王妃と側妃
「それはいい。そなたたちが相手ならば皆喜んで杯を空けるだろう。良い出会いがあるよう願っているぞ」
肩を抱いてくるシモンと小鞠が目を見交わし微笑みあったところで、感情を殺せていないオルガの声がした。
「ではわたくしの惚れ薬はシモン様に飲んでいただきたいですわ。皆、喜んで飲むとおっしゃいましたもの。もちろんシモン様も……ですわよね?」
シモンの言葉を逆手にとって迫る彼女は誘うような笑みを彼に向けた。
オルガはどうあってもシモンと話をしたいらしい。
そして小鞠には見向きもしない。
(うっわ感じ悪い)
なんだか誰かを思い出すと思ったらすぐに閃いた。
(ああ、皐月さんか)
もっとも貴族のお嬢様として育ったオルガのほうが更に直情的だ。
シモンの返事が気になって傍らを見上げると「ふむ」と声が聞こえた。
「ならばそなたはわたしが浮気するような男と思っているということか」
「え?」
「既にパートナーがいる相手に惚れ薬を飲めというのはそういうことだろう?それとも乗り換えろと申すのか?そなたはわたしのコマリへの想いをその程度と軽んずるか」
青い眼差しが鋭くなったためにオルガは真っ青になった。
同時に小鞠はシモンが怒っていると気づく。
ええ!?怒りのスイッチいつ入った!?
というかどうして怒っているのだろう。
「めっそうもございません。そのようなつもりで申し上げたわけでは――」
「ではどのようなつもりだ」
「わ、わたくしはただシモン様とお近づきになりたくて……」
「だからそれはどのようなつもりでだと聞いている」
低い声音は厳しく、聞いている小鞠ですら怖かった。
言葉を失くし、カタカタと震え始めるオルガを助けるように、父であるコントゥラ子爵が割って入った。
「申し訳ございません、シモン様。娘はシモン様をお慕いするあまり、つい心にもないことを申し上げたのでしょう。その気持ちを少しでも汲んでくださるならどうかご容赦くださいますよう――」
シモンがコントゥラ子爵の言葉を手で制する。
「丁度良い機会であるし聞いておこう。カッレラの王族の婚姻相手は愛魂の相手であることが何よりも優先される。それはそなたたちも知っていよう。で、ありながら、どのようなつもりで今日ここへ娘らを連れてきたのか」
一旦言葉を切ったシモンが貴族の親たちを順に見据える。
彼の最後の台詞に小鞠は理解した。
(そっか、シモンもこの人たちの真意に気づいてたんだ)
そして怒っているということは、妾を持つつもりはないということだ。
よかったと彼女は胸中で呟く。
「わたしは父上から、そなたたちがどうしてもコマリに会いたいと申していると伺っていたのだ。だから舞踏会を開くことも承知した。しかしこれでは目的が別にあるように思えてならない。わたしは妻はコマリだけしかいらぬ。なにより我が国で側妃を持つという慣例はとうに廃れたであろう。それともそなたたちは再びカッレラに争いの種を植え付けるつもりか?」
「側妃」という言葉にコマリは覚えがあった。
テディに教わったカッレラ王国の歴史に出てきたのだ。
大昔のカッレラ王国国王は王家の血筋を絶やさないために、正妻だけでなく数人の女性とも結婚したらしい。
つまりは一夫多妻であったのだ。
そして正妻を王妃、正妻以外の妻を側妃と言ったのだそうだ。
王妃は愛魂の相手が最優先であるというのは決まっていたが、側妃は王国の貴族の娘であることが多く、これに選ばれた家は王国への発言力が増すことから、いつの頃からか皆がこぞって娘を王に嫁がせようとするようになった。
勢力争いが激化すると暗殺が横行し、ついには正妻たる愛魂相手の王妃まで狙われることになる。
世継ぎを残す前に消し去れば、側妃となった自分の娘の王子が次期国王となるかもしれない――そんなつまらない理由で犠牲になった王妃がどれほどいたのか。
