恋の終わり
学園祭のあと、今日が始めてのゼミの日だった。
ラブホテルで置いてけぼりをくらったあの日以来、爽と会っていなかった小鞠は、緊張して教室に向かったのだが、そこでシモンが爽に対して剥き出しの敵意を見せたため驚いた。
番犬よろしく側を離れようとしないシモンは、当たり前のようにゼミの教室で小鞠の隣に座り、教授とともに現れた爽を見るや、怒りも露に彼を睨みつけたのだ。
教授はシモンの形相に慄いて、部外者のゼミ受講をまたしても許してくれた。
「コマリ、わたしは正直、コマリを危険にさらしたあの男が許せない。ソウと険悪になるのを許してくれ」
自分にだけ聞こえるように言われた言葉の意味はゼミが終わってからわかった。
「ソウ、少し顔をかしてもらおう」
廊下で待っていたオロフに小鞠を任せたシモンが、さっさと教室を出て行った爽を追いかけて行く手を阻む。
「なに?えらく怖い顔をして――俺、ボコられたりするのかな?」
「わたしが怒っている理由がわからないのか?」
ゼミ生たちが何事かという顔で通り過ぎるのを横目で確認した爽は、溜め息混じりに髪をかきあげた。
「想像はつくけど……――コマー、彼のこと止めてくれないかなぁ?」
まるで何事もなかったかのように彼に話しかけられた小鞠は、自分の目と耳を疑っていた。
爽のその態度にシモンや側にいたオロフまでもが瞠目し、シモンが苛立ったように爽の肩を掴むのとオロフが小鞠を背に隠すのが同時だった。
「どの面をさげてコマリに話しかけている。この外道が」
「言ってくれるね。いいよ、皆帰ったみたいだし教室戻ろうか」
爽が先ほどまでゼミの行われていた教室を指さしシモンを呼ぶ。
「いいだろう。オロフ、コマリを頼――」
「コマも来て。でないと彼、俺を殺しそうな目してるし」
名指しで爽に呼ばれた小鞠はビクと肩を震わせた。
「コマリ、来なくていい」
「こういう場合、当事者が揃ってる方が誤解なくていいと思うけど?」
険しい表情を崩さないシモンに爽が笑顔を向ける。
「なんとふてぶてしい男だ……」
オロフが小さく呟くのが聞こえた小鞠は両手を拳に握った。
シモンが助けに来てくれなかったら自分はあの火事で命を落としていた。
あのとき炎の中に自分を置き去りにすれば死ぬかもしれないと、この人は考えなかったのだろうか。
助けようとはこれっぽっちも思わなかったのだろうか。
(わたしより自分のほうが大事ってことよね。――ミネ先輩がこういう人だってもうわかったでしょ!)
きっとこの人はあの日のことを少しも悪いと思っていない。
だから強気に出れるのだろう。
「わかりました」
「コマリ」
「いい。わたしも先輩に話したいことがあるから」
心配そうな顔をするシモンにこう応えると、しぶしぶと言った様子で彼は納得してくれた。
オロフを廊下に残し小鞠たち3人は教室内に入ると、人に話を聞かれないようにきっちりと扉を閉める。
「コマ、あのときは置いていって悪かった。俺も火事に動転してまともな判断ができなくなってたんだよ」
「動転、ですか」
「そう。火事なんて誰でもパニックになるだろう?コマならわかってくれるよな?」
笑顔でこちらをのぞきこんでくる爽を小鞠は見つめる。
以前ならそれだけで胸が跳ねていたはずが、いまは、とにかくこの場をやり過ごそうという彼の本音が透けて見えるようだ。
