ワンコのキス
「あ、あれ?ごめ……さっきのシモンが怖かったからかな?なんて――あはは~、何泣いてるん、だ……ろ」
俯いて顔を隠しても涙がはらはらと膝に落ちていく。
いきなりグイと強い腕に引き寄せられ小鞠はシモンに抱きしめられていた。
「怖がらせてすまなかった。存分にわたしの胸で泣いていいぞ、コマリ」
「え、いいよ……ていうか離して、シモン」
けれど彼は腕を緩めてくれなくて、それどころか余計にきつく抱きしめられてしまった。
「すまないな、コマリ」
謝罪の言葉を口にされたが小鞠には意味がわからない。
「どうして謝るの?」
「わたしだけでソウと話すつもりがコマリを巻き込んで傷つけた。なんて不甲斐ない」
「でもわたし、これでちゃんと先輩のことを吹っ切れる。それはシモンのおかげだわ」
涙を拭い小鞠はシモンを見つめた。
「怒ってくれてありがとう。スッとした」
「コマリもわたしのことで怒ってくれたな。机を蹴ったのには驚いたが――あまりの勇ましさに惚れ惚れしたし、わたしを擁護してくれる言葉は胸が震えるほど嬉しかった。ああ、今思い出すだけでもまた……」
そう言いながらシモンは小鞠の髪に口づけて彼女の耳元に囁いた。
「わたしこそ礼を言う。ありがとう、コマリ」
直接鼓膜に届く艶やかな声にコマリは腰が砕けそうになった。
うっひゃああ!
なに、このイイ声。
(ひー、なんかグズグズになるぅ~~~)
逃げるようにシモンの腕の中で身じろぎすると、離れたがっているのを察したように彼は少し身を離した。
そのまま正面で向き合ったためコマリは視線を泳がせる。
シモン相手なのになにうろたえてるの、わたし!
(ああぁ、でもなんか距離が近い気が……っていうか、近い、近――)
シモンの唇が小鞠の目尻に触れた瞬間、ペロ、と生暖かな感触がしてすぐに離れた。
「………シ、モン?いま、何……?」
「やはり涙はしょっぱいな」
唇を舐めるシモンは小鞠と目が合うとにっこりと微笑む。
「舐め……舐めた……」
「ん?ああ、反対側もしたほうがよかったか?」
今度は右目の眦を舌先が拭った。
ほんの数センチ離れた先に笑みを滲ませた深い青の瞳がある。
「このくらいで真っ赤になるのか。本当に可愛いなコマリは。ああでもやはりこれでは下手なことはできないな。コマリを泣かせたくはないのだ」
「泣く?泣くって何するつもり?」
「男の風上にもおけぬようなことはしないと約束した。だから軽くだ。せめてそのくらいにはコマリに触れたい――」
シモンの唇が小鞠の左目に口づけた。
それは瞼に触れるか触れないかというほどのソフトなキスで――。
「さっきと同じでもう一方の目にもしなくてはな?」
くすくすと笑いながら彼は小鞠の頬を両手で挟み、右瞼にそっと唇を押し当てる。
小鞠はジュワジュワと自分の頬が熱くなっていくのを感じた。
それが掌越しにシモンにも伝わっているのだろう。
「わたしが思う以上にコマリは純粋なようだ……残念だがここまでにしておこう」
そこでやっとシモンは小鞠を解放した。
(ちょ、ちょっと待って……)
この人、いま何しましたか!?
(ペロってしたよね、ペロって!)
そう、まるで犬のように顔を舐めた。
(しししかもっ!)
男前な顔が近づいて……き、き、キっ――。
(~~~~~~~~~~っ!!)