いまは世界で一、二を争うほど平和な国となったカッレラ王国にも、暗黒時代があったとテディに聞いたとき、小鞠はなんだか恐ろしく感じた。
いまは平和な時代であるとはいえ全くの安全ではないのではと思ったのだ。
あの時はそんな自分の考えをすぐに打ち消したが、こうして権力を欲する貴族たちを目の前にすると、また不安が頭をもたげてくる。
そこへ額に脂汗を滲ませたミッコラ伯爵が、シモンの機嫌を窺うように控えめに口を開いた。
「恐れながらシモン様、わたしは娘のマチルダがコマリ様の話し相手になればと紹介したのでございます。異世界よりいらしたばかりで、ご友人も多くはいらっしゃらないのではと。娘のパートナーには兄をと思っておりましたが数日前より体調を崩して臥せっております。ですからわたしに他意はござ――」
「ほう、体調を……異国の水は合わなかったのかもしれないな」
シモンに言葉を遮られたミッコラ伯爵が、開いた口をそのままに固まった。
「ああいや、一年ほど遊学に出るとの話を耳に挟んでな。先日発ったばかりでもうカッレラに戻っていたか。大事にするよう伝えてくれ」
「は、はははい」
もしかしてシモンは貴族たちのことを調べさせているのかもしれない。
小鞠がそう気づいたようにミッコラ伯爵も感じたようだ。
顔色を失ったミッコラ伯爵と、押し黙ったままのコントゥラ子爵を順に見たシモンは、最後にカーパ侯爵へ眼差しを向けた。
「そなたは何もないのか?」
「では、お二人にはいつまでも仲睦まじくあらせられますように、とだけ」
「そうか」
カーパ侯爵の言葉にシモンはやっと表情を和らげた。
ぴりぴりとした緊張が消えて小鞠も小さく息を吐いていた。
突然、肩に回されていたシモンの手に力がこもる。
ぐ、と引き寄せられたと思ったら頬に彼の唇が触れた。
「なっ……――」
頬を押さえて仰け反る彼女は、いつもの優しい笑顔が自分を見ていることに気づく。
それだけで胸が跳ね、掌に感じる頬が熱くなっていった。
「ひ、人……人前でまた……」
だがシモンにときめいて言葉が続かない。
そんな小鞠にクスと笑う彼は貴族たちへ向き直った。
「このようにコマリはとても恥ずかしがり屋でな。今は王宮やそこにいる人間に慣れようと必死なのだ。まだそのような状態であるのに、そなたたちの娘を話し相手にするなど無理だ。せっかくの申し出だがすまんな」
先ほどの鋭さは微塵にも感じさせないにこやかなシモンに、貴族らは他の様子を探りながらも、従うように視線を伏せた。
そのまま順に去っていく最後の背中を見送る小鞠は、シモンが小声でテディを呼ぶのを聞いた。
「少し逃げる」
「かしこまりました」
心得たように頷くテディが小鞠たちの前に立ち、次に押しかけた貴族たちを止める。
「コマリ、踊ろう」
「へ?」
手を握られたときにはもうシモンは歩き出していた。
「おまえたちも踊ってはどうだ?」
と、側にいた澄人たちに通り過ぎざま声をかけて円舞場に戻ったシモンは、戸惑う小鞠の前で胸に手をあて軽く頭を下げる。
「し、シモン?頭を下げるって忠誠を誓うときだけなんでしょ?」
「これは気に入った相手にダンスを申し込む正式な挨拶だ。そういえば教えていなかったか」
あれ、とばかりに顔をあげた。
「頭を下げるというよりは視線を伏せるという方が正しい。女性の了解が出るまでじろじろと顔を見てはいけない――のだったか?確かそのようなことを聞いたように思うが、ダンスを習ったのは幼き頃なので間違えているかもな」
「さっきは踊る前にこんなことしなかったのに」
「ダンスの相手を申し込むときにとる礼だと言っただろう?コマリは既にわたしのパートナーであるし本来はしないのだ。ではもう一度やり直そう。ダンスを受けるのであれば手を差し伸べてくれればいい」
本来はしないのに、こんな目立つ場所であえてするというのは……えーと、これはつまりあれですか?
俺の女に手を出すな、的な?
