人の価値、意識の自由、自由な存在
人に価値はあるのだろうか?
それはつまり、人に定められた価値はあるのかという話になる。
世界が、あるいはこの宇宙が客観的に定めた価値が存在するのならば、それは人に与えられているのだろうか?
けれど人には定められた価値などない。
動物や精密な機械と人を隔てているものなど世界には存在しない。
しかし、現に我々人という存在は動物ではないし、いかなる精密な機械よりも価値があると感じている。
理性的な、論理的な次元ではなく、より原始的な感覚で人は人には価値があると思っている。
それは他覚的には証明できない主観的な感覚に過ぎないが、けれども、誰にも否定することは出来ない。
人は単なるモノに過ぎないと、あくまでも動物の延長に過ぎず、有機的な構造を持った高度な熱機関人形に過ぎないと誰かが語ったとしても、我々はそれを否定することは出来ない。
なぜなら我々自身がその価値を絶対的なものとして証明することが出来ないからであり、その相手が人が価値あるモノであるというある意味共通の認識、あるいは価値観を受け入れていなければ、議論として成り立たないからだ。
けれど、だからといって人の価値が否定されることは無い。
我々は機械とは異なるし、動物ではない。
なぜなら我々が人はそれらの存在とは異なると認識しているからである。
しかし、その認識というものは外から見るモノからすれば証明することは出来ないものだ。
例えば脳内を流れるイオン電流、レセプターに結合する神経伝達物質の動きをすべて見ることが出来るモノがいたとすれば、そのモノからすれば人は機械と変わらないと思うかもしれない。
けれど、人の意識というものの実体とはその電流や化学現象ではなくその総体の中あるいはその流れの総体そのものであるために、外部からの証明は難しいか、ともすれば証明すること自体が無意味なものと言えなくもない。
人が意識と呼んでいるものは錯覚、あるいはそもそもが存在しないと主張された場合、我々は否定する材料がない。
けれど、意識というものはそのようなあいまいなものの上に成り立っていると言わざるを得ない。
我々人が動物や機械とは異なると認識していること、あるいは尊いと感じているこの意識も含めて、意識というのは「我々が意識していると感じている、あるいは錯覚している状態のことを指す」と言わざるを得ない。
人とは何かと問われた時に、我々は「それは人である」以外答えようがないのだ。
そういう意味では素晴らしく発達した機械が、自らには意識があり、人間と同様に感情があると主張した場合、それが意識を持つと言える水準にまで達しているのならば、たとえそれがプログラム動作の想定内であったとしても我々は否定することが出来ない。
人の価値は我々人が人には価値があるという価値観を共有することによって付与されている。だが、その基盤となる意識というものはひどくあいまいなものだと言わざるを得ない。
そしてそれは他者、あるいは外部から見た場合、人間の独りよがりな主張に過ぎないように映るかもしれない。
我々人にはそれ以上のことは何もできない。
だがそれは、裏を返せば人の価値は人が人間を価値あるモノと信じることによって生まれているということに他ならない。
それはつまり、人が人の価値を信じる限り、人には価値があるということであり、その領域には他者の介入を許さないということだ。
人が人の価値観を、あるいは意識、認識といったものをあえて議論不可能な低次元の原始的な階層に隔離することで、それらは逆に粗暴な議論や論理主義から隔離され、保護された尊いものとして存在することを可能にしている。
それこそすなわち、我々人の意識は本質的に自由で冒し難いということである。
あるいはここで、人の意志、あるいは信仰と言えるかもしれないが、そのような領域の自由ですら明文化された法が無ければ保障されない。他者の保証が必要なものだと主張するモノもいるかもしれない。
しかし、考えてみてほしい。
道端に転がる石ころに対して自由を保障するものがいるだろうか?
自由を保障するということはつまり、その自由は制限することが可能だという前提に則っている。
つまり、人には自由にふるまうことが出来る能力、意識が存在するということを、本質的に自由であると認めていることになるのだ。
自由の保障とは人の価値観や意識といった我々人の共通認識の段階から一段進んだ議論可能な次元でなされた定義に過ぎない。
議論とは下地となる共通認識が確認された上でなされるものであり、認識事態を議論することは出来ない。
自由や意識、あるいは価値観といったものは我々人の願望であり、希望であるため、余人からの干渉を受けない。
自由とはすなわち、意識あるモノとして存在すること、干渉を拒絶し、自分に意識があり、自由な存在であると認識している状態のことであり、他者が規定する現実的な、物質的な次元での行動、あるいは思考の許可とは階層が異なる。