モブの物思い
(※第一部と第二部の中間あたり、アリシアたち退学後のクラスにて)
最近、学院に行くのが辛い。
私は今日も、重い足を引きずって学院の門をくぐる。門の近くまではまだいい。ここからが、最高にしんどいんだ。
「……おはよう」
私は教室には行ってまず、室内の確認。あの子がいる、あの人もいる、あの人もいて……うん。まだ「彼ら」はいないみたいだ。
少しだけ足にぶら下がる重りが取れた気がして、私は自分の席に荷物を置く。椅子を引くと、かつん、と後の席の机に椅子の背もたれが当たった。
ここは、誰も座らない席。ちょっと前に自主退学した女の子が座っていた席。次の学期になって席替えをするまでは、ここで静かに佇んでいる、椅子と机。
ホームルームが始まる前の教室にいるのは、数名のクラスメートだけ。ちょっと前までは、朝早くから来た生徒会副会長が自主的に教室の整備をしていたけれど、今はそれをする人もいない。ゴミ箱は、私の席から中身が見えるくらい、溢れかえっている。掃除のおばさんが来るまで、誰も片付けようとしなかった。
「おはよう……ねえ、聞いた? ヨランダが今日も休むって」
教科書やノートを出していると、近くにいたクラスメートが教えてくれた。ヨランダ、と聞いて私は、彼女の席を見やる。
「ヨランダが? もう連続四日目になるんじゃないの?」
「馬車で校門前まで来るのはいいけれど、そこからどうしても入れないって……今日も、泣いて嫌がるヨランダの姿を何人も見たそうだから」
ヨランダは私と同じ、子爵家傍系の娘だ。元々繊細で傷つきやすい子だったから、今のこのクラスの雰囲気に耐えられなかったんだろう。
ヨランダの机の上は、たくさんのプリントが溜まっている。そろそろ彼女の家に届けに行った方がいいんだけど、担任の先生が何も言ってくれない。何か不祥事を起こしたとかで、二ヶ月間謹慎処分を受けた後復帰した先生だけど、なんというか、やる気がない。クラスの男子とかが騒いでいても、ぼけーっとしている。若くてイケメンだけど、もう先生のファンだっていう子はゼロに近いらしい。
朝の静かな時間を、私たちは満喫する。なぜかというと、もう数分もすればこの穏やかな時間が打ち砕かれるから――
「おはようございます、みなさん!」
キーン! と耳に突き刺さってくる高い声。来たぞ、と私は鞄をロッカーに入れて、顔をしかめる。数多くの体調不良者と登校拒否者を生み出した人が、やって来た。
きらきら輝く金の髪を靡かせ、一人の美少女が教室に入ってくる。彼女の後には、これまたきれいな金髪の王子様――比喩じゃない。本当の王子だ――と、背の高い男子生徒と、ついでに担任の先生がくっついている。
「……おまえたち、クラスメートが登校したというのに挨拶もしないのか?」
彼女の挨拶に、誰も返事をしない。すると、無表情の担任の先生が唸るように言った。
またかよ、と私たちは嘆息した後、「オハヨーゴザイマース」と気のない返事をしておく。そうしないと一日、くどくどと説教を受けることが分かりきっているから。
美少女は私たちのやる気ゼロな挨拶で満足したのか、きゃらきゃら笑いながら席に着く。私のちょっと前の席で、既に彼女の姿は王子様と、のっぽの男子と、先生に囲まれて見えなくなる。
……また、億劫な一日が――ヨランダが泣いて嫌がるような一日が、始まる。
「聞いてください! さっきすれ違った上級生が、私の悪口を言うんです!」
休み時間。まったりと読書でもしようと本を開いた私の耳に、黄色い声が突き刺さる。
別に、私に向かって言われているわけじゃないのに、凄まじい破壊力だ。
「今度私、フィリップ様と一緒に選挙に出るでしょう? 私、一生懸命選挙活動していたんです! そうしたら知らない男の人が、『こんな所で大声で選挙活動するな』って言うんです!」
「何ということを……そいつは誰だ。メルティの努力を詰るのは!」
美少女の嘆きを聞いていた王子様が、怒ったように言っている。のっぽ男子は今はいないから、教室で二人だけの世界を築き上げている。
「メルティ、気にしなくていい。そんな奴はいずれ地獄に堕ちる。君は気にせず、一生懸命自分をアピールすればいいんだ」
「フィリップ様……私、嬉しいです……」
「いいんだよ、メルティ」
……本の内容がちっとも頭に入らない。
