月のパンケーキ
男の口元に笑みが浮かんだ。
水晶で見ていたのは癇癪を起こして部屋で暴れるオルガの姿。
そして頭を抱えるコントゥラ子爵だ。
まさか毒入りの惚れ薬があの自意識過剰な女の元へいくとは思わなかった。
当日誰の目があるかもしれないなかで惚れ薬に毒を混ぜるのはと用心し、前の日に迎賓塔の貯蔵庫に忍びこんだかいがあったというものだ。
毒とは言っても人が死ぬようなものではない。
ただ今日の舞踏会で騒ぎを起こせればよかった。
ついでに貴族の一人でも陥れることができれば面白いだろうと。
今回はほんの小手調べのつもりだった。
それが思った以上にうまくいくなんて、これはもう自分のすべきことは天も認めているということではないか。
(やはり邪魔者は皆消さなければ)
すべてはあの方の幸せのため。
初めて会ったときに向けられた優しい笑顔は心に焼きついている。
それは今も変わらずあった。
今日どれだけ胸が震えたか。
「きっと幸せにして差し上げます」
呟きは誰に聞かれることもなく消えた。
* * *
「ねぇ、今日のってコマリを狙う奴らの仕業かしら?」
机に魔法書を置いたまま椅子に座り、ぼんやりと明かり玉を見つめていた澄人はジゼルの声に我に返った。
「んぁ?なんやて?」
「だから、今日の騒ぎ」
「あー……うん、どうやろか」
入浴したためまだ少し湿っている前髪を摘んで返事をすると、側に座るジゼルが紫の瞳をわずかに眇めた。
「なによ、さっきからボーっとしちゃって。わたしの話、半分くらい聞いてないでしょ」
「んや、ちゃんと聞いとるよー。小鞠ちゃん狙てんやったら毒は小鞠ちゃんが食べたり飲んだりするもんに入れるんちゃうかなぁ?ああでも魔法石で守られるやろし、それ無意味やな」
「相手はコマリが魔法石で守られてるって知ってるってこと?」
「あの子の左手にある腕輪見たら魔法石やてわかるやん。アクセサリーでつけてる思う人もおるやろうけど……小鞠ちゃんはシモン君の相手やで?未来の王妃さん守る魔法がかかっとんちゃうかって鋭い奴なら思うやろ、たぶん」
「たぶん?」
「この世界はどんなけ魔法が身近にあるんかわからん。魔法があるのは皆知ってるけど、日常生活にあまり魔法が関わってけえへんのやったら、魔法石を見たかて用途にピンとけえへんと思うねん」
「ああ、そうね」
「それとなー。今日のことはどっちかっちゅうと、騒ぎ起こしてシモン君と小鞠ちゃんのお祝い事にケチつけたかっただけのような気がするわ」
引っ張っていた前髪を離して澄人は背もたれにもたれる。
「愉快犯かなぁ」
「あの偉そうな貴族のお嬢様は?シモンにご執心のようだったし、案外あの子が自作自演で騒ぎ立てて――とか」
「そんなん言うたらペッテル君かて嘘ついてるかもしれへんやん」
「え?スミトはペッテルを疑ってるの?」
ジゼルに信じられないと言うような目を向けられてしまった。
「こういうの、私情入れたらあかんで。それにこの世界ってボクらおった世界みたいに科学捜査できへんやろ。防犯カメラついてないし、指紋や血液やらで犯人特定もできへん。現行犯で捕まえる以外は物的証拠と人の証言が物言う世界や。でも証拠品の捏造や嘘の証言されることかてある。疑われたら仕舞いてところあるん違うか」
「冤罪で牢獄行きってこともあるのね」
「それもせやし、誰かに濡れ衣着せることできたら悪人が野放しになるっちゅうこっちゃ」
椅子の後ろ二本足に体重をかけて、ぐらぐらと椅子を揺する澄人はふーと長い溜め息を吐く。
「小鞠ちゃん、大丈夫やろか。空元気やって丸わかりな態度で追い払われてしもたけど」
「あの騒ぎから何時間経ってるのよ。いくらなんでもシモンだってもう戻ってるんじゃない?」
「どうやろ?ゲイリーが事情聴取の様子教えてくれるて言うててんけど、まだけーへんからなー……えらい遅いわ」
ちょうどそこへノックの音が響いた。
