第四章『あの日の約束』-5
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食卓に並んでいたのは、ごく一般的な家庭料理。特別に高級な食材を使っているわけでもなく、特別な資格を持っているわけでもない。見た目はよく見る鶏のから揚げでしかない。味噌汁でしかない。だけど、それら一つ一つが、どんな高級レストランの料理よりも美味しく感じるのはなぜだろうか。
「遠慮なく食べてね咲楽ちゃん。まだまだたくさんあるから」
「はい! おばさまの料理、とってええええええええええっも、おいしいです!!」
「あらそう? 嬉しいわねぇ。義嗣さん、おかわりは?」
結城の父、義嗣はいつもの渋い声で、静かに、だけど深く感じさせる声で「いや、もういい」と言った。
咲楽が家に来ると急に物静かになる結城の父の義嗣。その理由はとっても単純なもので。
――カッコ良く思われたいから。
この理由を知っている和穂は夫のことをバカだと思っているが、そこが可愛らしく大好きなポイントでもある。いつもは渋くてカッコいい人なのだが、そういうお茶目な部分がある人なのである。
まぁ、結城はそんな父親でもカッコいいと尊敬している。
ただ単に気付いていないだけなのだが。
「ご馳走様でした」
静かにそう言うと、結城は席を立った。
「ゆうくんってやっぱあまり食べないんだね。そんなんじゃ大きくなれないぞー!」
箸でから揚げをつまみながら咲楽は言うと、結城はすまし顔でこう返した。
「いや、結構食べたと思うけど。から揚げだからあまり食べると太るだけだし。確かにたくさん食べてる咲楽は大きくなるかもな、横に」
「は? ハァ!? ハァ!? わたしはそんなに太ってないし! てゆーかあまり太らない体質だし!!」
「さぁどうだか。今はいいかもしれないけど、中学生になってからはどうかな?」
「ぐ……たしかに、中学といえば体重とかお腹の肉付きが気になるお年頃ッ!!」
「今は太ってないその体は、一年後、そして二年後、三年後、今みたいに特に気にならないモノになってるかな?」
「まさか見るに堪えない醜い豚に……ってぇ!! そうなる前に対策するからいいもん!」
「その咲楽の意志が堅いことを祈るよ。俺もそんな咲楽は見たくないし」
「そ、そうよね! わたしも、そんなわたしをゆうくんに見せられないわ!」
「そうだなー。っていうことで咲楽には良い言葉を教えてやる。腹八分に医者いらず。意味は……ま、これくらい分かるか」
そのまま結城は父親が座っているリビングのソファに座った。二人してテレビ番組を見て笑っている姿は平和な日常の象徴で、その光景を見るのが和穂は好きだったりする。
その一方、咲楽は腕を組みながら顔をしかめていた。
(はらはちぶにいしゃいらず……どういう意味だ?)
いわゆる咲楽はアホの子であり、あまり勉強はできる方ではない。そんな彼女にことわざという難しい言葉を投げかけてもすぐに理解できない残念な頭をしているが、努力は人一倍するので、なんとか周りについていけてはいる。
「ふふ……咲楽ちゃん。腹八分に医者いらずって言葉はね、満腹まで食べないで、余裕があるくらいにしておくと健康でいられるって言葉なのよ」
「へ~さっすがおばさま! 何でも知ってるんですね!」
「いや~そんなに褒められると天狗になっちゃうわ」
「ん? おばさま、褒められると鼻が長くなるの? 不思議な体質なんですね」
「い、いやぁ……別に物理的には長くならないかな? 気持ちは長くなってる的な?」
「お、おぅ……ん?」
「いや、無理に考えないでいいと思うよ咲楽ちゃん」
さすがに和穂でも頭を抱えるほどのアホの子っぷりを披露する咲楽を見て思った。
(あはは……結城、咲楽ちゃんのことを任せたわよ。あんたしか、咲楽ちゃんを支えられない。うん、個人的感情が入ってるかもしれないけど気にしない気にしない)
それでも、そんな咲楽のことが可愛くてしょうがないのは親心なのだろうか。
