第四章『あの日の約束』-6
6
それは、突然の出来事だった。
「んー? きみはだぁれ?」
いったい、自分は誰を目の前にしているのかが分からない。
いつも通りの時間に学校が終わり、いつも通りの時間に家に帰ってきた。何ら変わらない日常だったはずなのに、目の前にあるこの光景はなんだろう。
家に帰ってきたら母親の温かい「おかえり」の言葉が待っているはずだったのに。
「…………どうしたの? 俺をからかっているだけだよね?」
目の前で起こっていることを否定することしかできない。それが現実のものではないと、自分で思わなければ自我を失ってしまいそうだからだ。
「うーん? 別にからかってないよぉ。ねぇねぇ、ここはどこなのか知ってる? もしかして君の家なのかな?」
「なにを言っているの……? ここは俺たちの家だよ?」
「んー? わたしの家はここじゃないよ? もっと自然がいっぱいあったもん」
「それは……それはおじいちゃんとおばあちゃんの家だよ! ねぇ、どうしちゃったのさお母さん!!」
目の前で、まるで幼い子供のようにしゃべる母親の和穂。それは別にからかっているわけではないのは雰囲気から悟ってしまう。故意にではなく、あたかもそれが普通のようにふるまっている姿が演技だとしたら、母親は女優になれるだろう。
「うーん、お母さんって? ねぇねぇ……ねぇってば!」
「…………なに?」
額から汗があふれ出す。嫌な熱気が自分を包み込む。息苦しい感じもする。
もう何が何だか分からない。気が狂いそうだ。
「お母さんってなに?」
「お母さんはお母さんだろ!? どっからどうみても俺のお母さんだよ!」
「よく分からないな~。それにぃ――」
その先は聞きたくなかった。聞いてはいけない言葉だと本能が察知する。だがそれを回避する術はない。予測可能回避不可能。耳にしてはならない言葉が、今にも目の前の母親の口からその言葉が出てしまう。
「それに、わたしはまだ子供なんて産んでませーん!」
無邪気に、悪意などまったく感じられない明るい口調で、和穂はそう言った。
結城は頭の中が真っ白になり、何も考えられなくなった。和穂は自分のことを産んでいないと言った。それは、結城にとって、もうあなたの母親ではない、と宣言されるのも同然だった。
結城は嘔吐感に襲われるが、筋肉が緊張しきって足が動かずその場から立ち去ることができない。逃げ出したい現実がそこにあるのに、逃げ出すこともできない。
目の前が真っ白になったり、真っ黒になったり、様々な色がチラつく。もう自分の目で見ているものが何なのか認識できない。やがて自分の母親の姿は完全に見えなくなり、子供のような無邪気な声も断片的にしか聞こえなくなった。
「――、ど――――っ―の? 気――悪―の? 大――?」
そして、榊原結城はこの現実との接点を絶った。
もう何も見えず、何も聞こえない。自分がどこにいるのかも理解できない。感じることができない。まるで死後の世界にでも来たような気分だった。
やがて、一筋の光が見えた。それを越えた先には、いつもの、当たり前で、当然な、毎日の光景が見えた。
朝起こしに来てくれる母親。朝食を作ってくれる母親。おかえりと言ってくれる母親。買い物をしている母親。晩御飯を作ってくれる母親。おやすみと言ってくれる母親。
毎日やってくる当たり前の日常が、どれだけ幸せなものだったのか、今の結城には分かる。母親と言う存在は、誰もが持っている当たり前な存在であって、その人なしでは自分はここに存在しない。
だが、それは、突然と、何の前触れもなく、失うことがある。
それは、誰もが、持っている、可能性の、一つだ。
『行かないで……なんで、なんでこんな! お母さん! お母さん!! あああああああああああああああああああああああああああああああああ!!』
その温もりが、失われる。
そして、次に移った光景には、失われたはずのぬくもりがあった。
だがそれは、母親のものではない。
「起きた……大丈夫ゆうくん!?」
「あれ、咲楽……俺――ッ!?」
そして思い出す。
あの、自分の母親とは思えない幼い仕草をし、幼い言葉を話す母親の姿を。
「あ、ああ……あああああああああああああああああああああ!! お母さん! お母さんは!? あんなのは悪い夢だった! そうだよ、そうなんだよね!? なぁ咲楽!?」
錯乱したように咲楽の肩を掴み、揺さぶりながら言う結城。いつもではありえないほど声を荒げて叫ぶように言うその姿は、目の前にして恐怖を抱いてしまうほどだった。表情は強張り、焦点は安定せずどこを見ているかも分からない。肩を掴んでいるその力は段々と増している。
だけど、咲楽はその手を振り払わなかった。ただひたすらに、結城が言葉を吐き終えるのを待つのみ。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
やがて、結城は叫び疲れたのか息を切らせる。すると、咲楽はゆったりとした優しい声で話しかける。
「落ち着いた、ゆうくん? とにかく、今はここにいて。おじさまが迎えに来てくれるから、待ってよう。ね?」
「あ……あぁ。ここは、咲楽の、部屋か」
結城は一つ一つ、目で見て、確認して、それを声に出すことで理解する。今のこの自分を落ち着かせるためにそうしたのだが、胸の奥にある原因不明の不安は拭えなかった。先ほどまで見ていた光景は現実のものだったのか、それとも夢だったのか、定かではない。
「ほんと、ゆうくんったら寝言で面白いこと言ってたんだから!」
「ほーん、いったいどんなことだよ」