そちらへ意識が向いたせいで、バランスを保っていたはずの澄人の椅子がぐらりと傾いて、背中から床に倒れる。
「おわ!」
「ちょっと、大丈夫?」
「イタタ」
椅子を起こしつつ立ち上がった澄人は、腰をさすりながら部屋の扉を開けた。
噂をすれば影というやつか、ゲイリーが立っている。
「邪魔したか」
「何が?」
彼の目が自分の腰へいったため、澄人は慌てて腰を撫でていた手をあげた。
「ちゃうで。いま椅子ごとひっくり返ってな?」
「――顔を貸せ」
顎で部屋の外へ出るよう示され澄人はジゼルを振り返る。
「ちょぉ行ってくるわ」
「え?わたしも話を聞きたいのに」
「後で言うたるから~」
パタンを扉を閉めてゲイリーと共に歩き出した澄人は、彼から香るそれに気づいた。
「おまえ、服着替えてええ匂いしてるけど、まさか風呂入ってたんちゃうやろな?」
「問題が?夜会の服など早く脱ぎたいだろう。それにコマリについているはずのおまえも風呂に入っているようだが?」
生乾きの髪を見つめられて澄人は顔を顰める。
「しゃあないやん。小鞠ちゃんにしばらくついとってんけど、澄人さんたちかて疲れたやろうから早く部屋に戻りて言われたんや。おまえ待っとる間に風呂入ったんは酔い覚ましやし、なによりおまえが来たらあかん思て烏の行水やぞ。そっからずぅっといまかいまかと待っとったのに風呂て――しかもおまえ、髪の毛きっれいに乾いとるやんけ」
「わたしも酔い覚ましだ」
「おまえザルやろが。まったく……あれからどうなったんか、ボクやジゼルが気にしてるやろて思わんか?早く伝えたろて気はないんか」
「だから今日のうちに伝えに来ているだろう」
「魔法協会におったころ報告は迅速にて部下に言うてた奴の台詞とは思えんわ」
「わたしはおまえの部下じゃない」
「そーやね」
なにか大きな情報があるならゲイリーとて風呂になど入っていないだろう。
つまりはたいした情報を得られなかったということだ。
わかってはいてもやれやれと首を振ってしまう。
「入れ」
「おまえの部屋やん」
扉を開けて招き入れられた部屋は、澄人とジゼルが暮らす部屋よりは狭いが雰囲気は似ていた。
二人と独り身という違いはあっても部屋のランクは同じようだ。
勉強机としているらしいテーブルには魔法書と一緒にカッレラの文字の練習本があった。
椅子は二脚あり、うち一つの背もたれに脱いだ夜会の服がかけてある。
それを横目で見つつ、ソファの方に腰を降ろした澄人は更に部屋を見回した。
「相変わらずやな。しっかり片付いてるわ、ゲイリーの部屋は」
「おまえの部屋も散らかっていなかったように思うが」
「ジゼルが出しっぱなしにしたら怒るねん」
向かいに腰を降ろしたゲイリーが同じように室内を見た。
「使ったものを元の場所へ戻すのにそう手間はかからん。それにコマリの侍女が数日置きに掃除をしに来る」
「はぁ、なんで?頼んだん?」
「いいや、掃除をしようかと尋ねられたから頷いただけだ。やってくれると言うのだから断る理由もない」
「もしかしてそれスサンちゃん?」
「コマリにいつもおかしな目を向けている変態女を止める役どころの……」
「だからそれ、スサンちゃんやん。名前覚えてないんかい。本気やないんやったら手ぇ出しなや」
「わたしからは何もしないが向こうから来たらそこはなんとも言えん」
「ほな、薬湯飲んどけ、ドアホ」
「薬湯?」
「不妊の煎じ薬っちゅうやっちゃ。こっちの世界には避妊具があらへんかわりに、薬湯飲み続けたら妊娠防げるんやて。その気なく手ぇつけて妊娠なんて目もあてられん。ボク持ってるし後でわけたるわ。足りんようなったらテディ君に言い」
「ほう、そんなものが」
呟くゲイリーをじろりと睨む。
「妊娠の心配ない思て手当たり次第に手ぇつけなや。おまえのことを専属魔法使いとしとる小鞠ちゃんの評判を落とすことに繋がんねんからな」
返事がないのは同意する気がないからか。
