小鞠編1
「あいたっ」
悲鳴とともに小鞠は左手の人差し指を唇に含んだ。
「まぁコマリ、指を刺してしまったの?」
「コマリお姉様、傷を見せてください」
小鞠は王族塔にある王と王妃の私室にいた。
王妃修行の一つに手芸があり、王妃のリネーアが先生だった。
そしてシモンの妹のウルリカが助手と言って同席しているが、王妃修行ばかりの毎日に辟易している小鞠の気が少しでもまぎれるよう、話し相手として参加してくれているようだ。
リネーアは三人の子どもを持つ母だというのに若々しく、青い目がシモンとそっくりで、年の離れた姉と言われても通用しそうだ。
ウルリカは瞳の色こそブルーグレーとシモンと少し違うが、明るい金髪は彼と同じ色だった。最も女性のウルリカのほうが柔らかそうな髪質で、色味の薄い金髪のリネーアと並ぶと、やはり年の離れた姉妹に見えなくもない。
二人がそろって心配そうな顔をして席を立つと指を舐める小鞠を囲む。
「あらあら随分と深く針を刺してしまったのね」
腰を屈めたリネーアが小鞠の手から刺繍していた布を取ってテーブルに置く。
星が瞬き出す頃の夜空に似た色のドレスは、白い肌によく映えてリネーアの楚々とした美貌を際立たせている。
対するウルリカはくるくるといろんな感情を映す明るい眼差しをしていて、アルヴァーに似た印象を受ける。
実際話してみて思ったが、彼女は王女でありながらかなり活発な性格なようで、面白いことが大好きと豪語している。小鞠より年下の二十歳ながらすらりと細い手足をし、しかも出るところは出ていて羨ましい限りだった。
今日着ている蜂蜜色のドレスは彼女の金髪と合わせたようでよく似合っていた。
「血がこんなに。早く傷の手当てをしなくては――」
己の侍女を振り返るウルリカの前にエーヴァが素早く近づいた。
手には傷の手当ての道具が入った木箱がある。
「早いわね」
「コマリ様は裁縫が苦手とおっしゃっておりましたので、万が一に備えておりました」
「よい心がけね。これからもコマリお姉様のために励みなさい」
鷹揚に頷くウルリカに目礼したエーヴァが小鞠に向き直った。
「コマリ様、お手を」
エーヴァに手を差し出されて小鞠は首を振った。
「え、大丈夫。こんなの舐めておけば血も止まるってば」
手当てするほどの怪我じゃないと言いたいのに、リネーアとウルリカに首を振られた。
「ならば血が止まるまで傷を覆っておきなさい。でなければ布に血がついてしまうでしょう?」
「シモンお兄様にせっかくプレゼントすると張り切っていらっしゃったのに、汚してしまっては台無しになります」
こう言われては従わないわけにはいかない。小鞠はためらいながら左手をエーヴァに向けた。
刺繍針で刺したはずの指先に浮かぶ赤い血は小さな点ほどで、きっともうほとんど止まっているに違いない。そんな人差し指をエーヴァは丁寧に拭って、傷薬まで塗って布を巻いてくれた。
(絆創膏なんてのがないってわかってるけど、これ大袈裟すぎる)
左の人差し指を振って小鞠はむ~と眉を寄せ、テーブルにある自分の刺繍した布を見つめた。
そしてリネーアとウルリカの施した刺繍と見比べる。
二人は初心者の小鞠に合わせてシンプルな刺繍を施しているのだが、当たり前に小鞠より上手だった。
基本中の基本のステッチをいくつか習って、これならできるとチクチクやっていたらおもいきり針を刺してしまうなんて。
そういえば中学の家庭科で刺繍のステッチを習った覚えがあるが、あの時も何度も指を刺したと小鞠は思い出す。
左手首にある魔法石は擦り傷などの小さな傷からは守ってくれないから、この後また針で指を刺していったら、左手は大怪我なみに布でぐるぐる巻きにされてしまうだろう。
ああ本当に裁縫はむいていない。
「刺繍ってやっぱり貴婦人の嗜みですか?」
しょんぼりと小鞠がリネーアに尋ねると、王妃はくすくすと笑って小首を傾げた。
