悪魔の始末
うわ、すごいなぁジゼルさんって。
(何もかも捨てて好きな人についていくなんて言えるんだ)
自分にはそこまでの決意や潔さはないと思いながら、つい小鞠はシモンを盗み見てしまう。
視線に気づいたのかシモンの青い瞳がこちらに向けられた。
目が合って我に返った小鞠は見ていたことに気づかれたとうろたえ、更に彼がいつものように優しく微笑んできたため、心拍数があがって動揺した。
(わたしも昨日から変かも~。なんでこんなにどきどきするのよ~~~)
自分も笑顔を返すべきだろうか。
焦ってそんなことが頭に浮かぶ。
「ああ、そうか……そうだったな」
静かな声に小鞠はハッとそちらを向いた。
見れば澄人がなぜか不思議な表情をしていた。
笑っているはずなのにそれだけじゃないような……。
(澄人さん?)
澄人の言葉にジゼルは安心したような笑顔になって、空いた皿を手に立ち上がった。
「よし、そうと決まったらいろいろ準備もしなきゃ。あ、コマリ。ここに厄介になっている間はわたしがこの家の家事を引き受けるわ。一宿一飯の恩義って言葉が日本にはあるんでしょう?」
「え?そんなの気にしないでください」
「いいのよ。コマリはシモンたちと大学に行ってきて」
ほらほらと追い立てられるようにして結局大学に向かうことになった小鞠は、隣を歩くシモンに気になったことを尋ねた。
「ねぇシモン。澄人さんってジゼルさんの恋人よね?」
すると彼は小鞠を挟むように並んで歩くテディへ目を向けた。
「はっきりそうだとは言えない関係のようだ。だな?テディ」
「はい。コマリ様も感づいておいででは?」
テディに言われて小鞠は「うん」と考えもって口を開く。
「澄人さん、異世界に行きたいって言ってることジゼルさんには秘密にしてって、昨日の夜わたしにそう頼んできたの。そのときは自分で打ち明けて一緒に行こうって言うつもりなのかと思ってた。でも朝ごはんのときの澄人さんの様子がなんだかおかしくて――それにジゼルさんも澄人さんの言葉を聞いてやっと安心した感じだったし」
「スミトはジゼルに内緒でカッレラ王国へ行きたいようだな。わたしもジゼルには内密にと頼まれたのだ」
「スミトは彼女にこちらの世界で普通の幸せを手に入れてもらいたいようです。魔法協会にジゼルのことが知られたいま、早急に彼女から離れるべきだと思っているみたいですね。昨夜、お二人がお帰りになる前にスミト本人から聞きました」
テディの話に小鞠は今朝澄人が見せた不思議な笑顔の意味がわかった気がした。
ジゼルの幸せを願って離れなければと思っている彼は、きっととても彼女を好きなのだろう。
あれは深い愛情に満ちた微笑みだった。
それと同時に彼女と別れなければいけない哀しみも見えた気がする。
「お互い好きなのに……ていうか、ジゼルさんの気持ちを無視して澄人さん、勝手に決めちゃってるし。どうして話し合わないんだろう?とても大切な二人の将来のことなのに」
「スミトはジゼルに自分の気持ちを知られないように隠しているのです。そのようなこともあってあの二人は恋人同士というには微妙な関係なのでしょう」
「でも!――」
「己のせいで好きな相手を危険にさらすのは嫌だという、スミトの気持ちもわからなくはない」
小鞠の言葉を遮ってシモンが言う。
「――だがわたしならコマリがわたしを選んでくれたそのときは、自ら手放すような愚かなことはしないだろう」
向けられる眼差しにすぐには言葉が出なかった。
どうしたんだろう?
いまの言葉はなぜかとても実感がこもっていたように思う。
「シモン?」
彼女の戸惑いを受けてシモンは表情を崩し、いつもの優しい笑顔になった。
「そのくらいわたしはコマリに夢中だということだ」
彼の手が小鞠の掌を握り締める。
「シモン、ちょっと――」
「外では手を繋ぐ約束だ」
「約束っていうか、それはシモンが勝手に!」
「でもコマリも結局は頷いてくれただろう?」
うっ、と言葉に詰まった小鞠は赤くなってそっぽを向いた。
(だってだってだって、ワンコがクゥーンって鼻を鳴らしてるみたいな雰囲気で頼まれたら~~~)
たまにシモンに耳と尻尾があるような気がしていた彼女だが、昨日も彼にそれが見えたのだ。
耳が垂れポスポスと尻尾が揺れ動き、こちらを窺う哀愁たっぷりのつぶらな瞳。
(ワンコシモンってなんかすんっごい可愛いんだもんー!)
