雨雲
世界が色をなしたのはあの方に会ったときから。
それまでは獣のように生きていた。
土砂降りの雨の中を駆ける。
はぁはぁという呼吸音が狭い路地裏に響いた。
父親はどこの誰とも知れず、唯一の肉親だった男好きな母親も、酒の飲みすぎか病を患いあっけなく死んだ。
それはいい。
産むんじゃなかったと口癖のように言われ続け、男を連れ込むと寒空の中だろうと外に放り出す、最低な母親だった。
そんな女が生きていようが死んでいようが、生活にそう大差ない。
男が居る間はまともに飯も食えず、腹を空かせて食べ物を盗んだ。
いまは欲しいものはそうやって手に入れるようになった。
今日だっていつもと同じはずだったのに――。
「ちくしょう、あのジジイは勝手におっ死んだんだ」
苛立つ声に動揺が混じっていた。
ターゲットにした初老の男は、奪われた荷袋を取り返そうとして、周りに目を配る余裕がなかったのだろう。
運悪く走ってきた馬車に轢かれて死んだ。
そしてその馬車には隣国へ向かう、国の有力者が乗っていた。
日頃の行いから、町の人間にどう思われているかわかっている。
味方などいるはずもなく、簡単に役人に追われる立場になってしまった。
石畳など敷かれてもいない下町では、ぬかるんだ地に足をとられる。
「あっ」
ばしゃりと転んだとたん、
「馬鹿なにやってんだよ!とろくせぇな」
罵声が飛んできた。
その声には先ほどからある動揺と、そして恐怖も滲んでいると気づいた。
冷たい雨は衣服に滲みて、体の芯まで冷え切っている。
膝を打ち付けた痛みに歯を食いしばって体を起こした。
「痛っ」
が、右足首に鋭い痛みが走ってうずくまる。
「痛めたのか!?――ちっ、しゃあねぇな」
素早く腕の下に頭を入れ、肩を貸すようにしてぐいと立ち上がらせられた。
驚きながら彼を見つめると、フンと鼻を鳴らすしかめっ面があった。
「見捨ててったら寝覚めが悪ぃからな。体、ちょっと熱いな。熱があるんじゃねぇか?」
「いつもの微熱だから」
「ほんっとおまえって体弱ぇえよな。季節の変わり目には必ず熱を出す。細ぇし生っちろいし、チビの頃からなんもかわんねぇ。もちっと体力つけろよ」
「健康体はおまえが持ってったんだ。双子なのになんでこんなに違うんだろ」
双子の顔は同じであることが多いが、二人はあまり似ていなかった。
同じなのは瞳の色だけだ。
「そんかわり、おまえは不思議な眼を持ってるし、魔力だってあるみてぇじゃねぇか」
「いらないよ、こんな力」
物心がつくころからそこにはない景色が見えることがあった。
それは隣の家の中であったり、市場の人であったりして、頭で考えた場所が見えていると、成長するにつれわかった。
母親は最初、この目を使って一儲けしようとした。
しかし力が不安定でいざというときに見えず、あげく熱を出して倒れてしまう。
母親には役立たずとひどくぶたれ、そして使えないと判断すると、気味が悪いと疎んじられるようになった。
水晶があれば上手く力が安定すると後にわかったが、体力はどうやっても補うことはできない。
欲に目が眩んだ母親が、また力を使わせるだろうことを恐れ、水晶で力が安定することは双子だけの秘密になって、今日まできた。
「あの女の腹ん中で体力と能力に、きっれいに分かれちまったんだ――ってこんな話してる場合じゃねぇな。おい、役人はどこまで追ってきてる?体がきついだろうが見てくれ」
頷いて懐に手を突っ込むと小さな水晶を取り出した。
購入したのではなく、もちろん盗んだものだ。
手を開いて愕然とした。
「嘘だ……罅が入ってる」
これでは水晶になにも見えない。
「さっきこけたときか。クソッ」
仕方なく二人は歩き出す。
「どこに行くつもり?」
「川に出る。この町は国境に近いんだし、流れに沿っていけば隣のカッレラ王国に入れる」