「そうねぇ。できたほうがいいかしら?」
リネーアの言葉にがっくりと肩を落とす小鞠を励ますように、ウルリカがテーブルから小鞠の刺繍を取って傍らに椅子を寄せてきた。
「わたしも最初は苦手でしたけれど慣れれば簡単ですわ。頑張りましょうコマリお姉様」
刺繍枠の中に拙い刺繍が施されているのに、ウルリカは笑いもせず優しく指で指し示す。
「ほら、ここです。ここに針を通せば――あら、上手ですね、コマリお姉様」
「え?ウルリカが教えてくれたところに針を刺しただけ」
「わたしは思ったところに針を刺せるようになるまで随分とかかりました。コマリお姉様はコツをつかまれるのが早いです」
「え~、そうかなぁ」
えへへ、と小鞠はおだてられるままに針を突き刺していく。
それから数十分、時折ウルリカに縫い目を見てもらい、刺繍と格闘していた小鞠は「できた」と笑顔を浮かべた。
「お義母さん」
小鞠はテーブルを挟んだ向こうに座るリネーアに呼びかけた。
スイスイと針を進めていたリネーアの手が止まり顔が上がる。
「これ、どうですか?」
ジャーンとばかりに刺繍枠の向きを変えて出来上がったばかりの作品を見せる。
こんな風にプライベートな時間を過ごすとき、小鞠はアルヴァーを「お義父さん」、リネーアを「お義母さん」と呼んでいた。
というのも最初、間違えてアルヴァーを「お義父さん」と呼んでしまい、そのあと慌てて「お義父様」と言い直したのだが、面白がったアルヴァーはプライベートでは「お義父さん」と呼ぶようにと、それ以外の呼び方を受け入れてくれなかったのだ。
その後、リネーアと会ったとき「お義母様」と呼ぶとわかりやすくそっぽを向かれた。
嫌われたと青くなる小鞠にアルヴァーが「お義母さん」と呼んでほしいみたいだなと、笑いながら言ってきて、小鞠は話したなと思ったが本音を言うと、「お義母様」より「お義母さん」のほうが言いやすいのも事実で、以来いまのように呼んでいるのだ。
「まぁ上手にできたわね。とても可愛らしいお花だこと。コマリの世界のお花かしら?」
「この花は桜っていってわたしの住んでた日本の国花なんです。春になるとそこらじゅうで桜の木が満開になってすごく綺麗なんですよ」
「国中で咲くの?それは素敵ね」
「はい。花が散るときもまた綺麗で桜吹雪って言葉もあるくらい。ピンクの花びらがひらひら風に舞うんです」
満開の桜を思い描く小鞠は、話を聞くリネーアとウルリカが気遣わしげに小鞠の様子を伺い、一瞬目を見交わしたことに気がつかなかった。
桜の輪郭はバックステッチ、中心の花芯はランニングステッチとフレンチノットステッチを組み合わせてみた。
我ながら頑張ったと小鞠は刺繍を見つめて口元を綻ばせる。
「シモン、使ってくれるかなぁ」
体を動かすことが好きなシモンは、仕事で机にばかり向かっているストレス発散に、時折剣術や体術の稽古をする。その時の汗拭き用の綿布に刺繍をしてみたのだ。
「もちろん泣いて喜ぶに決まっています。シモンお兄様のことですもの、額に入れて飾りだすんじゃないかしら」
「こんな下手っぴなの飾られたらわたしが恥ずかしいし、使って汚れたら捨てちゃっていいから。うーん、やっぱりもう少し上達してからシモンにあげたほうがいいかな」
上手になったらリネーアのように花びらが盛り上がるように刺繍してみたり、ウルリカのように波のように縫ったり輪をつないでチェーンのように縫ってみるのもいい。
(どっちも難しそうだけど)
刺繍枠から綿布を外して刺繍した桜を撫でていた小鞠は、ふとあることに思い当ってそれがそのまま口をついて出てしまった。
「こっちが秋ってことは日本は春なのかも」
小鞠がカッレラにやってきたとき、日本は秋でカッレラは春だった。
2シーズンほどずれているらしいと思ったがすっかり忘れていた。
