第四章『あの日の約束』-2・3・4
2
終業式。
なんとワクワクする響きの言葉だろうか。
明日から始まる夢のような日々に、誰もが楽しみでないわけがない。
自分のやりたいことを自由にすることができる日々。夏の長期休暇、夏休みの始まりを宣言する大事な日だ。
色々と終わって学校が終わり、みんながワイワイと騒ぐ教室の一角で、咲楽の前の席にいるパーマをかけた長い茶髪の女生徒がくるりと回って話しかけてきた。
「咲楽~夏休みはなんか予定あんのぉ?」
「え? 予定か……特に決めてないかな。ひよっちは何か予定してるの?」
ひよっちと呼ばれた女生徒は、少しばかり顔を暗くしながら沈んだ声で言った。
「わたしは受験に向けて夏期講習よ。鬱になるわマジで。そういえば、咲楽は進路決まってるの?」
そう、彼女らはもう高校三年生。これからの将来について真剣に考えなければならない時期に来ている。大学、専門学校、就職、その選択はとても重要で、どれを選ぶかで今後の人生はガラリと変わってしまう。
「わたしは……まだ考えれてないかな。正直焦ってる」
「そっか。まぁ、アンタには約束された旦那がいるからぁ、いざとなればそういう方向性もあるわけだしねぇ、フフフ……」
悪い笑みをしながら上ずった声で言うひよっち。
それに顔を赤らめてわざとらしく誤魔化す咲楽を見て、ひよっちは思わず頬を緩めてしまう。
「だ、旦那って……い、いったい誰のことでしょう? あ、あは、あははは」
「誤魔化さないでいいよ。つーか、別に誤魔化す必要ないでしょ。みんな知ってるし、クラス公認のカップルよアンタたちは」
「う、うん……でも、ゆうくんは別にわたしのことが好き、ってわけじゃないと思う」
「ハァ? だって榊原っていっつもアンタと一緒に居るよね。いつでもアイツは咲楽のことを一番にしてくれてる。少なくともわたしたちの目にはそう映ってるよ」
「そうだね。ゆうくんはいつも、わたしのために動いてくれてる」
「うわ、惚気話?」
「違うよ」
その言葉を言ったときの咲楽の目は真剣で、でもどこか暗い表情をしていた。
ひよっちはなぜか知らない方がいいような気がして、でも好奇心が先導してその先の言葉を聞きたい衝動を抑えられない。特に何も考えずに、彼女は咲楽の言葉に耳を傾けてしまう。
「まぁ、悲しい過去がありまして、色々あって現在の関係になりました。って感じ?」
「とても話しが飛躍したね。つまりあまり話したくないことっていう理解でオーケー?」
「それでおけ。まぁ、お察しくださいってことで」
「じゃあ、榊原が今日休んだこともお察しくださいってこと?」
「そうだね。あまり詮索しないでくれると嬉しいなって」
「そう。ならもう何も聞かない。じゃ、夏休みに何して遊ぶか予定を立てようぜ!」
「そうだね! 高校最後の夏休みだもんね。最後にふさわしい夏を過ごそー!!」
彼女たちは笑いながら会話を続ける。
一方、今日学校を休んだと言われている榊原結城はと言うと。
3
お母さん……お母さんがいなくなってからもう六年になるんだな。
俺はお母さんが大好きだった――いや、今でもお母さんのことが大好きだよ。
あの頃はダメになってしまっていたけど、今ではホラ、こんなにも元気にしてるんだ。
って、去年も同じ話したか。
まぁ、これも、アイツのおかげなんだよ。
咲楽はあの時と変わらず今年も元気だ。元気すぎて振り回される毎日だけど、決して嫌ではないんだ。むしろ楽しいよ。俺じゃ考えられないような楽しいことを毎日のように与えてくれる。
律儀に、あの時の約束を今でも守ってやがるんだ。ま、俺もなんだけど。
凄いよな。六年もの間、俺たちはお互いに交わした約束を守り続けてるんだぜ。
ありえねぇよ。
どんだけだよ俺ら。
この話、他人に聞かれたらドン引きされるよ。
お母さんは……この話聞いてどう思う?