すくっと立ち上がった小鞠は、「コマリ?」とシモンに声をかけられて肩を震わせた。
けれど彼を見ることができない。
「帰る」
「え?」
「一人で帰るっ!!」
教室を飛び出すと廊下で控えていたオロフが驚いたような顔をしたのが見えた。
「コマリ様?どうかなさい――あっ!」
「一人で帰るのおぉ!」
脱兎のごとく廊下を駆けていく小鞠の背後でシモンの声が聞こえた。
「オロフ、追え!――コマリっ、一人は危険だ。待て」
「コマリ様、お待ちくださいっ」
「ついてこないでよ~~~、馬鹿ぁ!!」
次の講義の始まりを告げるチャイムが鳴りはじめる中、小鞠は階段を駆け下りて校舎を飛び出した。
後ろを振り返るとシモンとオロフが追いかけてきている。
大の男二人に追われるのは心理的に恐ろしい。
逃げたのは自分だが捕まったら何をされるかと思ってしまう。
ここは絶対逃げ切ってやる!と小鞠が前を向いたところで、勢いよく誰かにぶつかった。
「った!……」
「ハイ、捕まえたぁ。前見て走らんと危ないで~。っていうか小鞠ちゃんらなに構内で追いかけっこしてん?」
「澄人さんっ!?」
「はい~?」
「スミト!そのままコマリを離すな」
「へ?んじゃこれでええ?」
ぎゅう、と力任せに澄人に抱きしめられて、小鞠は彼の胸に顔を押し付ける形になった。
(痛……息が詰まる~。澄人さん、ギブギブっ!)
もがきながらバシバシ澄人の背中を叩いていると、
「スミト、コマリが潰れる」
気づいたシモンが助けてくれた。
そしてオロフと二人で小鞠を挟むようにして、半歩前に澄人の間に立つ。
ああ苦しかった。
「どさくさに紛れてコマリに何をする、スミト!コマリを抱いていいのはわたしだけだ」
いえ、それは違いますからっ!
シモンこそどさくさに紛れてなに爆弾発言かましてんだ!!
「離すな言うからやん。逃がしたらあかんのやと思てああしたんやで?やからな、小鞠ちゃん。いまのはセクハラちゃうで~。誤解せんといてな?」
「ほう……で、本音は?」
「可愛い子に抱きつけてラッキー――って」
へら、と笑ってそう言った澄人は、シモンの険しくなる眼差しとオロフの冷たい視線に我に返ったのか、「あ、しもた」と小さく漏らした。
「澄人さん、近づかないでください」
「え!?小鞠ちゃん、なに、そのドン引きしてる感じ。ボクのはオープンスケベやし、これって健全な男なら誰しも持ってる下心やん」
「なるほど。下心と自ら認めたか、スミト」
シモンが地獄の底から響くような恐ろしくドスの聞いた声で澄人に詰め寄る。
「い、嫌やなシモン君?目が怖いで?ほら、よく言うやん。よりよい人間関係を築くにはスキンシップが大事やて。な?いまのはただのスキンシップ……親密度を増すための手段やん」
「スミトのいうスキンシップとやらは女性限定ではないのか?」
「な、何言うてん――シモン君、ボクのことどんな目で見てんや?」
あさっての方向を向きつつ澄人が顔を引きつらせたため、小鞠は「女性限定」であると確信した。
それはシモンも同じだろう。
「女好き」
ボソ、と小鞠が呟く。
「ぐはっ!小鞠ちゃん、それグサっときたわ~」
「女性の敵め。おまえのような男をカッレラ王国へ連れて行くことはやはりできないな。――ということでスミト、毎日わたしに頼みに来ても無駄だぞ?最初に断ったとおりおまえをカッレラに受け入れることはしない。そもそもこちらの世界で追われているから、異世界に逃げるなど……安易にカッレラを逃亡先にしないでもらおう」
「ええぇ!?今日はまだ頼んでもないのに、出鼻を挫くように先に断らんといてぇな!何のために出向いてきてんよ、ボク。ちゅうか女好きで入国拒否ってないやろ、普通」
「国の女性がスミトの毒牙にかかるかもしれないというのに、笑って受け入れる馬鹿がどこにいる。これでもわたしは次期国王なのだ。国民を守る義務がある」
「ボクの女好きと国王の義務を同列に扱わんといて。ボクのんはもっと軽いノリやし。ほら、女の子って可愛いなぁっちゅうな?シモン君もあるやろ?」
「わたしはコマリがいい」
きっぱりと言い切るシモンの台詞に、小鞠のほうがいたたまれなくなって頬を赤くした。
(シモンってば前から思ってたけど、どうしてこういうことを恥ずかしげもなく言えるわけ?)