その瞬間、隣からウルリカの温かな手のひらが小鞠の手に重ねられた。
「コマリお姉様はやはり生まれ育った世界が恋しいのですね。ああ、わたしがお慰めできればよいのですけれど、どうすればお姉様の憂いを晴らせるのかわかりません」
「異世界からカッレラに来るなんてどれほどの決意が必要だったでしょうね。寂しいなら隠さないで、わたしたちにできることがあればなんても言ってちょうだい」
ええと、何やら二人とも盛り上がってらっしゃる。
小鞠が二人の顔を順に見つめると、気合の入った表情をして返事を待っていた。
困ってエーヴァを振り返れば彼女も、そしてドリスにスサンにサデどころか、リネーアとウルリカの侍女たちまで、皆そろいもそろって同じような顔をしている。
ここにいる誰も、王宮中に広がっていた小鞠の悪評を信じていなかったことは嬉しかったが、逆に「異世界から来た孤独なお姫様」と思っているようだ。
故郷を思い悲しんでいるのにみんなの前では明るく振る舞っているらしい――そんな誤解をしていると小鞠が気づいたのは、シモンの家族と食事したりお茶を楽しんだりするようになってからだ。
会話の折に気遣いを感じることがあり、もしかしてと思い至ったのだ。
誤解をさせるような態度をとったつもりはないが、ともかく今は日本のことを話したせいで故郷を懐かしんでいると勘違いさせたらしい。
「あの…では一ついいですか?」
小鞠の問いかけにリネーアもウルリカも、ええ、と身を乗り出した。
「できれば普通に日本のことを話したいです」
とたんに二人は意味が分からないというような表情になった。
「お義母さんとウルリカが言うように日本を恋しく思うときはあります。でもそうならないように日本のことを思い出さないのは違うって思うんです。寧ろちゃんと覚えていたい。だから気を遣わないでください。日本のことを話させてください。きっとそのほうがわたしは笑っていられます」
シモンとともに生きる道を選んだときにカッレラに骨を埋める覚悟をした。
帰りたいと言って困らせないと決めたのだ。
小鞠の言葉を聞いたリネーアもウルリカも無言だった。
心配してくれていただろうに、怒らせただろうか。
沈黙に小鞠は不安を覚えはじめたころ、リネーアがふふと微笑んだ。
「コマリはここで楽しく過ごせているのね。よかったわ」
「え?」
「郷愁にかられる暇もないくらい充実した毎日を過ごしているってことでしょう?」
ホームシックも吹き飛ぶくらいのことがあったせいだと言えなくもないけれど。
小鞠は「そうですね」と返事をしておいた。
「わたしは王宮に入って少し経った頃よ」
一瞬リネーアの言ったことの意味が小鞠には分からなかった。
そして意味を解して驚きの声を上げていた。
「お義母さんでもホームシックにかかったりしたんですか?」
「まぁ、わたしだって人並みな感情があるのよ」
「そうじゃなくて完璧な王妃様っぷりだから。お義母さんはずっと王妃様っていうか、泣き言を言う姿なんて想像できないです」
「じゃあ期待を裏切ってしまうかしら?「うちに帰りたい」って泣き喚いて大暴れしたのよ」
「嘘、お義母さんが?」
「初耳です」
目の前のリネーアからはあまりにかけ離れた行動に想像がつかなくて、小鞠とウルリカが目を白黒とさせた。
その表情がおかしかったようで、リネーアは楽しそうに笑ったあと話を続けた。
「結婚と同時にアルヴァーが王に立ったことで忙しくなって、わたしも王妃として頑張らなくちゃって気を張っていたのね。そのせいで夫婦の会話なんてほとんどなくなってしまったの。最初の兆候は疲れが取れなくて、苛々したり些細なことで腹が立ったり、それからだんだんとやる気もなくなっていったわ。そして毎日、結婚前に戻りたい、うちに帰りたいってそればかり考えるようになっていたの」
リネーアは膝にあった刺繍をテーブルに置いて、かわりに糸切狭を手にした。