私は読書をやめて、栞を挟む。ページは全く進んでいないけど、こんな状況で読んでも楽しくない。むしろ、この素敵な物語が変な色に染まってしまいそうだ。
美少女の名は、メルティ・アレンドラ。ちょっと前にやって来た、編入生。
彼女は、変だ。もうとにかく、何か変だ。
彼女はすごく美人。今はもういないけれど、生徒会副会長だったオルドレンジ侯爵令嬢と、隣のクラスの学級委員長だったレイル伯爵令嬢という二大巨塔に勝るとも劣らないきれいな顔立ちで、彼女の微笑む姿に心を奪われた男子生徒は数知れないという。私だって、最初は彼女の裏のない笑顔に、絆された人間の一人だ。
でも、すぐに分かった。彼女は、おかしい。
私の後の席にいた男爵令嬢は、メルティ・アレンドラに執拗に絡まれて、あの王子様たちに虐められて退学したんだと噂が流れている。確かに、教室の隅で何やら言い合う二人の姿は見たことがある。その時から変だとは思っていたけど、男爵令嬢やオルドレンジ、レイルの令嬢たちが揃って退学してからは、私たちまで火の粉が掛かってきた。
もうとにかく、言ってることやってることの意味が分からない。ちょっと注意されたらすぐに泣いて王子様に縋るし、勉強はからっきしだし、そのくせに生徒会選挙に立候補して。さっき何やら言っていた選挙活動だって、活動をしてもいい場所と時間は決まっていたはずだ。たぶん、彼女はそれを守っていなくて上級生に注意されただけなんだろう。彼女、基本的に校則やルールというものを守らないから。
それでも彼女の周りには常に、誰かしら男性がいる。あの王子様はもうべったりだし、のっぽも担任の先生も、やたら彼女を庇って、周りに牙を剥いてくる。生徒はともかく、先生がそれってどうなんだろう。既にたくさんの苦情を受けているそうだけど、さっさとクビにしてほしい。それくらいなんだけど。
そんな彼女が我が儘放題するから、当然クラスは全然楽しくない。私たち女子が固まって話をしていたら突撃してきて、自分が知らない話をしていたら「虐められた!」って王子様に泣き付くし。勉強だって、どう見たって予習をちっともしていないから、授業の直前になって焦ってる。自業自得じゃないかと思うけど、どうしようもない。
この前だって、生徒会選挙のことを恥も何もなく大声で話していた。貴族が当選して当然、平民は落選だって言って……。私は端くれ貴族だけど、だからといって貴族優先で選挙の結果が決まるわけないって分かってる。得票数が多い人が受かる。当然のことだ。優秀な平民がいれば、私たち貴族を凌ぐことだってある。現に、クラスに何人かいる平民出の生徒も、いくらかの教科では私よりいい点を取っている。努力次第で何だって変わるんだ。
それすら分からない、彼女。周りに毒を撒いて、じわじわ弱っていく私たちを見ても何とも思わない人。
あまりにも我が儘で分からず屋だから、いじめを実行した人もいるそうだ。といっても報復が怖いから、靴の位置をちょっとずらすとか、教科書をちょっと離れたところに置いておくとか。そりゃあ、いたずらをする方がよくないだろうけど、何というか、そろそろ気づいてもいいんじゃないか、とも思う。
「……そうそう! この前、私のお兄様が素敵なパンのレシピを一緒に考えてくださったのです! フィリップ様、今度食べてくださいますか?」
「もちろんだよ、メルティ」
「あ、そうです! せっかくだから、ここのクラスの皆さんにも配ってみたいんです!」
えっ……私たちも食べるの? そのパン?
おいしいパンというと、去年の学院祭で料理研究グループが売り出していた、あれ。あれがおいしかったなぁ、と思い出す。その考案者だという例の男爵令嬢は、遠く離れた地でパンの開発をしているとか。
まさか、あんな感じでオリジナルのパンを作るの? それで、それを私たちに配るの?
うーん……。
チャイムが鳴る。クラスメートがため息をつきつつ、自分の席に着く。
私はちらっと、背後を見た。誰も座らない席。この席にかつて座っていた生徒は、もうここにはいない。
もう一度、あの子と話をしてみたかったな。それで、学院祭で食べたあのパン、もし食べられるなら、もう一度食べてみたいな。
それで、今学院はこうなっているんだ、って話をしたり……。
先生が入ってくる。「教科書がないー!」とメルティ・アレンドラが騒いでいる。
憂鬱な日々は、まだ終わりそうになかった。