火の海
ハッとシモンは立ち止まった。
突然、けたたましく鳴り出したのはこちらの世界の警鐘だろう。
その音に紛れて何か聞こえた気がする。
(コマリ!)
さっき慌てた様子で建物を出てくるソウに出会った。
彼は自分を見て驚いたようだがすぐに走り去ってしまった。
コマリの姿がなかったためシモンは嫌な想像をする。
建物に飛び込んで彼女の愛魂の気配を感じとれたときどれほどホッとしただろう。
だが同時に建物全体の様子がおかしいと感じた。
花摘み宿など男女の情を交わす場所であるため独特の雰囲気があるはずだが、なぜかここはやたらと騒がしいのだ。
理由はコマリに近づくにつれ知ることとなった。
着の身着のままで若い男女が飛び出してきた部屋から、きな臭さと煙が漏れてきたからだ。
直後に警鐘が鳴り響き今に至っていて、シモンは再び走り出していた。
胸に手を当て愛魂を取り出し、青い揺らぎが流れる方向へ足を向ける。
途中、いくつかの扉から「開けて」だの「出してくれ」だの声が聞こえたが構ってられなかった。
(コマリのいる方が煙がすごいな)
火元の近くにいたりしないだろうか。
怪我や火傷を負っていないだろうか。
ソウが一人外に出てきたのは、途中でコマリは彼とはぐれたのもしれない。
だとしたら今頃怯えていることだろう。
煙で視界が悪くなるなかシモンはコマリの名を叫ぶ。
「コマリっ!どこにいる。コマリ!!」
もはや騒音としかならない警鐘の音のせいで彼女の声はちらりとも聞こえなかった。
「五月蝿いっ」
苦々しく吐き捨て掌の上で揺らぎ流れていく愛魂を見つめる。
まだ先のようだ。
このような入り組んだ宿は炎が回れば逃げ場がなくなってしまう。
目を凝らし駆けるシモンは扉が開け放たれた部屋を見つけた。
愛魂がそこへ流れていくのに気づいて部屋に飛び込む。
「コマリっ!いるのか?」
しかし炎に行く手を阻まれ入口辺りで立ち止まってしまう。
(なんだ?ここだけ異様に火の回りが速い)
火の海という表現がふさわしいこの部屋が出火元かもしれない。
天井も壁も床も炎に舐めつくされていて簡単に踏み込めそうもなかった。
シモンはベッドの側に人影を見つけて顔色を変える。
「コマリ!?」
床に倒れているのはまさしく彼女だ。
黒髪にポと火が灯るのを見たシモンは考えるより先に動いていた。
床を蹴って炎の中に飛び込んでいくと同時に、首飾りの魔法が発動したのか彼の周りの炎が消えた。
シモンの結界内にコマリが取り込まれると、髪に燃え移った火が消え髪が燃えた嫌な臭いが立ち込めた。
「コマリっ、コマリ!?」
ぐったりと意識のないコマリを抱き上げ呼びかけると、わずかに瞼が震えて彼女は目を開ける。
「シモ……ン?」
「ああ、良かった。無事で――」
一度腕に抱きしめてから身を離しコマリの頬を優しく撫でると、彼女の瞳に涙が盛り上がってくるのがわかった。
「シモンっ――わたし、死んじゃうかと……怖かった……」
ギュウと抱きついてくる体が震えている。
「大丈夫、もう大丈夫だコマリ。大丈夫だから」
泣き出すコマリを落ち着かせるように背中を叩き「大丈夫」と繰り返す。
ヒッヒッとしゃくりあげていた彼女は顔をあげ涙で潤む目を向けてくる。
コマリに頼りきった様子で腕を強く握ってこられ、シモンはこんな時だというのに抱きしめたくなる衝動がわきあがって、それを押さえるのに苦労した。
(ああ、可愛いすぎるっ!!)
コマリの衣服に乱れはない。
ソウとは何事もなかったのだろう。
いや、なかったのだと思いたい。
(コマリが部屋で倒れていたのは、まさかソウが先に一人で逃げたからか?)
はぐれたのだとしたらコマリは廊下にいるはず。
(コマリを置いて行った!?――だとしたらあやつは死罪に値する)
シモンがソウに怒りを持ったところでコマリが周りを見回し、炎が一定の距離を保って消えているのに気づいたのか、不思議さと不安さが入り混じったような声で尋ねてきた。
「わたしたちの周りだけ火が消えてる。シモン、何かしたの?」
「わたしの首飾りだ。持ち主であるわたしを守るためにかなり強力な魔法がかけられている。わたしの側にいればコマリも結界で守られるのだ。とはいえいつまでの炎の中にいてはいずれ守護結界も効力を失うだろう。その前にここを出なくては――コマリ、立てるか?」
「シモン、わたしこの部屋から出られるかな」
よろけるコマリを助けながら立たせると彼女は怯えたように炎を見つめた。
「わたしが逃げようとすると炎が襲ってきた気がしたの。まるで生きてて意思でもあるみたい」
コマリの言葉にシモンは目を見開く。
(まさか、この火事はコマリを狙って!?)
コマリの話が本当ならば魔法で炎を操っている誰かがいるということか?
シモンの脳裏にスミトが思い浮かんだ。
(やはりスミトが?――いや、でも……)
先ほど姿を見せたスミトが指差した花摘み宿はコマリがソウと入った宿だった。
あれは自分に彼女の居場所を教えてくれたのではと考えるのは甘いのかもしれない。
けれどシモンはなぜかスミトのことは怪しく見えても悪人であると思えないのだ。
オロフに後を追わせることはしたが、まだどこかで彼が敵ではないと思っている自分がいる。
「ば、馬鹿なこと言ってるね、わたし……こんなときにごめんなさい」
「いや。もし炎が襲ってきてもわたしの側にいれば安全だ。コマリ、絶対にわたしから離れるな。外まで一気に行く。三つ数えたら走るぞ。1、2……」
「3」と言う前にそれは起こった。
焼けた天井が火の粉とともに崩れて頭に降ってきたのだ。
とっさにコマリを胸に庇い蹲るシモンは遅れて顔をあげた。
崩れた瓦礫が守護結界に阻まれている。
ホ、と息を吐いたシモンだったが、結界で守られているはずの自分の側に、火の粉が舞い始めているのに気づいた。
(まずい、結界が綻びかけている)
おそらくは守護結界でも防ぎきれないほどの負荷を受けているのだろう。
こんな炎の中にいるのだから当たり前か。