(うわぁどうしよう、嬉しくなってきちゃった)
優雅に礼をとるシモンに手を出すと指先にキスされた。
そのまま腰を引き寄せられる。
「またキスした」
「普通はしたふりなのだが、コマリが相手であるとどうにも触れたくなるな」
王宮楽師の音楽に合わせて踊りながら円舞場を移動する。
「始まりのダンスのときとは違って随分と慣れたものだ」
「最初のダンスは緊張してたの」
「だろうな。笑顔が引きつっていたぞ」
「嘘っ、それって不気味な顔だったってこと?」
「いいや、笑えた」
「笑えた?」
「それに可愛かったぞ?」
「付け足して言われても嬉しくない」
会話しながら踊れるくらいにはなったと油断したら、むぎゅとシモンの足を踏みつけてしまった。
「っ、……仕返しとはひどいな」
「ごめん、今のはいつもの失敗」
「本当に?」
「踏む気なら食事会のときみたく、もっと思い切りやってるわ」
はははとシモンが笑ったせいで周りで踊る貴族たちが目を丸くしている。
「ダンス中に大声で笑うなんて紳士にあるまじきことなんじゃないの?」
「コマリと話すのが楽しいのだから仕方がない」
近づくシモンが耳に囁く。
「ところでコマリ、先ほどはすまなかったな。嫌な思いをさせてしまった」
「言われっぱなしは悔しいから反撃しちゃった」
シモンに気が強いと思われただろうか。
でも彼のことは誰にも譲れないと思ったのだ。
「ああ、さすがはコマリだと思ったぞ。おかげでわたしも狸たちに釘を刺せた」
笑顔の彼にホッとする。
「怒ったシモンは怖かった」
「コマリを侮辱したのだから当然だ。世界中を探してもコマリほどの女性はいないのにと、あまりに腹立たしくてな」
貴族たちが暗に側妃を薦めていることに怒ったのではないらしい。
(確かに食事会じゃわたしのために怒るって言ってくれてたけど)
この人はいったいどこまで自分を大切にしてくれるのだろう。
(う、嬉しすぎる。っていうかシモンが好きって気持ちがぐあーっと)
やばい、ここで「好きだー」と叫ぼうものならただの頭のおかしい人になってしまう。
ニヤケそうになるのを必死で我慢していると、シモンが困った様子で顔を覗き込んできた。
「そのように顔を強張らせるほど怖かったのか?怯えさせるつもりはなかったのだが――どうもわたしはコマリのこととなると押さえが利かなくなるのだ」
ああぁぁ、またしても喜ばせ発言を!
(天然か、シモン)
そして久しぶりにしゅんと垂れた犬耳が見える気がする。
「か、可愛……」
言いかけた言葉を小鞠は何とか堪えた。
可愛くて格好良くてちょっと天然な王子様。
くすくすと彼女は笑い出す。
その微笑みにつられたように萎れていたシモンも笑った。
そこへいきなり関西弁が聞こえてきた。
「いや~シモン君、助かったわ」
いつの間に近づいてきたのか、すぐ側に正装姿の澄人とジゼルがいた。
澄人本人は苦手のようだが、パリっとした衣装に身を包む彼はなかなかの紳士に見え、ワインレッド色のドレスを着たジゼルとお似合いだった。
「逃げられたか?」
「ああ、おおきにな。シモン君が踊りて言うてくれへんかったらまだ質問攻めにおうてるとこや。ボクとゲイリーな。なんでか地球で魔法使いの王様やったて思われてるみたいやわ。王様がなんで小鞠ちゃんのお抱え魔法使いになるんて聞かれても困るっちゅうねん。王様ちゃうし」
「わたしは王妃で超一流のデザイナーになってるみたいよ。異世界では王族も副職をもつのか?だって。なぜ王妃が国を捨ててカッレラにきたのか、異世界はどんなところか、食べ物は、文化は……質問、質問、質問よ。あげくに今度、夜会用の衣装を作ってくれないかって。はぁ~疲れた」
どうやら小鞠とシモンの友人として王宮にいる彼らも、おかしな噂が広がっているらしい。
「ゲイリーさんは?一人、置いてきたの?」
ゲイリーはパートナーを伴っていないためダンスに逃げることはできない。
気になって小鞠が尋ねると澄人が苦笑を浮かべた。
「シモン君が声かけたあと逸早ぉ逃げたであいつ。酒飲みに行ったんちゃうか?」
「わたしもふるまい酒を飲んでみたいわ。スミト、この曲が終わったら飲みに行きましょ」
「せやな――じゃシモン君、小鞠ちゃん、またあとで」
離れていく二人を見送って小鞠はシモンを見上げた。
