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緑の杜

作者: 小鳥遊 葵

『緑の杜』


(1)


突き抜けるような青空、そよぐ風が心地よい。


たっぷりと水を湛えた湖面は時折の風に優しくなびいていた。


 


「緑、緑どこだ?」


どこからか男の声が聞こえた。


その男はこの風景に到底溶け込みそうもない姿をしていた。


所々黄ばんだ白衣。


度の厚いメガネ。


色白の肌に無精ひげ。


どれをとってもこの空の下ではかすんでしまう。


 


「何?どうかしたの?」


突然湖面に水しぶきが起こり、少女がちょこんと首を出した。


「また泳いでいたのか…?」


男の問いに少女は満面の笑顔で答えた。


翠色の綺麗な瞳は日の光を受け輝いていた。


「あまり水に浸かるのは良くないって言っているだろう?」


「……だって気持ちが良いんだもん」


はつらつとした笑顔が男の決心を揺るがせる。


「……駄目だ、上がりなさい」


「…はぁーい…」


しゅんとして岸に歩きだす。


少女は何も纏ってはいなかった。


目と同じ色の髪の毛は水に濡れて艶っぽくなっていた。


「少しは…恥じらいを持ったらどうなんだ?」


柄にもなく男は照れていた。仏頂面の四十男が。


「ほえ?」


少女のあどけない顔に男はそれ以上の言葉を持たなかった。


 


(2)


「ねぇ、博士まだ終わらないの?」


「まだだ」


少女がつまらなそうに足をぶらつかせている。


かれこれ同じ会話を何度繰り返したことか。


 


湖の真中にせり出した土地に館はあった。


元は貴族の別荘だったとか幽霊屋敷だったとか言う話はあるが…ともあれここの住人は二人だけ。


周囲には村もなく完全に孤立してる。


ここは誰にも邪魔のされない空間だった。


 


薄暗い研究室に男と少女はいた。


色々な実験器具があり、男はそれと格闘していた。


「博士…まだ終わらないの?夕食冷めちゃうよ?」


再三の催促についに男は折れた。


「…わかった。飯にしよう」


 


いつもの光景だった。


一つの食卓に男と少女が向かい合っている。


会話は他愛もないものだった。


少女は今日見たこと全てを話していた。


魚と一緒に踊ったこと。


鳥と一緒に歌ったこと。


彼女にとっては見るもの全てが新鮮だった。


男はいつも大して変わらないこの彼女の話を楽しそうに聞いている。


男は彼女に恋をしていた。


 


(3)


夜、この館では一つの決まり事があった。


『水に触れてはいけない』


これが絶対禁止事項なのである。


 


「ねぇ…は・か・せ」


少女はベッドの上で男を呼んだ。


パジャマは男のものであろう。


袖が余り、見上げるている胸元が見えてしまっている。


「どうした?緑…」


男はベットに腰掛けるとそっと頭を撫でてやった。


「もう…分かってるくせに…」


少女は顔を赤らめると枕を抱いて横を向いてしまった。


「緑…」


男は少女をそっと引き寄せると口付けを交わす…


「愛してるよ」


 


「緑…もうすぐ薬が完成するよ…」


男はベットの中でつぶやいた。


傍らには翠色のめを目いっぱい輝かせた少女がいた。


「本当?」


「ああ…もうすぐだ」


二人は一つのシーツの中でぴったり寄り添っていた。


「今から残った分を調合する。明日の朝には出来るだろう…」


「えー…今夜は一緒に寝ようと思ってたのに…」


少女は残念そうに男を見た。


『行かないで』と言っているつもりのようだ。


「我慢するんだ…。その代わり、明日からは…ずっと一緒だ」


男がそっと撫でてやると少女は納得したのかこくりと頷いた。


男はベットから這い出すと手早く着替え、白衣を身に纏った。


「行って来る。」


そう言い残し、男は部屋を出た。


 


(4)


研究室は館の地下にあった。


すぐそこが湖だけあって湿っぽい。


男はもう何時間もここで薬品を調合している。


ここ数日はいつもこんな調子だった。


『早く緑のために薬を…』


それが彼を突き動かしていた。


 


「ふぅ…後はこれを混ぜるだけか…」


男はついに薬を完成させようとしていた。


「よっと…」


丁寧に注射器でアンプルに注入する。


中で液体は混合し、薬は完成した。


「……やった、完成だ…」


男は大仕事をやってのけた。


 


男が別の注射器にアンプルの中身を注入し終えると作業は完了した。


ほっと一息つくと男はめまいを感じた。


三日間ろくに寝ていないのだから無理もなかった。


よれかかり、後ろの薬品棚にぶち当たる…


しかし、そのときの衝撃で一つの薬瓶が転がり落ちた。


刹那、轟音が館全体を揺らした。


 


「博士?」


胸騒ぎがして少女は目を覚ました。


館を揺らす爆発が起きたのはその時だった。


「!!」


少女は飛び起きると部屋を出た。


服を着ることも忘れて階段を駆け下りる。


 


「博士っ!!」


研究室のドアは衝撃で吹き飛んでいた。


部屋は半分吹き飛んでいて、穴の空いた壁からは水が流れ込んできていた。


男は爆風で吹き飛ばされ、倒壊した壁に下半身が埋まっている。


「博士…大丈夫?」


少女が声をかけると弱々しい声で男は答えた。


「こっちに来るな!」


男の前には大きな水溜りが出来ていた。


徐々にその水量も増してきていた。


入り口は階段続きであるためにまだ、水は来ていない。


 


『夜、水に触れてはいけない』


 


「これを…」


男は注射器を投げた。


男は猛烈な爆風にも注射器を離さなかったのだ。


「それを注射して…陽の光を浴びるんだ…そうすれば…おまえは…」


「でも、博士をそのままにして置けないよ!!」


「私は…いい…どのみち…助からんさ…」


男の言葉が段々弱々しくなっていく。


水溜りには幾筋もの赤い河が注ぎ、赤く染まっていく…


「嫌だよ…そんなの嫌だよ…」


少女の翠色の瞳から大粒の涙が落ちた。


「駄目だ…来る…な…」


少女は一歩、前に出た。


つま先に水が触れる。


すると少女の様子が変わった。


次第に肌の色が変わっていく。


それでも少女は歩みを止めなかった。


「駄目…だ…頼む…来ないで…くれ…」


男の言葉を遮るように少女は言った。


「貴方に会えたから…私は人間になりたいって思ったの。あなたなしでは人間になる意味なんてない…」


少女の身体は緑色になっていく。


身体のあちこちから木の芽のようなものが吹き出始めた。


「…博士…」


男の元へ行くと少女はかがみこみそっと男の頭を撫でた。


「み、緑……」


少女から伸びた蔓が男に覆い被さっていた瓦礫をどける。


少女は男を抱き寄せた。


身体中から伸びた蔓や芽が天井まで達していた。


「緑…愛してるよ…」


男は最後の力を振り絞って少女とキスを交わした。


「あたしも…愛してる。」


少女は男をいとおしそうに抱きしめる。


身体は顔以外人間の姿をとどめていなかった。


「これからは…ずっと…ずっと一緒だよ…」


蔓が二人を覆い始めていた。


二人を優しく包むように…


 


「ずっと…一緒だよ…」


 


(5)


月日が流れるのは早い。


湖面に浮かぶあの館の姿はすっかりなくなっていた。


代わりに一本の巨木が天に向かってそびえ立っている。


そして巨木の回りを囲むかのように森が出来ていた。


人も住み始め小さな村も出来た。


住人たちは森をその鮮やかな色からこう呼んだ。


『緑の杜』と……。


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