娘同然だと思っている咲楽と、実の息子の結城。この二人はまったく正反対の性格をしている。結城は基本的に物静かな子ではあるが、笑うときは笑うし、泣くときは泣く。感情的に熱くなれば声を大きくして行動に移す。少しだけ大人びた性格の子だ。
それに対して咲楽はいつでもどこでも元気一杯。まるで太陽のようにその場にいるだけで場を明るくする。泣いているところとか、落ち込んでいるところとか、まったくないわけではないが見る方が稀で、感情の起伏はあまり見られない子である。
そんな彼女を結城は好いているみたいで、持ち前の明るさが一緒に居て心地良いのだろう。日頃一緒に居るところをよく見るが、和穂はそんな印象を受けた。
(だからわたしは咲楽ちゃんを応援するんだけどねぇ。あぁ、早く孫の顔が見てみたい)
気が早すぎることを想像しながら顔を綻ばせる。そんな和穂の顔を見て咲楽は少し疑問を抱いたみたいで、顔を傾げながら不思議そうに和穂のことを見ていた。
「あの、えっと、ごちそうさまでしたおばさま! あの、おかたづけお手伝いします」
「え? あぁいいのよ別に、気を使わなくたって」
「でも……」
「そ・れ・と・もぉ」
ニタニタと笑いながら口を咲楽の耳元に持っていき、
「大好きな結城に家事ができるアピールかしら? マセてるわねぇ、このこのぉ」
「にゃ……!? ち、ち、ち、違いますよ……あの、その」
「あぁ、皆まで言わなくていいわ分かってるから。わたしは咲楽ちゃんを応援してるからね!」
「うぅ……」
顔を真っ赤にしながら俯くその姿はあまり見ることのできないレアな咲楽で、それが可愛過ぎて和穂は悶えそうになるのを堪えるので精一杯だった。
「ま、せっかく手伝ってくれるって言うなら一緒にかたづけしましょうか。きっと、家事を積極的にやる咲楽ちゃんを結城が見たら、惚れちゃうかもね」
「や、やだおばさまったら!」
「なははははは!!」
ちっとも痛くない力でポカポカ叩いてくる咲楽に、女性らしからぬ笑い声を上げながら食器を台所まで運ぶ和穂。こんな笑い声を上げていないと、自分を保っていられないと思ったからだ。主に咲楽が可愛過ぎる、という理由で。
(息子も良いけど、やっぱ娘も良いわね。こんな風に一緒に話したり家事やったりして、あー、最近幸せ過ぎてやばいわー)
これ以上はないくらい、平和な日常に極上の幸福感を抱いている。
毎日、いや、この一秒一秒の時間が、とても貴重で、大事で、それでいて『思い出』というかけがえのない宝物に変わっていく。特段大きなイベントをやってるわけでもなく、旅行に行っているわけでもない。何気ない日常も、大事な思い出となっていく。
これ以上はないと思えるくらいの快感に感じる。
咲楽と笑いながら食器を洗って、榊原家に咲楽が混ざってテレビを見ながら笑って、そして笑いながらまた明日と、咲楽と別れる。
和穂はこのような日常が明日もやってくると考えれば頑張れる。ポジティブな考えはやる気につながる。そしてそのやる気は、幸せにつながっている。つまり、頑張れば頑張るほど幸せになれるのだと、彼女は考えているのだ。
それが榊原和穂という人間性であり、それは息子の結城にも、お隣に住む娘同然の咲楽にも受け継がれている。
咲楽が家に入るのを確認した和穂は、隣にいる息子に言う。
「じゃ、わたしたちも家に入ろっか」
小さな声で「うん」と返事を返す結城のことが愛しくなって、思わず手を繋いでしまった。そのとき、結城の顔が少しだけ赤くなっていた。もう結城も小学五年生。思春期入りたての彼にとって、母親と手をつなぐ行為に照れてしまっていたのだろうか。
「家はすぐそこなんだから、手を繋ぐ必要なんかないでしょ」
「そだね。でもたまにはいいじゃん。最近、こういう風に手を繋いでなかったし。もしかして嫌だった?」
「別に」
「そう。じゃ、距離は短いけどこれで帰ろっか」
「うん」
夜遅く、街灯に照らされた数メートルの道を、親子仲良く手を繋いで歩いた。
結城は顔を真っ赤にしていたし、和穂は久しぶりの親子のスキンシップに笑みがあふれ出ていた。
これで明日も頑張れる。
和穂は、確かな幸せを、手にしていた。