「シモン、わたしもふるまい酒飲みたい」
「言うと思った。では一杯だけ」
「えー」
「あまり酒に強くないのに好きだな、コマリは。だがここは一杯で我慢してくれ。酔ったコマリは子猫のように可愛らしくて、他の男に見せたくはないのだ。もっとと言うのならば舞踏会のあと、わたしたちの部屋で落ち着いて飲めばいい」
「わかった」
しぶしぶと承知しながら悪戯薬のことを思い出した小鞠は、内心フフフと悪い笑みをこぼす。
(とってつけたようにふるまい酒を用意してって変だし丁度良かったかも)
ついでに酒をしこたま飲んで潰れてしまえば、シモンとの約束を先延ばしにできる。
「コマリ、酒を飲んで寝てしまおうと思ってはいないな?」
「えっ?」
「その場合はわたしに悪戯されても文句はないということで良いのだな。色いろとさせてもらうぞ?――そう、遠慮なく色いろとな?」
ニ、と笑うシモンの笑顔が黒い。
「お、起きてますぅ~」
なんで考えていることがバレたんだろう。
(だけどこれって起きていても寝ていても、結局今日シモンと……)
顔を真っ赤にし、いきなりぎくしゃくとしたダンスになる小鞠に、シモンはまた耳元に唇を寄せた。
「いまからこれでは今晩がもたないぞ?」
艶を含む低い声にゾクリとする。
絶対わざとだとわかっているのに腰砕けになりそうだ。
(ああだめ、完敗)
小鞠はシモンの肩に顔をうずめる。
可愛くて格好良くてちょっと天然の王子様だけれど――。
「シモンって質が悪いわ」
* * *
一人酒を飲んでいたゲイリーは聞き覚えのある声が聞こえたため振り返った。
「なぁ、おまえの持ってる惚れ薬くれないか?俺は全部配り終えちゃってさ」
あの刈り上げブロンドの男は確か……。
(ペッテルだったな)
彼が話しかけている眼鏡の青年も覚えがある。
ヴィゴと名前を思い出していたゲイリーは柱にもたれつつ、彼らの会話をなんとなく聞いてみたのだが。
「マーヤとクレメッティも探してんだけどこの人だろ?見つかんなくて。おまえ何本残ってる?」
「十本もないが……どうせおまえのことだから貴族のお嬢様に配りまくったんだろう」
「おう、ノリの良さそうなお嬢様にはしっかり名前を売り込んできたぞ」
うしし、と笑うペッテルにヴィゴが呆れ顔を向けつつ、自分の持っている惚れ薬を渡したのが人の切れ間に見える。
「全部やる。おまえのその女性にかける熱意は俺には理解できん」
「おー、持つべきものはやっぱ友達だな~。これでオルガ様やアンティア様のところに行ける。さっきやっと、シモン様たちから離れたんだ。じゃ、行ってくる!」
立てた指を振ってペッテルが離れていくのを目で追ったゲイリーは、慌てすぎた彼が人にぶつかるのを眺めながらグラスを傾けた。
(欲望に忠実な男だな)
貴婦人に睨まれて謝罪するペッテルから視線を逸らす寸前、彼の持つ銀の器に人の手が伸びたような気がして、ゲイリーは逸らしかけた目を凝らした。
ペッテルの気が逸れている隙をついて、誰かが器になにか入れたように見えたが……。
(気のせいか)
ペッテルが人に紛れてすぐにわからなくなったため眼差しを戻すと、中指で眼鏡を押し上げたヴィゴもペッテルのいた辺りを凝視していた。
彼の様子にゲイリーは再び同じ場所へ目を向けたが、もはや貴族たちが入り乱れているだけだ。
ヴィゴが去っていくのを目の端に捉え、今のはやはり見間違いだろうと彼は残った酒を呷る。
(勘が鈍るくらいに飲みすぎたか)
カッレラ王国の酒は強いくせに飲みやすい。
ほどほどにするべきか。
「こちらはいかがですか?」
声に顔をあげれば、先ほどゲイリーに酒をくれた給仕の男が、にこやかにグラスを差し出していた。
うすく緑がかった液体から青葉のような香りがする。
「少し癖がありますがそこがいいと個人的には思います」
いま飲んでいた酒は彼の勧めたものでゲイリーの好みだった。
彼とは嗜好が似ているのかもしれない。
なのでこれも好みではないかと思うと手を伸ばさずにはいられなかった。
「いただこう」
やはりうまい酒の誘惑には抗えない。
柱に隠れるようにして人目を避けるゲイリーは、舞踏会に出される全種類の酒を制覇するかのごとくグラスを空けていた。
見世物のように貴族に囲まれた先ほどの場に戻るつもりはこれっぽっちもなかった。