逆らえない相手
「それでアンティアは突然帰ったのか」
ベッドに体を横たえ、片手で頭を支えながら話を聞いていたシモンに、鏡台で髪を梳かすコマリが振り返って頷く。
「うん。いったい何をしに来たんだろうって感じ。ほんの数分話をしただけなの」
また髪を梳かし始めたコマリを見つめ、彼は思ったことをそのまま口にした。
「わたしとコマリの愛の深さを知って、割り込めぬと思ったのだろう」
ピタ、とコマリの手が止まった。
しばらく観察していると、再び手が動き出し、「そういえば」と話題を変えられる。
こういう話はやはり恥ずかしいらしいとわかって、シモンは一人笑ってしまった。
「テディにレディ教育されたから余計に思うけど、アンティアこそ完璧な貴族のお嬢様って気がする」
「今回は同意見なのだな。マチルダのときのように、女の子同士とやらで、アンティアの隠された本性はわからなかったか」
「本性?うーん、話すとき独特の間を持ってるってことぐらいしかわからなかったわ」
髪を梳かし終わったらしく、ブラシを鏡台に置いたコマリは、ベッドの上に乗ると、膝立ちでシモンに近づいてくる。
夏仕様に変わったネグリジェは、袖や裾丈が短く布地も薄い。
一部レースになっている部分から地肌が見えて、隠れた裸体を想像させた。
もともとは袖も裾も長かったのだが、ジゼルが「暑苦しい」と意匠を変えたらしい。
作り変えるにもまたお金がかかると気づいたコマリは渋っていたが、仕立て屋も未来の王妃の衣類を作ることで、世間に名を売れる。
そのうえコマリの専属意匠屋のジゼルが顧問となってつけば、顧客は倍増するだろう。
そのあたりをチラつかせ、手直し代の交渉はテディが上手くつけていると伝えると、何とか納得してくれた。
こうしてネグリジェを見て思うが、ジゼルは男心をくすぐる要素をよくわかっている。
コマリに内緒で感謝の意を伝えれば、
「コマリって自分にセクシー要素がないって思い込んでるから、少しずつ教育しなおしてるの」
と、意識改革までしてくれていたようだ。
ならば今後こういった想像を掻き立てる寝衣を、もっと着てくれるということだろう。
大歓迎だ。
眩しく映る生足に脱がせてしまおうかと衝動が走る。
シモンが動きかけたところで、コマリがまた話しだした。
「男の人って神秘的な女の人って好きでしょ?簡単に全部わかっちゃったら、すぐに厭きるって聞いたことがあるもの」
一人やる気を出してしまったがコマリにその気はないらしい。
コマリとのこうした会話もかけがえのない時間の一つだ。
生足はもう少しお預けといこう。
「それは少しずつ己を見せてくれるということだろう?アンティアは神秘的とはまた違う気がするが。話をしていてもわたしに合わせているだけのようで、どこに本心があるのかわからなかったぞ」
「本心がわからないって確かに。なんだか話が噛みあわない感じでね……ん、あれ?シモンには話を合わせてたんだっけ?」
「その違いはもしかして、アンティアもコマリになら、本性を見せていたということではないか?」
「えー、そうかなぁ?」
首を傾げるコマリの側で、ごろんと寝返って仰向けになったシモンは天蓋を見つめた。
「多くの者がわたしには笑顔を向けるだけだ。わたしが王族である限りそれは仕方ないのだろうと思っていたが、コマリには皆が素顔を見せるのか」
少しあって、コマリがひょいと顔を覗き込んできた。
「シモンの愚痴らしい愚痴って初めて聞いたかも。みんなシモンが王様になる人だってわかってるから、緊張したり気を遣ったりしてるんだと思うけど、それがヤダ?」
「もう慣れた。……がときどきうんざりする。わたしもコマリのように、人の心をほぐすような親しみやすさがあれば良かった」
「シモンは気さくで親しみやすい王子様だと思うけどな。そこに気品とか優雅さとか、んー、なんて言うんだろ。王族としての輝き?みたいなのがあるから、そういうのをみんな肌で感じて、礼を尽くしてるんだわ」
「わたしはそんなたいそうな人間ではなくただの男だ。カッレラ王国の王子として生まれ、そう振る舞っているだけにすぎない」
「じゃあ第一王位継承者のシモン王子をやめちゃう?」
質問に言葉が詰まる。
カッレラ王国のより良い未来をと力を注ぐ父王を助け、王位を継いだなら自分も同じく、カッレラ王国を平和で住みよい国にしようと思って生きてきた。