(こいつのことやからうまくやりよんねんで。この顔で誑かして舌先三寸で丸め込むんや)
あちらの世界にいたときはいったい何人と関係をもっていたのだろう。
「言い方変えよか。おまえをお兄ちゃんやと思て慕ってる小鞠ちゃんを失望させるようなことすんなや。あの子に見る目変えられたら嫌やろ」
とたんにゲイリーが眉を寄せた。
「妹とは兄の女癖を気にするものか?」
「するわ、ボケ。あの子の性格考えてみぃ」
「……気をつけておこう」
思った以上に小鞠はゲイリーの中で大きな存在であるようだ。
意外な返答に驚きつつも澄人は顔には出さずにおいた。
肘置きに肘を立てて頬杖をつく。
「で、本題や。事情聴取はどないやってん?」
「貴族の女が怪しいと思われていたが、ヴィゴとクレメッティ……だったか?あいつらがペッテルの持つ器に、誰かが手を伸ばしていたのを見ていた。そいつが誰かはわからないが、毒入り惚れ薬を用意した犯人である可能性が高いということになった」
「ほな、ペッテル君もあのオルガっちゅう子も無罪放免か?」
「いや、どうかな。関係者全員から話を聞いた後、シモンは国王の元へ行ってしまったし、今頃は処分を話し合ってるんじゃないか?他に怪しい人物がいたという証言だけで簡単に無罪放免とはさすがにいかないと思うが」
「さっきジゼルとも言うててんけど、こっちの世界て防犯カメラとかあらへんやん。証言と物的証拠が揃ったら、身に覚えがなくても犯人にされてまうとこあるやろ」
「そうだな」
ゲイリーもまたソファに肘をついて掌に頬を預けると、同意するように頷いた。
「それもふまえた上で聞きたいんやけどおまえから見てどうや?誰が怪しい?ペッテル君か貴族のお嬢様か?」
「惚れ薬は大量に舞踏会で配られていた。それを持っていた者ならば誰しもペッテルの配る惚れ薬の中に、毒入りの瓶を混ぜることができただろう」
「てことはおまえ、犯人はヴィゴ君とクレメッティ君が見た手の奴やて思てるんや。珍しいな、おまえが証拠もなしに人の話だけを信じるなんて」
「別に奴らのことを信じているわけじゃないが。――毒は人が死ぬようなものではないと聞いたか?」
「ああ、オロフ君にな」
「無差別殺人が目的なら人を確実に死に至らしめる毒を惚れ薬に混ぜればいい。コマリやシモン、それに他の王族を狙うのであればこんなまわりくどい手は使わない。犯人の目的は舞踏会で騒ぎを起こしたかっただけじゃないかと思う」
どうやらゲイリーは自分と似た意見を持っているらしいと澄人は感じた。
「ボク、愉快犯ちゃうかて思たんやけど。小鞠ちゃんとシモン君の祝賀会をぶち壊したるっていうな?」
「別の可能性もあるぞ。シモンを気にしている貴族の娘は多かっただろう?将来王妃となるコマリの暗殺とまではいかなくとも、嫉妬から嫌がらせをしたいと思うかもしれない」
「あー……シモン君モテそうやもんなぁ。弟王子君らも男前やったけど、次期国王っちゅう肩書きあるほうが魅力なんかも。権力ほしそうな貴族もおったっぽいし……うわー、疑い出したらなんでも悪いように見えてくるわ」
くしゃくしゃと髪をかき混ぜた澄人は視線を感じてゲイリーを見た。
「なんやねん、じぃっと見て」
「別に」
「なんやそれ。気になるやん、言えや」
しつこく詰め寄ると、ふぅ、とゲイリーが吐息を洩らした。
それは昔よく見た態度だ。
この後続くのは確かいつも……。
「馬鹿は馬鹿のままだったと思っていただけだ」
そうそうこんな嫌味やった、と思い出した澄人はムッとする。
「おまえなぁ、久しぶりにまともに会話した思たらなんやねん」
「まぬけ面の笑顔で周りを誤魔化しているが、本当はこんなふうに感情的だ。そんなおまえが魔法協会の総帥になんてなれるわけがなかったな。――変わっていない」
変わらないと言うゲイリーの表情に変化はないが、言葉から感じる感情は穏やかな気がして、澄人はあれ、と思う。
なんだかゲイリーの雰囲気が以前とは違っていないか?
