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麗しき侯爵令嬢と、モブな男爵子息

(※第二部、アリシアが料理対決のために王城に行っている頃)








 ベアトリクスはやきもきしていた。


「ベティ、気分が優れないのなら、午後のカウンター当番はわたくしがしますよ」

 椅子に座ってイライラと足を揺すっていたベアトリクスに、カチュアが声を掛ける。ベアトリクスはそんな友人を見上げ……そして、自分がカチュアに分かるほど苛立っていたということに気づき、ばつが悪そうに顔を伏せる。


「……いえ、午後の当番はわたくしですから……」

「だめです、今のベティがカウンターに出ても、いいことにはなりません」

 そこでカチュアは一旦呼吸を置き、杏色の目でしっかりとベアトリクスを見据える。


「……わたくしからのお願いです、ベアトリクス。アリシアのことが心配なのは分かりますが、今は休んでください」

「カチュア……そうね、ありがとう」

 ベアトリクスはカチュアの好意を有難く受け取り、着ていたエプロンを解き、自分の椅子の背もたれに掛けた。

 カチュアの足音が遠のいていく。ドアベルが軽やかに鳴り、カチュアのはきはきとした接客の声が聞こえてくる。


 ベアトリクスは天井を見上げた。狭い調理場の天井は、オルドレンジ侯爵家のそれよりもずっと煤けていて、黒ずんでいる。

 カチュアの精神力を見習わなければならない、とベアトリクスは嘆息する。基本的に、ベアトリクスの方が行動的で、皆を引っぱる力がある。だが、いざとなると柱になるのはカチュアの方だった。同じ危機に直面しても、カチュアの方が自分よりずっと落ち着いて行動できるのだ。


 今回のことだってそうだ。ベアトリクスは睨むように天井を見つめる。

 ベアトリクスたち三人がほぼ同時に退学した、学院。そこを今、引っかき回している少女。


 ――メルティ・アレンドラ。彼女のことを考えると、ベアトリクスの豪奢な美貌に亀裂が走る。

 メルティは、あらゆるものをベアトリクスから……そして、カチュアから奪っていった。カチュアはずっと、自分の従者のラルフ・オードリーに恋していた。そのことは、ベアトリクスがカチュアと親しくなる前から、察していた。


 ベアトリクスは自分でも、観察能力に長けていると思っている。カチュア・レイルが自分の従者を見つめる眼差しから、すぐに彼女の恋心に気づいた。それは……ひょっとしたら、自分もかつて、フィリップ王子に同じ思いを抱いていたからかもしれない。

 フィリップ王子は完璧な王子だった。二人が婚約したのは今から十年前、双方が六歳だった頃。

 立ち居振る舞いも完璧な幼い貴公子に、六歳のベアトリクスは虜になってしまった。そして、自分がこの麗しい少年王子の未来の妃になれるのだと思うと、期待以上に責任感で胸がいっぱいになった。


 ベアトリクスの父、オルドレンジ侯爵は、三人いる子どもの中の唯一の娘であるベアトリクスを深く愛する以上に、未来の王子妃としての教育を叩き込んできた。ベアトリクスも、両親の期待に応えようと思った。二人いる兄も、ベアトリクスを愛し、支え、妃としての心得を教えてくれた。

 自分は完璧にならなければならない。次期国王になる可能性のあるフィリップ王子の隣に立つには、生半可な覚悟では耐えきれない。何よりも、彼の名誉を傷つけることになってしまう。


 ベアトリクスは、己を磨いてきた。美しくなるために日々食事や運動に気を使い、礼儀作法や歴史学、ダンスを学び、父からは政治の知識も授かった。

 十三歳で学院に入学してからも、ベアトリクスは自己鍛錬を怠らなかった。学院側の計らいか、ベアトリクスはフィリップ王子と三年間同じクラスになった。


 フィリップ王子は、常に輝いていた。異母兄弟であるレグルス王子よりずっと目立っていて、人の目を引いた。だからベアトリクスも、彼に並べるよう、努力した。

 三年生になって、生徒会に立候補した。その年は副会長の座に納まったが、必ず四年生では生徒会長になると心に誓った。


 ベアトリクスは努力した。常に、模範となれるように。学院の規律を守り、善き校訓を尊び、皆と共に精進できるよう、積極的に動いた。

 ――だからこそ。婚約者のフィリップ王子がぽっと出の侯爵家養女に心を傾けていると聞いて、最初は発狂しそうなほど動揺した。


 なぜ? なぜわたくしではいけないの?

 なぜ、あんな可愛らしいだけの小娘を選ぶの?


 ベアトリクスは混乱した。そこに、隣のクラスだったカチュアと知り合った。カチュアも、同じような悩みを抱えていた。カチュアは、自分の従者のラルフ・オードリーがその少女ばかり気にするので、やきもきしていたのだ。


 ……もしかしたら自分もカチュアも、場合によっては嫉妬に狂ってとんでもないことをしでかしていたかもしれない。


 今になって、ベアトリクスは思うようになった。


 もし、二人が冷静を保てなかったら。もし、あの時アリシアに相談していなかったら――

 もし――


「……ベティ、お客様ですよ」

 意識の遠くから、カチュアが自分を呼んでいる。ベアトリクスは回想から戻ってきて、急ぎ姿勢を正す。


「お客様? どなたですの?」

「アリシアのお兄様です。ご事情を知らないようなので……簡単に説明してくださいな」

 カチュアの声を聞き、ベアトリクスは唇を噛む。まさかアリシアの兄も、妹がここにいないことは知らなかっただろう。アリシアが王都に向かったのは、今朝早くのことだから。


 ベアトリクスがのろのろと茶の仕度をして応接間で待っていると、カチュアに案内されて、アリシアの兄――ティリス男爵家子息ロイドがやってきた。

 ロイドと会うのは実は初めてだった。アリシアの三つ上の兄は、アリシアたちと入れ違いで学院を卒業した。学院ですれ違うこともなかったし、ティリス男爵家は皆、夜会が嫌いなので王城で会うこともなかった。