さっきの教室での出来事を思い出してシモンを見れなくなる。
そんな彼女に気づいた澄人は「かなわんなぁ」と苦笑いを浮かべた。
「好きな子目の前にしてはっきり気持ちを言えるなんて男らしいなぁ、シモン君。――ボクには真似できんわ」
たはは、と情けない顔になる澄人に小鞠は気がついた。
(澄人さんって実は照れ屋……?)
それにいまの台詞からして本命がいるのかも。
その彼女にはふざけて抱きついたり気持ちを伝えたりできないのかもしれない。
そう思うとなんだか澄人が可愛く見えて小鞠はクスと笑ってしまった。
「あ、小鞠ちゃんなんで笑う――……」
ふいに言葉を途切れさせた澄人から、いつも浮んでいる笑顔が消えた。
ぴり、とした緊張が彼から伝わってくる。
「澄人さん?」
「ああ、うん。――ちょっとボク用事思い出したわ。今日はもう行くわな」
ほなな~、と軽く手を上げて慌しく澄人が走り去っていくのを、小鞠をはじめ残された3人は呆気に取られて見送る。
「どうかしたのかな、澄人さん」
「オロフ」
「は」
軽く目を伏せたオロフが心得たように澄人を追った。
「え?なに?シモン、どういうこと?」
「気になっていたのだ。なぜスミトはああまでこの世界から逃れたいのかと。とある団体に追われていると言っていたが追われる理由を話さない。スミトが話さないのならこちらで調べるしかないだろう。カッレラの民を危険にさらすような問題を抱えているなら、やはりスミトを国に連れて行くわけには行かぬからな」
「それって問題がなければ澄人さんをカッレラ王国に連れて行くってこと?」
人差し指を唇の前に当ててシモンは悪戯を仕掛ける子どものように笑う。
「スミトには内密にな?」
「でも澄人さんの抱えている問題がわからなかったらどうするの?」
「そのときは置いてゆく。あと8日でわかればいいが――先ほどのらしくない慌てようは何かあったのだろうし、これで少しは情報が得られるかもな」
あと8日。
それは自分とシモンが約束した一ヶ月同居の残り日数でもある。
(来週には約束の日が来ちゃう……シモンがいなくなる日が――)
小鞠はシモンを見上げた。
視線に気づいたらしい彼は目が合うと笑ってくる。
この優しい笑顔がなくなってしまう――。
「コマリ、バイトの時間はいいのか?随分時間を食ってしまったが」
「あっ!忘れてたっ!!いま何時?――あ、先にマスターに電話っ」
遅刻だぁ、と走り出す小鞠は一人になる日のことを無理やり頭から追い出し、カバンから携帯を取り出した。
そこにはシモンにもらったきれいな石のついたストラップが光る。
これをもらった日、まるで儀式のようなことをさせられた。
――コマリ、先ほどわたしが教えた言葉を言って。
――ヌイアール、モノオア、コマリ・サハラ。
ストラップを両手で包むように握って呪文を唱える。
教えられたカッレラ語は大事なものを失くさないようにと、昔から伝わるおまじないの言葉なのだそうだ。
両手の中で石が温かくなった気がしたと言ったら、それはおまじないが効いた証拠だと言われた。
石はそれ自体が輝いているようで、よく見れば石の中に星の瞬きのような煌きがあって、時おり流れ星のように光が流れるのだ。
小鞠はその石を見たことがあった。
シモンの首飾りのトップに光っていた宝石、そして一つ目の首飾りが壊れたあと、異世界から送られてきた首飾りにまたあった宝石――あれと同じだと。
だがそのことには触れていない。
以前の自分ならもらえないと突っ返していただろう。
異世界の石の価値などわからないがおそらくは高価なものだと思うから。
なのに――。
(なんで何も気づかない振りしてもらっちゃったんだろう)
浮んだ疑問は、携帯の時間を見た小鞠の頭から吹き飛んだ。
駅に向かってシモンと走りながらバイト先に電話をかける。