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第四章『あの日の約束』-7

  7


 榊原結城の母親、和穂が突如として精神的におかしくなってしまった。

 精神年齢が五歳以下にまで幼児退行してしまい、母親として――いや、人として社会の不適合者となってしまったのだ。

 病名は自我境界線損失症。電脳病とも言われるその症状は言葉が上手くしゃべれなくなったり、和穂のように幼児退行したり様々である。

 原因は電脳世界へのアクセスとなっているが、発症自体が稀なため、詳しいことは何も分かっていない。

 当時一一歳だった結城にとって、母親の子供のような振る舞いはよほどショッキングだったらしく、トラウマになってしまった。日常が突如として崩壊し、目の前が真っ暗になった感覚は今でも忘れられない。

 母親にべったりだった結城にとって、このことを思い出せば今でも身が震える。

 自分に向けてくれる笑顔も、母が作ってくれた美味しい料理も、今はもう手に入らない。


(お母さん……なんで、あんなことに)


 和穂の精神がおかしくなり、ずっと精神病院での生活が続く中、結城は幼馴染の色川咲楽の家でお世話になることになった。

 心を閉ざしてしまった結城は、一言も喋らずに毎日を過ごしてゆく。だけど、咲楽は必死に話しかけてくれた。どうにかして元気にしてあげたかったらしい。そんな彼女の苦労もあってか、しばらくすれば喋れるようにはなった。だけど、まだ感情を表に出すことはできなかった。

 それでも色川の家族はみんな優しくしてくれた。家もお隣同士で、子供が同い年。仲良くならないわけがない。色川の家にとって、結城はもう家族同然の扱いだった。だから、今回のことはとても心配してくれたし、努力もしてくれた。

 しかし、結城はそれにすぐ応えることができなかった。

 少しずつ、少しずつ、感情の扉を開けてはいるものの、その扉に何かが挟まっているのか中々開いてくれない。

 結城も少しは努力した。お世話になってばかりだから、少しくらいは家事ができるようにたくて、咲楽の母親である瑞枝(みずえ)に色々と教わった。

 だけどその行為が、溢れてはいけない感情のダムを決壊させることに繋がってしまった。


「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 わけも分からず、時折叫び出すようになってしまった。

 その度に咲楽は抱きしめて落ち着かせてくれた。彼女の温かさが、唯一の救いだった。

 咲楽には母親がいる。料理が上手くて、笑顔が温かくて、わがままを聞いてくれて、悪いことをしたら叱ってくれて。咲楽には、母親が、いる。だけど、結城には、母親が、いない――いなくなってしまった。

 そう思ったら、黒い何かが自分の中から生まれるのを感じて、どうしていいのか分からず、かと言ってじっとしていられず、ただ喚き散らしてしまう。

 喚き散らして、暴れ出して、それを見ると咲楽は一目散に結城を抱きしめる。

 そんな日々が続いた。

 そして一年が過ぎ、小学生最後の年で、和穂は他界した。

 だけど、涙は出なかった。彼の中では、すでに母親が死んだものと捉えてしまっていたからだろうか。それとももう感情が死んでしまっているからだろうか。

 それからというもの、もっと自分を塞ぎ込んでしまった。

 自分の部屋からは出てこなくなり、だから学校にも行かなくなった。父親の義嗣、咲楽と彼女の両親である瑞枝と武は心配して声をかけてきてくれるが、結城はそれに応えることができなかった。

 もう誰が声をかけても変わらない。完全に自分の真っ暗な世界に閉じこもてしまった。

 そうして、自分の殻に閉じ籠る様になって数か月。

 ついに彼女が動いた。


「もう堪忍袋の緒が切れたんだからね!!」


 有無を言わせず、扉を開けて入ってきたのは咲楽だった。相変わらず結城はベッドの上で体育座りをして俯くだけ。そんな彼に嫌気が刺したのか、咲楽は思いっきり結城のことをベッドから引きずり落とし――いや、投げ落としたのである。