「その前に死の精霊が住む死の滝があるじゃないか。滝の周りは人の登れない岩壁だし、あそこからカッレラに入るなんて無理だよ」
「どのみち俺たちには行き場がねぇ。滝に飛び込んで無事なら、天が俺たちに生きろって言ってんだよ」
な、と言ってくるその目は、追い詰められた者特有の異様な光を帯びているようだった。
自分たちに他に道はない。
覚悟を決めて川へ急ぎ、雨のせいで濁った水の流れを追うように、膝まである枯れ草を踏みしめ川岸を進む。
大粒だった雨脚が小降りになっていた。
分厚かった雨雲も薄くなってきている。
「カッレラってすげぇ豊かな国だって噂だろ。きっと俺たちみたいな親なしのガキにも仕事がある」
「年齢を誤魔化したらどうかな」
「俺は大丈夫だろうけどおまえは無理だろ。心配すんな、俺が稼いでやるか――っ」
ド、と鈍い音がして、台詞が途切れた。
その表情が苦痛に歪むのに気づいて、視線をずらせば矢が左肩に突き刺さっていた。
反射的に背後を振り返ると、弓を番える役人の姿が見える。
「川に飛び込め」
「え!?」
「枯れ草に身を隠したところでいずれは見つかる。このままじゃ殺されちまうぞ」
ヒュ、ヒュと風を切って矢が飛んでくる中、引きずられるようにして土手まできたが、唸り声のような水音と、水嵩が増し底の見えぬ濁流に身が竦んだ。
「こんな流れに飛び込んだら死んでしまう!」
「じゃあいま死ぬか!?迷ってる暇はねぇんだよっ」
ビ、と矢が腕を掠めていった。
役人がいつの間にか増えていたため二人して息を呑む。
弓弦を引き絞った役人たちが一斉に矢を放った。
身を硬く強張らせたのと同時にぎゅっと抱きしめられる。
腿に焼けるような痛みが走った。
「痛ぅ」
「当たっちまったのか?」
「太腿に……」
言いかけた言葉は続かなかった。
こちらを覗き込んでくるその肩に刺さる、矢の数が増えていた。
それに他にも矢を受けている。
庇われたのだとわかった。
「……な、んで」
冷えていたはずの手のひらに生温かく感じるものがある。
震えながら両手を持ち上げてみれば、真っ赤な血で濡れていた。
「んな顔、すんな。ほら……行くぞ。運が良けりゃ助かる。二人で……生き延びようぜ」
もろともに川に向かって身を投じる寸前、叫ぶ役人が再び矢を放つのが見えた。
違うことなく一直線に矢が飛んでくる。
「しゃれになんねぇ」
呟きとともに、また胸に抱かれた。
「だめだ、パウリっ!」
矢を受ければ、今度こそおまえが死んでしまう。
ドッ!
衝撃を物語るように腕に力がこもった。
直後、ざぶんと濁流の中に沈んで、上下がわからなくなるほど振りまわされる。
氷のように冷たい水にもがくことすらできず意識を失った。
* * *
先ほどより辺りが暗くなったようで小鞠は空を見上げた。
雲の流れが速く暗雲が辺りを覆い始めていた。
側に居た侍女たちが慌てた様子で駆け寄ってくる。
「コマリ様、この空模様では雨が降ってくるでしょう。急いで王族塔へお戻りになられたほうがよいかと存じます」
エーヴァの言葉に立ち上がった小鞠の手からドリスが籠を受け取る。
籠の中には一口サイズの桃のような実が幾つも入っていて、甘酸っぱい香りをさせていた。
王宮にある果樹園で彼女はキュラという果物を採っていた。
形は小ぶりな桃に見えるが、種は苺のように果肉の外に粒々とあって、丸ごと食べられる。
中心に蜜があるらしく、噛むと果肉の酸味と混ざって、とてもおいしい。
初めて食べたときからキュラが好物になってしまった小鞠は、いまが盛りのキュラ狩りをしていたのだ。
「さっき来たばかりなのに。籠だってまだいっぱいになっていないわ」
「またいらっしゃればよろしいですから」
エーヴァの台詞に小鞠はチラリと周りを見た。
王族塔は自由に動き回れ、執政塔へ向かうのも簡単だったが、その他へ小鞠が出向こうとするととたんに大事になる。