(そっか、わたしっていつもこうやって丸め込まれてたんだ)
恋心が目を曇らせていたのだとわかって小鞠は笑いがこみ上げていた。
そんな彼女の笑みに爽が笑顔を深める。
「よかった、コマならわかってくれると――」
「はぁ!?とろとろしてたら死ぬっつうの!」
「コマ?」
「……って先輩は言ったんですよね?待ってって言ったわたしに向かって。ねぇ先輩、生死に関わるときって人間の本性が出ると思いませんか?」
「本性って……確かにちょっと言い方はきつかったけどさ。火の回りが速くて怖かったってのもあって……」
「怖かったですよ、わたしも。炎の中に置き去りにされた時はもちろんですけど、先輩に押し倒された時もすごく」
小鞠の隣でシモンが顔色を変えたが口出すことはしなかった。
一瞬、シモンへ視線を走らせた爽が作り笑いを浮かべて再び小鞠を見つめる。
「だからあれは同意だっただろ?コマもそのつもりであそこに――」
「ざけんなっ!」
ブツ、と小鞠の中で何かがキレた音がしたときには叫んでいた。
「どれだけ怖かったかわかってんの!?火事にならなきゃあのまま無理やり……!――何がうまいよ。気持ちよくしてやるよ。勘違いもたいがいにしろ!この下半身男がっ」
鼻息も荒く爽を睨みつけると、しばらくあって、く、と彼が笑い出した。
「へぇ?真面目ないい子ちゃんだと思ってたらけっこう言うじゃん?俺、こっちのコマのほうが好みだわ」
「なっ……」
小鞠が絶句するのを見て爽はニヤリと口の端を持ち上げた。
普段の好青年然とした微笑みとは違い、皮肉が似合う下品な男の印象を受ける表情だった。
彼は近くにあった机に腰を預け腕を組む。
「いい先輩演じてやってたのにまったく告って来る気配ないし、かと思えば金髪男を連れてきて、しかも迫られてまんざらでもなさそうだったじゃん、コマ。こっちとしちゃ、なにこれ、俺の反応みてんのかー?とか思ったわけよ。俺さぁ、自分が振るのはいいけど相手が俺以外の奴見んのが許せない性質なんだよね。だからムカついてさ。で、意地でもコマに告白させてやるって火がついたっつうか。したら偶然、満留がなんか仕掛けるっぽいってわかってさ。それに便乗して俺はコマに思わせぶりなこと言ったり、頼ってみせたりして、コマの注意を俺に向けたわけ」
そこまで話した爽ははぁと溜め息をついた。
「満留もなぁ、もう少しうまくシモンにせまりゃあいいのに、自分が一番可愛いって思い込んでるあのプライドの高さがなぁ」
俺以外の奴見んのが許せない?
ムカついた?
意地でも告白させてやる?
「既成事実でもできてれば俺ももっとやりやすかったのに。……つーかシモン、おまえさ、つまみ食いぐらいしないわけ?あの女、頭空っぽで誰にでも股開くけどいー体つきしてっし、けっこうサービスもよかったぞ。溜まったもん抜くにはうってつけの女だけどな」
この人はいったい何の話をしているの?
怒りのためブチ切れていたはずのコマリは、想像だにしなかった台詞が飛び出してくるせいで頭がついていかず、まるで得体の知れない者を見るように爽を見つめた。
「わたしはコマリ以外いらないのだ」
「おいおい、男ならいろんな女とヤってなんぼじゃねーの?コマ以外いらない?さむっ。つーか重っ――いつもコマにくっついてまわってるけどストーカーかよ?」
ガゴッ!
