第四章『あの日の約束』-8
8
母親の墓の前で、結城は笑う。
「お母さん、やっぱりここに来ると思い出しちまうよ、昔のことをさ。どうしたって過去なんて変わらないのにさ、それに縛られちまう。あーあ、嫌になっちまうよ、こんな自分がさ。女々しくて、本当に咲楽を守れるような奴なのかな、俺って」
返事は帰ってこない。
それはそうだ。墓に話しかけたところで、母親が蘇って返事をしてくれるわけがないのだから。
しかし、結城は六年間、ずっとこのようなことを続けていた。母親の墓の前に立って近況報告をし、そして、自分の嫌な部分をさらけ出す。唯一自分の弱さを見せる相手が墓石なのである。
きっと、この光景を他人が見たら軽蔑されるだろう。
それは咲楽も同じだ。
このことは誰にも知られるわけにはいかない。だから、一人でここに来ている。
「こんなところ、咲楽に見せるわけにはいかねぇよな」
今、この墓参りをしている時が、結城が唯一弱さを見せる瞬間だ。咲楽を守ると決めたあの時から、弱さを見せたことなどない。見せるわけにはいかないのだ。嘆いているところなど見せてしまえば、あの約束を破ることになると思ったから。
ふと、ポケットの中のエアリアルフォンが鳴る。
結城は弱い自分を隠すために、弱々しい表情をキリッとした表情に直し、声が震えていないか確認してから電話に出た。
電話の相手は……阿波乃渉だった。
「なんだよ阿波乃。俺、今忙しいんだけど」
『お前の用事なぞ知らん。その用事とやらより大事なことがあるんだ』
その雰囲気は、いつもの軽い言い合いの時とは違い――重い。その押しつぶされそうな重量感のある空気を感じ取りつつも、いつもの調子で結城は返した。
「はぁ? なんだよ」
一瞬、電話越しでも空気が冷たくなるのを感じた。木漏れ日が眩しいとても天気が良く、気温もそれなりに高くて額から汗が噴き出してくるような日だというのに。
この寒気はなんだろう。
『色川咲楽が倒れた』
「……………………は?」
『お前の幼馴染、色川咲楽の脳内パルスイン・システムチップがウイルスに侵された。彼女は現在気を失って眠ってはいるが……無事とは言い難い状況だ』
意味が、分からない。
頭の中が真っ白になる。先ほど聞いた言葉でさえも思い出せなくなった。
いったい、彼は、何を、言って、いるの、だろう。
『とりあえず中理中央総合病院に来い。詳しい話はそれからだ』
「…………」
『おい、大丈夫か榊原!? 戸惑ってしまうのは分かるが、今は落ち着くんだ!』
「あ、ああ……分かってる。分かってるさ」
とは言っているものの、手の震えが止まらなかった。不安や恐怖といったものに頭の中を浸食されたのか、ぐちゃぐちゃでマトモな思考ができず、返事を返すだけで精一杯だった。
『本当に大丈夫か? 今どこにいる?』
「三峰町の……天樹霊園」
『霊園? 墓参りでもしてたか?』
「あぁ」
『そうか。とりあえずそこにいろ。迎えを寄こす』
「分かった。すまない」
『謝ることじゃないさ。そこなら中理の隣町だ。すぐに着く。電話切るぞ』
「あぁ」
短い言葉しか頭に浮かばない結城は、簡素な返事しか返せなかった。通話が終了し、エアリアルフォンを耳元から離す。だらんと下ろした右腕には力が入らず、今にも携帯電話を落としてしまいそうだった。
そしてゆっくりと、結城は母親の墓石に向き合うと、乾いた笑い声が出てきた。
「は、はは、は……お母さん、俺、どうにかなっちまいそうだ。脳内チップがウイルスに浸食されただって? ありえるかよそんなこと」
脳内にあるパルスインシステムチップは電脳世界に入り込むために必要なものだ。現在、ほとんどの人が脳内にそのチップを埋め込んでいる。脳に直接付けることによって、容易に脳波をデータ化させることができ、無線で、いつでもどこでも電脳世界にアクセスすることが可能になった。
しかし、脳に直接システムチップを取り付けて脳に何か悪影響が出ないのか、という心配は誰もが抱くだろう。
体内、しかも脳にチップを埋め込むなど狂気の沙汰ではない。受け入れられた現在ではそう思う人は減ったが、このシステムが世の中に出たときは大変非難された。
医学的にもクリアしたし、コンピューターウイルスに侵される危険性もない。