 ロイド・ティリスは髪と目の色はアリシアと全く同じだった。お人好しそうな笑顔で、着ているコートも少しだけくたびれている。それでも不潔な感じがせず、むしろあっけらかんとした好青年という感じを抱かせるのは、彼の魅力の一つなのかもしれない。


「初めまして、ベアトリクス・オルドレンジ嬢。いつも妹がお世話になっています」

 ロイドは被っていた帽子を脱ぎ、丁寧に礼をしてきた。ベアトリクスは一旦家を出た身とはいえ、立派な侯爵令嬢。男爵子息の方が礼を尽くすのは当然のことだ。

 ベアトリクスも自己紹介し、ロイドに席を勧めた。


「今、お茶をお入れしますね」

「えっ、侯爵令嬢が手ずからなんて、恐れ多いですよ」

「わたくし、アリシアから一通りのお茶のサーブの仕方も教わりましたの。店主不在の今、お客様をもてなすのも、店員の務め。お気になさらず」

 ベアトリクスは不安そうな顔のロイドを一瞥した後、さっさと茶の準備をして、輪切りに並べられているパンの皿も勧める。


「アリシアが生地をこねたパンですわ。どうぞ」

「へえ、アリシアが……」

 ロイドは興味を持ったようにパンを取り、囓った。


「ふーむ……これはトマトかな? 僕の好きなピューレを入れているな」

「さすが兄君ですわね。……その、すみません。アリシアは不在でして」

「ケイトさんだっけ? カウンターにいたお嬢様にも聞きました」

 そう言ってロイドはベアトリクスが淹れたお茶を飲む。飲みながらおいしそうに頬を緩めているので、ベアトリクスは知らない間に固まっていた体を静かにほぐす。


「第三王子レグルス殿下の事情も絡んでいるのでしょう? それは仕方ありませんよ。兄としては、アリシアが自分の役目を全うして、すっきりした顔で戻って来られたらそれで十分です」

「アリシアを信用なさっているのですね」

「ん、これでも十五年間一緒に暮らした仲ですから」

 ロイドはぱちっとウインクする。フィリップと比べると平々凡々な容姿の彼なのに、ウインクする姿は愛嬌があって、頬が緩んでしまう。


「先に連絡しなかった僕もいけないので……ああ、用件ですが、大したことはないのですよ。父上と母上が、アリシアの店の繁盛状況を見てこいとおっしゃったので、様子見に来ただけなのです。あと、ついでに土産にいくつか買ってこいと」

「そうですか……でしたらやはり、アリシアが店番をしている姿をご覧になれたらよかったですね」

「これからもチャンスはあるだろうし、また来ますよ」

 ロイドはそう言って、立ち上がった。ロイドが言う通り、彼の用件は本当に様子見だけだったのだろう。ベアトリクスは余計なことを言わず、立ち上がってハンガーに掛けていた彼のコートを取る。


「ケイトに聞けば、お勧めのパンを教えてくれますわ」

「そうしますよ。……その、妹が迷惑を掛けていませんよね?」

 急に聞かれ、ベアトリクスの方が答えに困る。ロイドの顔を見ると、言ったことを後悔するように目を反らしていた。


「……いえ、失礼しました」

「お構いなく。……わたくし、そんなに変な顔をしていますか?」

「変というよりは、困った顔、でしょうか。もし妹が原因ならば、と思いまして……」

「まさか。アリシアはわたくしとケイトの心の支えですわ。わたくし、アリシアについてここまで来たこと、後悔なんてこれっぽっちもありませんので」

 そう言ってベアトリクスは豊かな胸を張って自信満々に答える。すると――

 ロイドはベアトリクスを見、にっこりと――アリシアとよく似た顔で、微笑んだ。


「そう、その顔です!」

「え?」

「今のベティ嬢、とてもいい顔をしていました。女性はやはり、笑顔で堂々としているのが一番ですよ」

「笑顔で堂々と……」

 ベアトリクスは反芻する。


 笑顔と、誇り。

 それはくしくも、ベアトリクスがかつて失いかけ、そしてアリシアのおかげで取り戻したもの。

 ロイドはベアトリクスからコートを受け取り、帽子を被って小さく笑う。


「そうやって笑っているのが、一番お綺麗ですよ、ベティ……いえ、ベアトリクス・オルドレンジ嬢」

 ロイドはさらりと言うと、ベアトリクスに背を向けた。「帰りにパン、買っていきますねー」と、間延びした声が廊下に響く。その後、カチュアが彼に話しかける声と、お勧めのパンを紹介する声が聞こえる。


 ベアトリクスはしばらく、動けなかった。彼女はゆっくりと首を捻り、応接間の壁にぶら下げている煤けた鏡を見やった。


 ――そこに映る自分は、十年前と同じ。頬を赤らめて恥じらう、あどけない少女の顔をしていた。

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