いつも通りの感じで返したつもりだった。だけど、目の前で話す咲楽の笑顔はどこか無理やり作った感じがして、結城は心なしかいつも以上に低くて暗い声になっていた。
そんな状態で話など続くわけもなく、五分も持たなかった。
沈黙が流れ、気まずい状況が続く中、インターホンが鳴り響く。
そして咲楽の部屋のドアから父親の義嗣が姿を現した。
「起きたのか結城。一度帰るぞ、話すことがある」
「う、うん」
いつも以上に真剣な声で、そして恐怖を感じさせてしまう硬さも感じた。表情もいつにもなく怖い顔で、横にいる咲楽が少し怯えてしまうほどのものだった。
父親と一階へ降りて咲楽の両親に挨拶をした。
咲楽の両親の顔は、とても心配するようなもので、嫌でも自分が見たあの光景は本当だったのだと、実際にあったことなのだと、自覚せざるを得なかった。だけど不思議と心は落ち着いていて、先ほどまで取り乱すことはない。
義嗣と一緒に頭を下げて、隣の家に帰る。
空はもう真っ黒な夜空だった。星ひとつ見えない、いつもの夜空だった。
家の中は真っ暗で、とても静か。いつもなら母親の和穂が家事をしていたりテレビを見ていたりする時間なのに、それがない。いつもの日常と切り離されたかのような時間。誰もいない家と言うものは、とても寂しいものなのだと結城は感じた。
靴を脱いで中へ、そして居間へと入る。
父親がドアノブに手をかけた瞬間、落ち着いていた心臓が、いきなり高鳴った。心臓の音が外に漏れてしまっているのではないかと錯覚するほどの大きな心臓の鼓動で、何もしていないのに息が切れる。
人が入ってきたのを認識して自動的に明るくなる居間。そこには母親はおらず、この空間には結城と義嗣の二人のみ。
「結城、大丈夫か?」
息を切らせる息子を見て心配になる父親。それはそうだろう、ここであの母親を見て、言葉を交わしたのだから。トラウマとなってしまっているのも頷ける。
「部屋に行くか?」
「いや、いい。ここで話をしよう。ここで、話さないといけないんだ」
気を利かせた父親だったが、結城はそれを拒否した。
この話は、決して目を背けたらいけないものだと思ったからだ。
「そうか。これから話すのはお前にとってとてもショッキングなものだろう。だがな、お前はこの話を受け入れなくちゃならない。分かるか?」
「分かってる。俺がこの目で見たんだ。背けちゃいけない」
「強いな、結城は。さすがは俺の息子だ」
静かにそう言う義嗣は、自分の息子の強靭さが嬉しいわけではなかった。ただ、その事実を言ったまで。他意はない。褒めるのなら、頭を撫でて褒めちぎるだろうが、今はそんな状況ではないし、褒めるような話の内容でもない。
二人ソファに腰かけ、テーブルを挟むように座った。
そして、義嗣は静かに口を開く。
「結城、お前は目の前で見たんだろうが……事実確認のために言っておく」
結城は無言でうなずいた。
「母さんな、人格が幼児退行してしまったんだ。分かるか? 人格がな、幼い子供のような状態になってしまったんだよ」
それは目の前で見たから知っている。だが、その光景は現実のもので、事実であったと、落ち着いた今なら自覚できる。
「原因はまだ分からないが、ああなる前に電脳世界にアクセスしていたことだけは分かってる。医者が言うには、これは自我境界線損失症なんじゃないかって話になってる。結城も聞いたことくらいはあるよな? 電脳病のことだ」
「うん。原因不明の病気で、治療法は分かっていない病気。症状……は様々で人によって違うんだよね?」
「あぁ、良く知ってるな。本当なら若い人がなるような病気らしいんだが、どうしてなんだろうな。あぁ、どうしてなんだろうな……」
手で自分の顔を覆い尽くしながら言う義嗣。今までに見せたことがないような弱さを出した自分の父親に結城は驚いた。だけど、これもしょうがないことだと、小学生ながら結城は理解していた。誰だって、こんなことが起きたら自分の弱い所を出してしまう。
自分だってそうだ。状況が理解できず、現実逃避するために気絶して、起きたら起きたで喚き散らす。そして、事が起こった居間を前にして錯乱しそうになる。これを弱さと言わず何と言う。
「あぁ、すまない。とにかく、今後のことを話そう」
「家のこと?」
「あぁそうだ。母さんが家に帰れない今、結城は色川さんの家で暮らすんだ。話しはもうつけてきたからな。瑞枝さんも、武さんも、咲楽ちゃんも、快く受け入れてくれたよ」
「俺が、咲楽の家で?」
「嫌か?」
「別に。ただ、迷惑じゃないかな、って思って」
「言ったろ、快く受け入れてくれたって。あまり気にせずにいろ。今はそんなことを気にしている場合じゃないんだ」
「分かった。でもお父さんは?」
「俺は仕事をして、終わったら母さんのところに行ってるよ」
それを聞いた結城は、恐る恐る聞いた。
「俺は……その、お母さんには会えないの?」
「いや、会えないわけじゃ……ない。ただ、今の母さんの状態は、とてもじゃないがお前には見せられない。詳しくは言えないが、そんな状況なのだと、理解してくれ。辛いだろうが、どうか……頼む!」
頭を下げて、必死に言うそんな父親の姿は、正直に言うと見たくはなかった。だけど、そんな状況にならざるを得ない切羽詰った状況だということだけは理解した。だから、父親のその頼みに、結城はただ従う。
「うん、分かったよ。分かった。うん、うん……」
何回も、何回も、ただ自分で頷いていた。この今の状況を、理解し、納得させるために。
そして、その日が終わる。
しかし眠ることはできなかった。ただ、涙を流すしかなかった。声を枯らし、枕は涙で濡らし、最悪の夜明けを、結城は初めて体験した。