「無理って顔に書いてある」
ふふと笑うコマリの手のひらが髪に触れ、そっと頭を撫でてくる。
「自分のお金を使って王国の整備とかやっちゃってるくらい、この国のこと大事に思ってるもんね。テディに聞いたけれど、他にも街道を整えたり学校を増やしたりって、いろいろ計画を立ててるんでしょう?」
「わたしの財を王国のために使うよう言ったのはコマリだ。民の豊かな未来を築くために」
「そんなこと言った?そういえばサデが、いま王国内で点検とか修理とかやってるのって、わたしが案を出したからって変な誤解をしてるの」
「誤解ではない。出会った頃、金貨を贈ろうとしたら王国のために使うよう、わたしに言ったではないか。なんと聡明で慈悲深い女性であるかと思った」
コマリは宙を見上げ、考えるような素振りを見せていたが、「ああ、あれ」と笑いながら首を振った。
「わたしこそそんなできた人間じゃないわ。あの時はカッとなって、偉そうなことを言っただけ」
「コマリは何気ない言葉だったかもしれないが、わたしは心打たれたのだ。自然に人を動かすことができるなど、誰もができることではない。わたしにとってコマリは何者にも変えがたい、素晴らしい女性だ」
心からそう伝えているのに、コマリは本気にしていないように笑うだけだ。
ときおり彼女から聞こえる「愛魂マジック」とはよく意味がわからない。
「王国の人にとってのシモンってそういう人なんじゃない?」
「うん?」
「何者にも変えられない人。次の王様ってだけじゃなくて、王国のことを、そして国民のことを考えてくれる、素晴らしい王様になる王子様ってわかってる。だから笑顔を向けてくる。ね?」
金と欲が絡んでへつらう者がどれほど多いか。
コマリもわかっているだろうに。
それでも、コマリの言う国民に好かれる王子になれればいいと思う。
「そうであればよいな」
「うん。ね、シモン、こういう話、わたしにしてね。シモンのことを知りたいから」
「愚痴など情けないとは思わないのか?」
「だってシモンは頑張ってるもの。吐き出さないと折れちゃう」
「そこまで弱くはないつもりだが――こうして甘やかされるのなら悪くない」
言いながら自分に触れてくるコマリの手を取って指を絡ませた。
彼女が柔らかく笑む。
「甘えたいの?じゃあ膝枕でもする?」
「それは良案だな」
体を移動させ、コマリの膝に頭を乗せた。
自分を見下ろす彼女の顔が近づいて、唇にキスをしてくる。
けれどそれはすぐに離れてしまい、先ほどと同じように、どこか弄ぶように髪を触られた。
「コマリ、髪に触れられるよりキスのほうが気持ちが良いのだが」
「たまにはこういうまったりしたのもいいでしょ?」
いやキスのほうがいい、と不満に思ったのが顔に出ていたようだ。
「そんな顔しないの。ここのところ疲れてるでしょ?いまは休んで」
「だからコマリに癒してもらいたいというのに」
頭を乗せていた彼女の腿に手を這わすと、ぺちん、と軽く甲をはたかれた。
「ふざけて誤魔化さないで」
口調を強めたコマリであったが、その顔は怒っているというより、心配そうにしているとシモンは気づいた。
「前に城下でデートするために無理したときみたいに、目の下にクマができてる。だからほら、目瞑って」
わが身を案じてくれてのことならば仕方がない。
諦めて目を閉じると、頭を撫でるコマリの手の動きが、ゆっくりと優しいものに変わった。
「シモンのお仕事のことに、わたしが口出しするのはいけないかもしれないけど、過労死するほど働くのはやめてね」
「カロウシ?」
「働きすぎて命まで削っちゃうこと。過労が元で死んじゃう人もいるんだから。睡眠はちゃんととらなきゃ」
「体力には自身がある。それにコマリがようやく愛らしい声を聞かせてくれるようになったのだぞ。可愛がらずしてどうするの、ダっ」
先ほど手をはたかれたより強く、額をベチリとやられた。
「このエロ王子っ!しばらくエッチは禁止」
「えっち」とは交合することだととうに理解していたシモンは、閉じていたはずの目を剥いて反論する。
「禁止!?コマリの負担を思って毎日抱きたいのを我慢しているのだぞ。なのに禁止とは、わたしを欲求不満で殺す気か」
「だってそれもシモンを疲れさせてる原因の一つでしょ。自分がどれだけ疲れた顔してるか自覚しなさいっ」