 今の彼女からは考えられない力だった。後にも先にも、咲楽に力負けしたのはそのときだけだ。


「いつまでもウジウジすんなよみっともない!! ゆうくんは男なんでしょ!? だったら少しくらい男らしいとこ見せてよ、この根暗ウジウジ野郎!!」


 頭部に衝撃が走る。

 テンションに身を任せた渾身の咲楽のパンチは、とても効いた。痛みで頭がおかしくなりそうになる。自分の中の感情が、またゴチャゴチャになる。そして、自分はどうしたらいいのか分からず、ただ、咲楽のことを見上げた。


「…………」


 お互いに言葉を交わさなかったが、咲楽の目は怒りではなく、悲しみの目だったのは分かった。だけど、なぜそんな眼差しを向けてくるのか結城は理解できない。あんなに声を荒げたというのに、その目に怒気は微塵も感じられないのだ。


「ゆうくん……!!」


 その瞬間、温かさでその身が包まれた。とても心地が良くて、とても落ち着く。その温かみを感じる度にそれを失いたくないという感情に襲われる。その感情がいったい何なのか、結城は理解できなかった。


「約束をしようよ」

「や、く、そく?」

「うん、約束だよっ!」

「な、に?」


 長らく喋らなかった結城は上手く言葉を出すことができなかった。しかし、しっかりと咲楽の言葉を聞き、返事を返そうと頑張った。今はそうするべきなのだと、自分の中にある何かが訴えてきたからだ。


「ゆうくんがね、もう一度、笑い合えるようになる約束」


 抱きしめる力を一度抜き、咲楽は結城の肩をやさしく掴みながら目を見つめた。

 その視線は結城を捕え離さない。結城は不思議と目を反らせなくなっていた。


「いい? ゆうくんの幸せはわたしの幸せ、わたしの幸せはゆうくんの幸せなの」


 一呼吸置いて、咲楽は言葉をつづけた。


「逆にゆうくんの不幸はわたしの不幸だし、わたしの不幸はゆうくんの不幸なの」


 だから、と咲楽は言い、再び結城のことを強く強く抱きしめた。


「わたしたちは助け合っていくの! 分かった? 約束だよ」

「たすけ、あう……やくそく……咲楽と、俺の、約束」

「そう約束! わたしがゆうくんを守ってあげるから、ゆうくんはわたしを守ってね?」

「咲楽を、守る……俺が、守る」

「お願いできる?」


 ぎゅっと、抱きしめる力が更に強くなる。それは、結城のことを落ち着かせたい気持ちの表れなのか、それとも結城のことを失いたくないという感情の表れか。彼女はただただ、精一杯の力で、だが優しく抱きしめつづけた。もうどこにも行かせないように、失わないように、元の結城に戻ってくれるように。

 そう願って。


「俺は――」


 そこで初めて、結城がはっきりとした声でしゃべりだした。精神的に追い詰められる前の、元気な頃の結城の声で、しゃべった。


「咲楽を……失いたくない。ずっと、俺の傍に、いて、くれるか?」


 彼女の温かさが心地よくて、そこが自分の居場所のように感じた。

 咲楽を失う、そう思うと体が震えてくる。

 失いたくないと、ただ単純にそう思った。


「うん、ずっと一緒にいてあげる。だって、ゆうくんは幼馴染だもん。当然だよ」

「そうか。なら、俺は咲楽を守る。俺は、咲楽を失いたくないから」

「わたしも、ゆうくんを失いたくないよ」


 お互いに、強く、強く、抱きしめ合った。彼を感じれるように、また彼女を感じれるように、それを確かめ合うために。

 きっと、この約束を交わした時から、お互いの依存は始まっていたのだろう。

 高校三年生になっても、この二人が一緒に居続ける理由がこれだ。

 そしてこれからも続く。

 もし、もしもだ。

 色川咲楽という存在が、榊原結城から引き離されたら、どうなるだろうか?

 そして何かが動き出す。得体の知らない、そして誰にも認知されない何かが。

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