って今更か。六年間もこの話聞かされてるもんな。ドン引き通り越してもう諦めに入ってるよな。
――俺ってさ、このままで良いんだろうか。咲楽の厚意に甘えたままで良いんだろうか。
良いわけ……ないよな。
俺は、過去の事を克服しなくちゃいけない。俺はもう高校三年生なんだ。来年には大学生か社会人だし、いつまでも咲楽と一緒になんていられないんだよな。分かってる、分かってるけどさ、俺はいったいどうすればいんだろうか?
なぁ……お母さん……教えて……くれよ……。
4
七年前、榊原結城――一一歳。彼がまだ小学五年生の頃。
結城はいつも通り、学校を終えて家に帰ってきた。
「ただいま」
声変わりがまだなのか、結城の静かで高い声が聞こえてくる。結城の母親である和穂は短く切られた髪の毛を揺らし笑顔で出迎えた。
「おかえり結城。ちゃんと手洗いとうがいをしなさいよ~。じゃないと電脳にアクセスすんの禁止だかんね」
「わかってるよー」
笑顔で、だけど厳しく躾ける和穂のことが結城は大好きだった。父親もそうだが、母親も尊敬している結城は、母親の言うことに従順に従う。母親と父親の言うことが正しいことだと信じて来たからだ。だから逆らうことなく、ここまで反抗期が訪れなかった。いや、反抗期は訪れていたかもしれないが、表立たなかっただけかもしれない。
和穂としても、結城はとてもいい子に育ったと感じている。このまま大人になれば、いったいどんな大人に成長してくれるのか、今からワクワクしてしょうがなかった。
結城は自分の世界で電脳世界にアクセスする。今の子供としては当たり前になった。遊ぶ場所は電脳世界。現実の世界で遊ぶことはないわけではないが、娯楽としては圧倒的に電脳世界が優っている。
単純に楽しいものに惹かれてしまう小学生の子供としては、外で遊ぶよりも電脳世界で遊ぶことが圧倒的に多い。
それによって深刻化してきたのは子供の身体能力の低下。その対策で、学校教育の体育のカリキュラムの変更が行われたり。各家庭で積極的に運動をさせるなどさせている。
が、結城は生まれつき体が丈夫な子供で、特に何かをやるわけでもなく、運動に関しては何でも苦労することなくできてしまう。
水泳をやらせれば、ものの数分でコツを掴んで人並みにできてしまう。
走らせれば同世代の子供たちから比べて圧倒的な速さで走れる。
ダンスをさせれば……いや、これは苦手だった。まぁ、それでも他の子供と比べれば動けている方だったが。
そのほか運動器具を使う授業では学年トップの成績を出していた。
このことに和穂は鼻を高くせずにはいられない。
何か習い事でもしているのですか、と聞かれて、別に特別なことはしていませんよ、と答えるのにちょっとだけ優越感を得てしまう和穂は少し嫌な人間なのかもしれない。でも、思わずでもそんな態度を取ってしまうほど、自分の子供が誇らしかった。
「まったく、義嗣さんに似たのかしらねぇ。あの人は肉体派の人だし」
手を洗うために洗面所に向かって行った後を見つめながらそうつぶやいた。
ジャー、という水が流れる音が途切れると、結城は顔を出して言った。
「あ、このあと咲楽が来るから」
「はいはい、分かったわよ」
和穂の夫、そして結城にとっては父親になる義嗣はこの世を守る私服警察官――刑事だ。
電脳世界という別世界が創られてまだ四〇年も経っていない。一人の人間が二つの世界の秩序を同時に守るのは不可能だ。そんな中、義嗣は現実世界の秩序を守る警察として世のため働いている。
(結城はずっと義嗣さんに憧れてるもんね。警察官になってお母さんを守ってやるんだって、言われたこともあったっけ。とっても嬉しかったな)
ふふっ、と笑みがこぼれる。
すると、インターフォンの音が鳴り響いた。どうやら早速、隣に住む色川家の娘さんである咲楽がやって来たようだ。
「はいはーい、ちょっと待っててねー」
少しだけ駆け足になりながら玄関へと向かう。
扉を開けると、小さい女の子の姿が現れた。
「あ、あの、こんにちは!」
扉を開けたのが結城ではなく母親だったのに少し戸惑ってしまったのか、少し緊張したような喋り方だったが、挨拶はいつも通り元気一杯だ。この元気を結城に分けて欲しいな、と和穂は思った。