「コマリを抱いて得られる快感はどれほどのものか。心地よい疲れは体に負担をかけることもないはずだ。禁止は守れない」
「また守れないって――シモンってばどうしてそんなにエッチに情熱かけるのよ。これが俗に言う、「体だけが目当てなの」ってやつ?シモンってば最低」
思わず自分の耳を疑ってコマリの膝から跳ね起きた。
肩を掴んだ彼女の顔を覗き込み、誤解をとくべく強く言う。
「体だけなど馬鹿を言うな!わたしはコマリを愛しているのだ。だから欲しいと思う。抱きたくなるのだ。他の娘などほしいとも思わない。そこは疑ってくれるな」
大きくなった声にびっくりしていたコマリは、少しあってシモンの頬に触れてくる。
「ごめん、冗談でも言うことじゃなかった」
冗談……なんだ、そうか。
ホッとしたシモンを見つめる彼女は、はにかみながらも嬉しげな様子をみせた。
「あのね、正直に言うとシモンに愛されて、腕の中で眠るときすごく幸せを感じる」
「それはわたしもだ。甘えてくるコマリが可愛くてたまらない。腕に抱いて眠るのがどれほど幸せであるか」
言葉だけでは足りなくて、ちゅと唇を合わせると、コマリは目を細めてとても美しく微笑んだ。
普段は幼さばかりが目立つが、こうしてふと向けられる表情に、ドキリとすることが増えた。
見惚れるシモンの頬を彼女はくすぐるように撫でながら口を開いた。
「シモンがいくら体力に自信があっても、絶対大丈夫ってことはないでしょう?」
「それは、まぁ……そうだな」
「だから心配するの。ね、言うことをきいて?」
「だが――」
禁欲しろと言われるのは辛い。
長い間の「待て」がやっと消えたと思ったのに、また「待て」が続くのか?
いったいいつまでだ。
濁した言葉のあとに続く心の声を、コマリは察してくれただろうか。
「とりあえず目の下のクマが消えるようにしなきゃ」
「今晩一晩ゆっくり休めばこんなものは消える」
「じゃあそれを最低五日は続けること」
いや、全然察してくれていなかった。
つまりは五日間禁欲しろということか。
承服しかねて無言の抵抗を試みていると、少し強引に膝枕状態に戻された。
瞼の上に手を置かれて明かりを遮られる。
「ご飯をしっかり食べて睡眠をとらなきゃだめ。じゃなきゃ病気になる。……お父さんみたいに」
最後の台詞は、一瞬何のことを言っているのかわからなかった。
だがすぐにコマリの父親が病死したことを思い出し、瞼を押さえる彼女の手を取って目を向ける。
「お父さんね、仕事人間だったの。毎日遅く帰ってきて、休みの日も家で仕事したりして……睡眠不足って免疫力が低下するんだって。だからすぐに風邪をひいたりね、怖い病気にだってなっちゃうんだから」
「わたしがコマリの父君のようになると?」
「――一緒におじいちゃんとおばあちゃんになるんでしょ?」
ああそうだ。
皺を刻むまで共に歩こうと約束した。
コマリの父君のことを言われ、約束まで出されては、逆らうこともできないではないか。
「はい、コマリ」
「いきなり従順ね」
「前にも言ったがわたしはコマリに逆らえはしないのだ」
再び瞳を閉じると、また頭を優しく撫でられた。
「コマリが亡くなった父君のことを話してくれたのは初めてだな」
「ああ、うん……ちょっと、思い出したから」
それほどまでにコマリを心配させていたのだろうか。
伝わる気配がなんだか暗い気がして、シモンはわざと話題を変えた。
「コマリの焼いたクッキーは、今まで食べたどのクッキーよりもおいしかった。また焼いてくれないか?」
笑う気配と「わかった」という返事が聞こえた。
それとも時間を作って二人で焼くのも楽しそうだ。
ときどき城下に連れて行くという約束は、前の一度きりでまだ果たせずにいる。
デートのために一日自由となるのは無理でも、数時間くらいなら時間を持てるかもしれない。
テディに調整させよう。
「そうだコマリ」
「何?」
「禁欲があけたらわたしの願いを聞いて欲しい」
「エッチなお願い?」
「お見通しか」
「じゃあ内容によります」
こんなふうに他愛ないことを話す間も、コマリはずっと頭を撫でていてくれた。
それが心地よくて眠りを誘う。
普段より小さく話すコマリの声を聞くうち、徐々に意識が遠のいていき、やがてシモンは眠りに落ちた。