきて、ベアトリクスをそっと抱えた。彼の傍らにはメイドがいるので、後のことはメイドがやってくれるだろう。
カチュアは親友が運ばれていくのを見送り、そしてすとんとソファに腰を下ろした。
「……ベアトリクスは、だいぶ落ち着いたようですね」
「ええ。僕に勝つまで寝ないというもので、その、紅茶に睡眠薬を盛ってしまいましたが」
「催淫薬の間違いではなくて?」
「それを使うのはまだ早いようですので」
「おや……でしたらやはり、ロイド様はベアトリクスのことが気になってらっしゃるのですね」
「気にならない、と言えば嘘になりますね」
ロイドは不敵に笑う。この聡明な少女相手なら、素の姿を出しても大丈夫だろう。むしろ、こちらの方がロイドによってはやりやすかった。
「しかし、彼女は健気にもフィリップ王子の婚約者を続けてらっしゃいます。彼女の意志を尊重するというのならば、さっさとダメ王子が追放されて彼女が晴れて自由の身になってから話を持ちかけるべきでしょう」
「ほう、それを聞いたらアリシアは驚くでしょうね。彼女は、全くその気配に気づいていないようですから」
「僕はアリシアには悟られないようにしてますので」
「ロイド様はともかく、ベアトリクスはあれでかなり、感情を隠すのが下手です。感情的で真っ直ぐなのが良いところではありますが。アリシアがもう少し鋭ければ、感付かれていたことでしょうね」
「そして、さらに妹の悩みの種を増やしていた、か」
ロイドはソファに座り、脚を組む。
「まったく、あなたと話していると飽きない。カチュア嬢」
「わたくしも同意見です。ただし、異性として好意を持つことはありませんので、ご安心ください」
「僕もですよ。……先ほどベアトリクス嬢にも言いましたが、今後もよろしく頼みます、カチュア嬢」
カチュアは杏色の目でじっとロイドを見つめる。まるで、その不敵な笑みの下に隠された不安な心を見透かすかのように。
ゆっくりと、レイル伯爵令嬢は頷く。
「こちらこそ。……アリシアの笑顔を見ることが、わたくしやベアトリクスの何よりの癒しですから」
深夜前に、カチュアもメイドに連れられて自室に戻った。
リビングに一人になり、ロイドはテーブルの上に佇むチェス盤を見やった。執事は二人がもう一戦すると思っていたので、きちんと駒も並べられている。
キングの駒を守るように並ぶ、たくさんの駒。
ロイドは微笑み、ひょいっと指先で白のキングを持ち上げる。
「……君は一人じゃないからね、アリシア」
ロイドの微かな声は、夜のしじまの中に溶け込んでいった。