なぜなら、五重にも重ねられているファイアウォールがシステムチップ自体を守っているのだ。そして、その現在で最高のファイアウォール技術が、常にアップデートされていく仕組みとなっているため、まず不正アクセスされる心配はない。
そして、この事態がありえないものと断定してしまう理由――それは、そもそもパルスイン・システムチップはアクセスが『不可能』なのである。
そのチップ内にウイルスを送り込むなど、ありえないことなのだ。
ファイアウォールは万が一、中にウイルスが入ってしまった場合の最後の砦でしかない。まず、今までの出来事でこのファイアウォールのおかげで助かったという話はない。なぜなら先ほども言った通りアクセスなど『不可能』であるからだ。
「そうだよ、前例がないんだよ。つまり、今の技術じゃ不可能なことなんだよッ!!」
他に誰もいない霊園に結城の叫びが響き渡る。
必死に、咲楽が何ともない可能性を考えるしかなかった。
もし、本当に脳への攻撃によって意識を奪ったのなら……脳に何らかの異常があってもおかしくない。例えば、母親のように、精神が幼児退行してしまったり。それが原因で記憶を失ってしまったり。
「そんなはずはない。そんなはず……あるわけないじゃないか。咲楽が俺のことを忘れるだって? 冗談じゃない。そんなことあってたまるかよッ!!」
その気持ちが、結城を焦らす。
「お母さん……俺、行ってくるよ。咲楽を、失わないために」
あくまで、自分の傍らにいるはずの色川咲楽をなくさないために。
霊園の前でガーディアンの迎えを待ち約一五分。ようやくそれらしき車が現れた。黒のセダン車の運転席に座っているのは木戸卓己。そして後部座席には奏多深優がいた。
「榊原君、おまたせ。乗って」
「あぁ、待ちくたびれたよ」
そう言って結城は深優の隣に座った。
「悪かったわね。これでも全速力で来たのよ。交通ルールを守りながら」
「そうかい。木戸さん、大丈夫です。出してください」
「了解。できる限り急ぎます。今は一秒でさえも無駄にできないからね」
その卓己の言葉に疑問を抱く。一秒でさえも無駄にできない――とはいったいどういうことなのだろうか。
「榊原君、軽くはリーダーから聞いていると思うけど、詳しい話をするね」
「あぁ、頼む」
「うん。今日の一四時四〇分ごろ、電脳世界の中理エリアで友人と一緒に歩いているときだったそうよ。電脳空間に謎の黒い影のようなものが見えたらしいわ。バグかなんかだと思ってそこから離れようとしたとき、その影に色川さんは襲われた」
「その結果、気を失ったってか!?」
思わず結城は声を荒げる。そんな彼の肩を深優は掴み、目を合わせて言った。
「落ち着いて榊原君。その影、実は記録に残っていない。そこにバグなのか違法プログラムなのかは分からないけど、バグがあったことが記録されなかったし、プログラムを起動させたようなログも残ってなかった」
「正体不明の力? ネクストか……!!」
「そうと決まったわけじゃないけど、その可能性が高いのは確かよ」
「でもいったい、なんで咲楽がこんな目にあわなくちゃならないんだよ……。咲楽は、誰かの恨みを買うような奴じゃない。とっても優しい奴なのに」
赤信号で車が止まると、卓己は口を開いた。
「もしかすると、目的は君なのかもしれないね」
「なんだって?」
「近頃頻繁に起こった大きな事件は、すべて榊原君が関わっていた。しかもその事件は短期間で起こっている。そして今回の色川さんが襲われた事件。色川さんは榊原君の幼馴染なんだろう? それは、君に関係がある事件、と言ってもいいんじゃないかな」
「じゃあ、咲楽が襲われた原因は俺にある……?」
信号が青になり、卓己はアクセルを踏み込んで車を加速させた。
「いや違う。そう考えちゃいけないよ。原因はこんな無茶苦茶をしやがった犯人にある」
「…………」
結城は黙り込んだ。そして、一番気になったことを聞いた。現実から目を背けたくて、聞きたくない情報。だが、結城は聞かなくてはならない。こればかりは逃げるわけにはいかないのだ。
「さっき、木戸さんが一秒も無駄にできない、って言ってましたけど……咲楽は今どういう状況なんでしょう?」
「それはわたしから説明します。榊原君、覚悟して聞いてちょうだい」
結城は無言でうなずく。