侍女四人はもちろんのこと、小鞠の護衛であるオロフをはじめ、必ずもう二人か三人、護衛となる王宮騎士団の者が一緒なのだ。
今日は二人。
二人もオロフと同じく、シモンの近衛騎士のメンバーであるそうだ。
(腰に剣まで挿して物々しいなぁ。時代劇じゃ殿中でござる、ってあったと思うんだけど、カッレラじゃ建物内の佩刀もオッケーだし)
言われたとおり王族塔へ向かう小鞠は、背後にぞろぞろとつき従う人たちが居ることにうんざりする。
以前、見張られているようで嫌だとシモンに言って、彼もわかってくれたはずだが、何か危険があったときのために護衛はつけねばなりません、と小鞠の身軽さを見た重臣たちに進言されらしい。
強力な魔法で守られている王族塔と執政塔では、なるべく自由にできるよう、護衛は基本一人、それも気心のしれたオロフでいいだろうと、シモンも頑張って彼らを説き伏せてくれたようだが。
(絶対護衛が必要って王宮でどんな危険があるっていうわけ?自由が恋しいよぅ)
日本じゃ気軽にどこへでも出かけることができたのに。
簡単に街をぶらつけた頃が懐かしい。
ふと小鞠の脳裏に、菊雄と喫茶店で出すコーヒーの豆を買出しに出たり、冠奈と洋服を買いに出かけたことが浮かんだ。
(ああぁ、ダメダメダメ。またあの二人のことや日本のことを考えちゃってる)
アンティアに会った日から、日本にいた頃のことを思い出さない日はなくなっている。
そして日増しに懐かしむ思いが強くなっていた。
けれどシモンにはいまだ話せないでいる。
この気持ちを話せば彼を困らせ、苦しめるだろうことはわかっていたからだ。
小さく息を吐いて小鞠は背後の気配を探る。
いきなりダッシュして逃げてやろうか。
できもしないことを思って気を紛らわせていたとき、こちらに近づいてくる小さな光に気がついて足を止めた。
同時にオロフたち護衛官が前に出て小鞠を守る。
「コマリ様、こちらへ――」
エーヴァに呼ばれたはずが、周りの木々から幾つもの淡い光が現れてきたため、小鞠はあ、と声をあげてそちらへ駆けていた。
「久しぶりね」と笑う彼女の周りに、小さな光を纏う森の妖精たちが集まってくる。
「きゃあ、も、森喰いっ」
「コマリ様!それは森喰いでございます」
「危険ですから離れてくださいませっ!」
侍女たちの声に振り返って、真っ青になっている彼女らに小鞠はにっこりした。
妖精を追い払おうとしていた護衛官を制する。
「大丈夫よ。魔法で守られてるしこの子たちはわたしのお友達なの。でも皆は精気を奪われちゃうから離れていてね」
護衛官が戸惑った様子になる中、オロフが頷いて彼らを下がらせた。
「オロフも離れていなきゃ」
「わたしは魔法石を賜っておりますので」
「あ、そっか」
「以前、森喰いに懐かれたと伺ったときは半信半疑でしたが、まさかここまでとは思いませんでした。警戒色を発していない森喰いを近くで見るのは初めてです」
ふよふよと小鞠の周りを飛び回り、触れるギリギリの距離で彼女に擦り寄る仕草をする妖精を、オロフは驚いたように見つめている。
「ちっちゃいお馬さんみたいで可愛いでしょ?花びらの羽はきれいだし。はい皆、オロフにカッコイイ姿見せてあげて」
とたんに妖精たちがオロフの目の前に一列に並んでポーズをきめた。
それを見た彼が目を白黒させる。
「いつのまに調教までなされたのですか?」
「そんなことしてない。仲良くなっただけ」
むう、とした顔を小鞠が見せると、オロフは苦笑を浮かべ「申し訳ありません」と謝罪した。
「いまはこの辺りがあなたたちのご飯の場所?――そう、じゃあ王族塔にくるまでもう少しあるのね。わたしはね、果樹園に行ってキュラを採ってたの」
キュラと小鞠が言ったとたん、ピクと小さな妖精たちが反応した。
赤い光を放つ森の精がブーンと猛スピードで侍女たちの方へ飛んでいき、それを追うように様々な色の光が続く。