手を振り払うこともできたはずなのに、小鞠は無言のままシモンの手を握って歩く。
(や、約束は約束だし、今日は寒いからシモンの手を手袋代わりにできるしっ)
自分の掌を包み込むシモンの大きな手を見て、やたらと胸が暴れ始めた彼女は慌てて目をそらした。
シモンはまたしても上機嫌で、そんな主と小鞠の様子を見ていたテディは、さりげなく二人の背後に移動した。
* * *
質素な木のベッドに男は横たわっていた。
ああ、まだ体がだるい。
重い腕を動かすことも億劫で、薄暗い部屋のなか男は深く息を吐いた。
このだるさは体にまだ熱がある証拠だろう。
(こんな体、捨ててしまいたい……)
無理をして異世界に向け魔法を使ったのに、あの悪魔の女を仕留める事ができなかった。
まさかシモン様が助けに来るなど予想外だった。
おかげでうまくいきかけた悪魔殺しも失敗し、残ったのは脆弱な体への抗いきれないダメージ。
健康体でも異世界への魔法の行使は体力を奪われ疲労困憊となる。
ならばもともと体のそう強くない自分が、数日も寝込むことになるのは必至であったといえようか。
そろそろシモン様が異世界よりお戻りになるはずだ。
あの女悪魔も共についてくるだろうが、幸いなことにカッレラにおける女の評判はさほどよくない。
己の我儘でシモン様を長期にわたり異世界に引き止めていることが理由らしい。
噂ではシモン王子の后にふさわしくないという者もいるくらいだ。
おそらくは己の娘をシモン様の后に据え、カッレラ王国で更なる繁栄をと思っている輩だろうが。
本当に、いつの世も人の欲にはキリがない。
(この状況――おそらくこちらに来てからのほうが始末しやすい、か)
后候補として異を唱えた者が真っ先に疑われるはずだ。
それにこちらの世界でなら、ひ弱なこの体でももう少しましな魔法が使えるというものだ。
暗い笑みを口の端に刻んだ男はベッドに半身を起こした。
戸棚に魔法書と魔法石が並ぶ。
その中に拳ほどの大きさをしたひときわ輝きを放つ魔法石がある。
(あの魔法石がせめてあと2、3個あれば……)
体への負担は軽減される上、強力な魔法ももっと使えるのに。
テーブルに置かれた水晶に視線を移し溜め息を吐いたところで、芯を絞ったランプの明かりが揺らめく室内に掠れた声が響く。
「毎度毎度、異世界に魔法を放つだけでぶっ倒れる。でかい魔法を使った今回に至っちゃ、数日使い物にならねぇ――ホントおまえって弱っちいよな」
高圧的な口調は誰かと尋ねなくてもわかった。
「これがわたしだ。今更変えようがない」
「はっ、おまえみたいな真面目な奴ほど、実は腹ん中がドロドロに黒いってのはお決まりなこった。おかげで俺も楽しませてもらってるし退屈な毎日に張りが出たけどな」
王や王太子の愛魂の相手を暗殺することは大昔ほど頻繁でなくなった。
とはいえ現在でも隙あらばと狙っている人間はいるはずだ。
ただ、暗殺を実行に移す者が減ったのだ。
それは王宮騎士団や王宮魔法使いの充実や、城で働く者たちの質の向上にともない、警備体制が昔と比べ飛躍的にあがって手を出しにくくなったためだろう。
「悪魔を早く始末しようぜ」
「そう簡単じゃない」
「異世界にいる時は守りが手薄だが魔法を使うおまえの体力がもうもたない。こっちに来りゃおまえはまだ楽に魔法が使えるが守りが強固になる。ってことか」
「ああ。ただ同じ世界にいたほうが隙を窺いやすいだろうし、うまくやれば罪を他の奴に着せることも可能かもしれない」
「やっぱりおまえは陰険だよ。バレねぇようにすりゃいいだけの話だろ?そもそも魔法なんてもんは誰が使ったかなんてわかんねぇんだし」
「もちろん疑われないようにするつもりだが念には念を入れたほうがいい」
悪魔を消した後のことまで見届けたいのだ。
これ以上体を弱らせることも、罪人として牢に入ることもできない。
(あの方が幸せになられるように――)
そのためにはこの手が血に染まろうともかまわない。
「まずはシモン様の目を醒まして差し上げることがわたしの役目だ」
「けどそうなりゃ、年頃の娘を持つ貴族がこぞって娘を売り込みにくるぜ」
「だろうな。だがシモン様は聡明なお方。いまは悪魔に惑わされておいでだが目を醒まされたなら、必ずやご自分にふさわしい相手を見極められるはず」
「后の座におさまりたい女のゴリ押しだってハンパねぇぜ……男ならつまみ食いぐらいしたくなる。ともかく俺は退屈が凌げりゃそれでいいが。おまえもとっとと戦線復帰してくれや。――じゃあな」
現れた時と同じように彼は突然いなくなってしまった。
だが男はさして気にも留めず、それよりも別のことが気になるのか、考えるように拳を口元にあてた。
(シモン様も男だと言いたいのか)
確かに健全な男であれば生理的欲求には抗いがたいだろう。
女が積極的に迫ってくればなおのこと……。
室内に長い時間、静寂が流れた。