「気を失って眠っているのは知っているかと思うけど、状況はそんなに生易しい状態じゃない。今は美樹がウイルスからファイアウォールを必死に守っている状態よ」
ファイアウォールとは、ネットワークとその外部との通信を制御し、安全を維持するソフトウェアの技術概念のことである。外部から内部へのクラッキング行為を食い止める防火壁をイメージし、ファイアウォールという名になっている。
そして深優は「でも」と言葉を続けた。
「榊原君に連絡した時点でファイアウォールが二枚破壊されていたわ。残り三枚、これ以上破壊されないように美樹が頑張ってくれてる。でも、それも限界がある」
「根本となるウイルスを取り除かないといけないってわけかよ。で、もし五枚すべて突破されちまったら、どうなるんだ?」
「正直に言うと、分からない。システムチップがウイルスに感染すること自体、初めてのことだしね。だけど、それはパルスイン・システムチップが世の中に出てきたときの話よ。今は、どうなっているか……」
「ふざけんなよ、それでも電脳世界を守護するガーディアンなのかよ!!」
「たしかに人々の安全と秩序を守るのがガーディアンの仕事。今回、色川さんがこんなことになってしまったのは、ガーディアンの失態よ」
だけど、と深優は言った。
「ガーディアンは神様じゃない。何でもは分からないわ。しょせん、平和と秩序を守るのは人間だってことよ。悔しけど、手が届かない部分があるの……理解して」
その言葉を聞いて、結城はハッとした。
(なんでガーディアンを責めてんだよ、俺。クソッ、ガキかよ俺は。ガーディアンを責めたてたって、咲楽が回復するわけじゃない。しかも、こんなに協力的なんだぞ……恩を仇で返してどうすんだ)
静かに、落ち込んだ声で結城は言った。
「すまねぇ、取り乱した。ガーディアンが取りあってくれてるってのに、この言いぐさはないよな」
結城は頭を下げて謝ると、ガーディアンの二人は困り果てた顔をしてしまった。まさか謝られるとは思っていなかったらしい。だが一応は結城は反省を込めて謝罪し、その上で尋ねた。
「で、どうやって咲楽は助けるんだ?」
結城の疑問はもっともだった。前例がないこの事態に対する最善の策はマニュアルに載っているものでは解決できない。パルスイン・システムチップは、本来アクセス不可能とされているものだ。なのに、なぜかその中にウイルスはが入り込んだ。
「色川さんの脳内チップにパルスインして、ウイルスを直接排除するのよ」
「そんなこと可能なのかよ。パルスイン・システムチップはアクセスできないようになってる。じゃねーと誰彼かまわず他人の脳に入り放題になっちまうからだ」
「そう、その通りよ。だけど、わたしたちには天才プログラマーがいるわ」
「藤坂美樹……!!」
「あの子は変な子だけど、プログラミングからハッキングやクラッキング、何でもござれのトンデモ中学生なのよ。今はファイアウォールをウイルスから守りながら、リーダーと一緒にアクセスプログラムを作ってるわ」
「アイツが……第一印象は最悪だったが、今回のことで感謝しなくちゃならないな」
「おぉ、めっちゃ褒めてあげて。あの子、人から感謝されたりするの慣れてないから、どんな反応するのか楽しみでしょうがない」
ニヤつく深優に、結城は少しだけ座る位置をずらして彼女から離れた。その笑みの奥に、とんでもない黒いものが見えたような気がしたからだ。
そして車に乗ること約一五分。中理中央総合病院にやって来た結城は、卓己と深優と共に咲楽が眠っている病室を訪れた。
そこにはよく分からないコンピューターで埋め尽くされ、それを美樹と渉が素早い手つきで操作していた。
そしてその中央のベッドに、結城が一番会いたかった人物がいた。
彼女は苦しそうに悶え、額からは汗が噴き出していた。
「結城君……!」
名前を呼んだのは咲楽の母親の瑞枝だった。
その傍らには咲楽の父親である武もいた。結城は目を合わせるなり会釈してあいさつする。
結城はハンカチを取り出して咲楽の額の汗を拭い、彼女のことを見つめながら、目を細めて言った。
「咲楽……絶対にお前を助ける。お前がいないと、俺は……」
めずらしい、いや、聞いたことのない結城の弱々しい声に戸惑う渉。思わず手を止めて結城に話しかけた。
「珍しいこともあるもんだ。お前がそんな弱々しい声を出すなんてな」