「こんにちは咲楽ちゃん。結城なら二階の部屋で待ってるわよ」
「はい。お邪魔しまーす!」
「どうぞどうぞ、ゆっくりしていってね!」
咲楽は駆け足で階段を上っていく。その様子を見て、和穂はあふれ出る若さに少しだけ嫉妬してしまった。今では何メートル走れるのか、そもそもまともに走れるかも怪しい。彼女の元気な姿は、自分の老いを感じさせるものとなった。
「私も体を動かさないとダメね。さて、夕食の買い物と行きましょうか」
和穂は外に出る身支度をし、結城たちに知らせるために二階の結城の部屋に向かった。
「入っていい?」
「なに、お母さん?」
扉を開けると、結城と咲楽の二人がこちらを見つめてきた。
「お母さん、夕食のお買い物に行ってくるから、お留守番お願いね。そうだ、咲楽ちゃんも一緒にどう、晩ごはん?」
「いいんですか?」
「うん、もちろん。いつものことだし、結城も時々ごちそうになってるしね。瑞枝さんには私から伝えておくから」
「分かりました。ではご馳走になります!」
「うん。じゃ、咲楽ちゃんの為にもとびっきりに美味しいごはん作っちゃうんだから! 楽しみに待っててね咲楽ちゃん!」
「はい、期待してます!!」
その元気一杯な声と笑顔が、和穂にとっては癒しだった。まるで自分も娘のように感じさせるのは、結城が生まれたての時からの仲だからだろうか。色川家にとっては結城は息子のような存在だし、同じく榊原家にとっては咲楽は娘のような存在。
昔からそのような関係にあるこの二つの家は、仲が良いを通り越してまとめて一つの家庭のような感じだった。調味料を借りるような小さなことから、家族旅行のような大きなことまで一緒に行うことがある。
まぁ、さすがに旅行は毎回ではないが、何回かは一緒に旅行に行ったことがあるのは事実だ。特にケンカもなく、仲良く旅行を終えている。旅行中は父親は父親同士、お酒を飲みながら妻の愚痴大会を開いていたし、母親は母親同士、夫の愚痴大会を開いていた。
そして子供は子供同士、仲良く遊んでいた。
(ホント、良い友達を持ったわね、わたしたち。咲楽ちゃんなんか結城にゾッコンだし。あーあ、わたしとしてはあの二人にゴールインして欲しいなぁ。って、こんな話はまだ早いか。まだ小学生だしね)
和穂は一度階段を下りて居間に戻ると、携帯端末のエアリアルフォンを取り出した。空中に現れる半透明のディスプレイを指でタッチして操作し、咲楽の母親である瑞枝にビデオ通話を発信した。
コールをかけて数秒、瑞枝が電話に出た。空中投影ディスプレイ上には、ふわっとしている茶色い髪をした瑞枝の顔が映されている。その見た目通り、彼女はゆったりとした雰囲気を持っており、咲楽とは真逆の性格をしていた。瑞枝曰く、咲楽は和穂さんの影響を大きく受けている、とのこと。
『何でしょうか和穂さん? もしかして咲楽が何か迷惑かけました?』
「全然そんなことはないよ。いつも通り仲睦まじくやっております」
『そうですか。相変わらず結城君のことが大好きなんだからあの子は』
「まったくよねー。でも、私の息子は恋心とかまったく理解してないみたい」
『あ、分かるかも~。結城君はまだまだ子供だってことよね。まぁ、そーゆー精神的な成長は女の子の方が早いし仕方がないのかも』
「そんなものなのかしらねぇ。結城も小学五年生だし、思春期に入っても良い頃だけど」
『結城君は少し遅いのかもね。声変わりもまだですし』
「まぁ、結城は恋愛より家族愛の方を優先しているだけなのかも。警察になってお母さんのこと守ってやるんだーって言ってくれるし」
『そーゆー惚気話はいいですから。だいぶ話しが逸れてしまったみたいですけど……』
「あ、そうそう。咲楽ちゃん、今日わたしの家でご飯食べていくから」
『あら、良いんですか?』
「いいのいいの、結城も時々お世話になってますし」
『では、お言葉に甘えてよろしくお願いしますね』
「はいよー。じゃあ、わたしは買い物に行ってくるから、これで」
『はいは~い、いってらっしゃ~い』
そして和穂は家を出る。いつにも増して美味しい料理を作るために、最高の食材を求めて。