大きな音が教室内に響いた。
小鞠が爽の座っていた机を力任せに蹴りつけたからだ。
反射的に足が出た瞬間だった。
怒りが突き抜けたために――。
シモンがぎょっと目を向き、爽は衝撃によろめきつつ机から立ち上がった。
「っぶね……何すんだよ?」
「うるっさいっ!!シモンはストーカーじゃない。あの火事の中、先輩が見捨てたわたしを助けに来てくれたの。どうしてわたしの髪が短くなってると思うの?火で焼けたからよっ!!シモンが来てくれなきゃわたしは焼け死んでた。自分のことしか考えてないような奴がシモンのこと馬鹿にするなっ!」
「はぃい?なんだよ、もしかして俺、責められてんの?人殺しって罵りたいわけ?で、次は金髪碧眼のイケメンヒーローにときめいちゃってるとか?俺のこと好きっつったくせに変わり身早いねぇ、コマ」
「は!?なんでそんな話になる――っんむ!」
横から伸びた手にいきなり口を塞がれ、小鞠はそのまま背後から抱き込まれる。
金色の髪が目に映ったため自分を止めたのはシモンだと彼女は気づいた。
思ったよりも強い力で、シモンはまだ文句の言い足りない小鞠を押さえ込んでくる。
モガモガと言葉にならない声が彼女から漏れた。
「ソウは先ほどからやたらとコマリにからむが……なるほど、可愛いコマリがわたしにかまうのが許せなかったのだな?そういうのをなんと言うか知っているか?――嫉妬というのだ」
「嫉妬ぉ!?んなわけないだろ。この俺が暇つぶしに相手してやろうって思ってやったん――ぅわっ!」
教室内に今度はズダンと鈍い音が響き渡った。
「痛っぅ」
シモンに投げ飛ばされ床の上に転がった爽から呻き声が漏れる。
シモンは魔法が使えないはずだから今のは彼の肉体のみを使った技だろう。
(し、ししシモンって何者!?実はすっごく強いんじゃ)
人があんなに簡単に宙に浮くのを初めて見た。
シモンの手が自分の口から離れたと思ったら、もう相手が投げられていたように思う。
「いきなり何しやがる」
背中を強く打ちつけたのか、咳き込みながらもなんとか半身を起こした爽がシモンを睨んだ。
「とっさに受身も取れないとは力量がしれるな、三下」
「三……した?」
「なんだ、言葉も知らないとみえる。ではこう言えばわかるか?チンピラ風情ではわたしに敵わんと言っている」
ス、とシモンは目を細め見下すような眼差しを爽へ向けた。
相手は床に座り込みシモンは立っているため、上から見下ろす格好が余計に偉そうだ。
ひいぃぃぃ!シモーンっ!!
なんかいつもの雰囲気と違うんですけどぉっ。
「っ……なんだと――ぐっ!」
頭に血が上ったらしい爽が言い返しかけたが、かがみこんだシモンが素早く彼の口を押さえ黙らせた。
「ソウ、おまえはわたしを三度も怒らせたのだ。一度目は炎の中にコマリを置き去りにしたこと。次は先ほど知ったがコマリを無理やり奪おうとしたこと。そして三度目はコマリを侮辱し傷つける発言をしたことだ。この口で――」
シモンの指が爽の頬に食い込んでいく。
力を込めているのだろう。
アガ、と声にならない苦悶の声が爽から漏れた。
「その罪、もはや死罪でも償いきれぬというものだが……さて、どうしたものだろうな」
シモンが普段とは比べ物にならないほどの恐ろしい笑みを浮かべる。
怖っ!なんだかとっても怖いよ、シモンっ!!
帰ってきてぇぇぇ!
もはや爽はシモンの気迫に気圧され、抵抗することもできないようだ。
ただ砕く勢いで顎を押さえられているのか、青ざめる額に脂汗が滲んできている。
「シモンっ、もういいから!やめて、お願い」
「コマリ、しかしこういう手合いは――」
きっとシモンは中途半端なことをすると、逆に恨みを勝って仕返しされることを恐れているのだろう。
その可能性がないとはいえないけれど、おそらくは大丈夫な気がする。
だってシモンと先輩とでは格が違う。
それはシモンの地位や財力の話ではなく、それらを取っ払った後に残る人としての格――器とも言い換えられるだろうか。
先輩もシモンがどこか自分とは違うと、なんとなくでも肌で感じたのだろう。
だからこそ闘志をなくしてしまったのだ。
小鞠は爽の口を塞ぐシモンの手首を掴んで大きく首を振った。
「わたしはシモンがこうして怒ってくれただけでいい」
小鞠の焦げ茶の瞳とシモンの深い青の瞳が交わっていたが、やがてシモンが手を離す。
「今後二度とコマリに関わるな」
鋭い眼差しと低音を生かした脅しを含む声音が爽を竦ませた。
うひぃっ、絶対シモンを怒らせないようにしよう!
言葉もなく頷く爽が転げそうになりながらも教室を出て行った。
(なんか、かっこ悪。あれがわたしの好きだった人……か)
これで本当に終われるなぁ。
今日むきあっていなければきっと先輩のことがトラウマになって、恋に臆病な人間になっていただろう。
「さ、コマリ。わたしたちも帰――」
教室の扉から小鞠に目を向けたシモンが驚いたような顔をしたため、彼女は我に返って頬を伝うそれに気づいた。