その言葉に、ムッと不機嫌な顔をするわけでもなく、声を荒げて反抗的な声をだすこともなく、ただ、静かに言葉を返した。
「アホ。俺が咲楽のことを心配しない薄情な奴だと思ているのかよ。咲楽がこんなことになってんだ、心配で心配でしょうがないんだよ悪いか」
「いや、お前は人にそういう弱い所を見せない奴だと思ってたからな」
「…………そうだよ」
二人のやり取りを聞いていた卓己と深優、そして作業中の美樹は手を休めずに耳を傾けた。
「俺は弱い奴だけど、それを隠し続けてきた。気付かなかっただろう?」
自傷気味に、鼻で笑いながら結城は言葉を続ける。
「だけどさ、いざ咲楽が傍からいなくなったらコレだよ。不安で、心が弱くなる。弱音だって吐いちまう。俺には、咲楽しかいないからな」
「どういうことだ?」
「そんなに気になるかよ、俺と咲楽の関係が」
蔑むような目つきになりながら言う結城に、渉は目を反らして言う。
「……すまん」
「いいさ、別に。聞いて欲しそうに言う俺が悪いんだ。まぁ、とりあえず言いたいことは、咲楽を失わないためにも助けなくちゃならねぇってことだよ。藤坂、プログラムは?」
いきなり声をかけられて驚いたのか、ピクッと、肩を震わせる美樹。
「も、も、もうすぐなんだぜ。ききき、キター!! 同期完了したんだぜ!! ぬふふ、聞いて驚け、これが――」
「パルスイン・システムチップにアクセスするためのプログラムか」
「くく、空気嫁。ここは、わ、わたしが、ドヤ顔で決めると、とこだろ常考」
「すまねぇ。だけど、よくこんなプログラム作れたな。これがあればいろんな人の頭の中に入り放題じゃねぇの?」
「そ、それは、む、無理。あくまでこのプログラムは外から、ゆ、有線で繋げないとダメ。それに、常にか、変わる暗号化キーに、同期する時間がハンパじゃないくらい必要。だから、じ、実用的じゃないし、動作だって、キチンとするかどうかワカランし」
「けどさ――」
結城は美樹の目を見つめて言った。
「お前が咲楽のことを守りながら頑張って作ってくれたんだ。それだけで十分さ。ありがとうな、藤坂。お前がいてくれたから咲楽が助かるんだ。助けられるんだよ」
「な、なんなん!? 結城ぱいせんがデレた! なんぞこれ!?」
顔を真っ赤にしながら戸惑う美樹の姿は、どこにでもいる女の子のそれだった。オタクで、腐女子で、言葉使いがネットスラングだらけで、ちょっと不潔なボサボサ髪の金髪少女だが、褒められたとなれば嬉しくて、照れてしまう。
彼女は俗に言う一般人とは少し違うのかもしれないが、根本は何ら違わないのかもしれない。
「ふふ、なんだ、変な奴だと思ってたけど藤坂もやっぱ女の子なんだな。そういう褒められて照れちゃうとこは可愛い」
「どこぞのラノベの主人公なの? そ、そんなんで落ちちゃうほど、わた、わたしはチョロインじゃないんで、そ、そこんとこ、よろしく」
その傍ら、笑いを堪えている深優の姿がチラッと視界に写ったが、今はそれを弄っている時間はない。深優に頼まれた通り、自分の仕事を全うしてくれた美樹にはキチンとお礼を言って、褒めてあげた。
あとは……咲楽を助けるのみ。
「藤坂、そのプログラムはどうやって使うんだ?」
「にゃ!? え、えっと、こ、このコンソールからパルスインすればいいんだお。そうすれば、勝手にプログラムが脳内パルスイン・システムチップにアクセスしてくれるぜ」
「分かった。阿波乃、俺にやらせてくれ。俺が助けねぇといけないんだ」
「ダメだ……と言いたいところだが、どうせお前は聞きやしないだろう?」
「よく分かってんじゃん」
「だがな、人の命がかかっているんだ。こちらが危険だと判断した場合は介入させてもらうぞ。お前の勝手な願いを聞いて助けられませんでした、じゃあ許されないからな」
「分かってるよ。時間がない、いくぞ」
コンソールに手をかざし、パルスインする準備を整える。
すると、後ろからまた名前を呼ばれた。
「結城君、父親として情けないが娘を頼む」
彼女の父、武に力強く見つめられ、
「――絶対に助けてね。絶対よ」
彼女の母、瑞枝は安心させられるような優しい声で、でもどこかしらに力強さを感じさせる声色で背中を押してくれた。
「まかせてください。すぐに咲楽は目を覚ましますよ」
大きく息を吸い込み、宣言した。
「パルスイン……ッ!!」