(棘が消えたっちゅうか……)
冷静になって改めて彼を見ると、地球にいた頃のような張り詰めた緊張感はない。
「いつ振りだ?」
「え?何が?」
「スミトがわたしに気負い込まずに話してくるなんてもう何年もなかっただろう」
「いや、そんなん言うたらゲイリーかて、つんけんせんとボクと話すん何年ぶりやねん」
一呼吸あってゲイリーが言った。
「覚えていないな」
「ボクかて忘れたわ」
互いに黙り込んでいたはずが、澄人はプと吹き出した。
「こっちの世界にきて少しずつボクらが変わったんやろ。魔法協会っちゅう毒が抜けていってんやな。さすがに以前の自分と同じにはなれへんけど、人間は辞めんですんだで、ボクら」
ゲイリーの口元にも笑みが浮かぶ。
「ま、そういうことにしといてやろう」
「えっらそうに。同い年やのに兄貴面すんなや。そういうとこほんま全然変わらん」
「誕生日でどちらが兄か決めようと言い出したのはスミトだったはずだが」
「あーあー、そんなん忘れましたぁ」
こういうことは逐一覚えているのがゲイリーだったと澄人は顔を顰めて横を向いた。
窓のカーテンが半分ほど開いていて、地球の月よりはるかに大きな半月が見える。
「食べかけのでかいパンケーキが浮いとる。綺麗な蜂蜜色やし、こっちの世界の月のほうが地球の月よりおいしそうやな」
「子どもの頃、満月を見てはパンケーキが食べたいと腹の虫を鳴らしてたな、そういえば」
「育ち盛りに魔法協会の飯は足りへんて」
魔法協会を逃げる前の数年はゲイリーと極力顔を合わせないようにしていた。
彼の冷たい目と辛辣な言葉を受けるのが嫌だったから。
仕事でかかわるときは最小限に、しかも事務的な会話をするだけだった。
だからゲイリーはとっくに少年の頃のことなんて忘れていると思っていた。
(なんや、覚えてるんか)
……そうか。
澄人の口元が自然とゆるむ。
(ボクらどっちも相手に壁を感じてたんやろか)
カッレラに来てから澄人はゲイリーとのわだかまりを消す方法ばかり探していた。
でも難しいならばうやむやのままでもいいのだろう。
いまこうして向き合えているのなら。
「スミト、おまえこっちの世界に来てから「式」のことは誰に話した?」
「え、朧と玉響のことか?ちゃんと話してんのはトーケル君ぐらいやな。ジゼルの護衛につけてたんやけど、玉響がトーケル君をぶっとばしたんや。なんやグンネルちゃんと同じ「精霊憑き」やて誤解されてもうてんけど、「式」の説明もややこしいから誤解のまま――」
「ジゼルの護衛か」
ゲイリーが考える素振りを見せる。
「せや。四六時中、ボクがジゼルと一緒におれるわけちゃうからな」
「リクハルドやグンネルは?」
「ジゼルに護衛つけてるって言うてるだけや。トーケル君が玉響のこと話しとるかもしれんけどな。それがどないしてん?」
気になって尋ねると彼は眼差しを向けてきた。
二人の視線が交わる。
「おまえに話しておきたいことがある――」