「そんなある日、ぷつんと糸が切れてしまったのね」
鋏で糸を切る仕草をすると、彼女は話に聞き入っている娘二人を見て先を続けた。
「文句も言わずに王妃の務めを果たせと言うのなら人形でも王妃にすればいいわって、アルヴァーに怒鳴りつけたの。なのにあの人ったらきょとんとして、王妃となることを納得して妻になったのだろうなんて、わたしのことなんてまるで気遣っていない言葉を返してきたのよ。もう悲しいやら腹立たしいやらで、それまでの不平とか不満とか怒りのままにぶちまけて、実家に帰るから離婚してちょうだいって、泣いて暴れてもう部屋中めちゃくちゃ。そうなってやっと、アルヴァーもわたしが精神的に追い詰められているって気がついたんでしょうね。仕事を早めに切り上げてくれたり、労ってくれたり、夫婦の時間を大切にしてくれるように変わっていったの」
「お父様がお母様に優しいのは昔からだと思ってました」
ウルリカが意外そうに母親へ言った。
「もともと優しい人ではあったけれど、王であることに手を抜かない人だったし、わたしにもそうであってほしかったのね。だけどわたしは生まれながらに王族として育った彼とは違う。責任も覚悟も、王妃として生きるうちに芽生え育って、それが王妃としての自信に繋がるのだとわたしは思うわ。なのに何十年と王族として生きてきたあの人と同じになんて、最初から無理な話でしょう?」
リネーアの言葉は小鞠に衝撃を与えた。
シモンといるためには彼の隣に立つ覚悟や、次期王妃としての責任を持たなければと思っていた。
王族としての振る舞いとはどういうものかと悩んでいた。
「お義母さんは王妃としての責任や覚悟を、今は持てていますか?」
「それは死ぬまで求め続けるでしょうね。けれど以前よりは王妃らしくなっていると自負しているわ。だからコマリも最初からなにもかもできるように、なんて気負わなくていいの。できることから始めなさい。できることを少しずつ増やしていきなさい。それでももし、あなたの手に負えないことがあったなら、恐れず助けを求めればいいの」
口にしなきゃ誰にもつたわらないのよ、とリネーアはおどけた様子を見せた。
小鞠の隣でウルリカがそうですわと頷いた。
「わたしはコマリお姉様の味方です。困ったことがあったら言ってくださいね。わたしが絶対にお助けしますわ」
「ありがとう」
「もちろんわたしも力になるわ。あなたのおかあさんだもの。頼りにしてちょうだい」
「ありがとうございます」
二人からの優しい言葉に小鞠は胸がいっぱいになって、自然に笑顔が広がった。
そんな小鞠にリネーアとウルリカも視線を合わせてふふと笑う。
「やっぱりコマリお姉様は笑った顔が一番ですね」
「え?わたしそんなに怖い顔をしてた?」
「怖いというよりとてもお疲れのご様子でした。いくらコマリお姉様でも、あのテディが相手では一筋縄ではいかないでしょうと同情していましたの」
小鞠はあの手この手で王妃修行から逃げようとしているから、リネーアやウルリカの耳にも逃亡癖があると伝わっているだろう。それゆえのこの台詞だと想像がついた。
王妃教育に熱心なテディだが、本当は時折休みにしてくれるので、息抜きだってできている。
けれど小鞠はすべてを投げ出したいと逃亡を企てる。
テディが怖いとか他の指南役が嫌いだとかそういうことではなく、小鞠にとってこの世界の知識はゼロなため、単純に覚えることが多すぎるのだ。
例えば婚礼にはカッレラ王国と国交のある国々からも来賓があり、最低限の世界情勢を頭に入れなくてはいけない。けれど小鞠の場合、世界地図と国の名前を覚えるのが先だ。
王妃としての務めを覚えようにも、礼儀作法もまだまだ怪しいうえ教養もない。
小鞠は王妃修行が始まってからこっち、基礎知識、基礎技術を叩き込こまれ、同時にそれらが前提にあっての事柄も教えられているので、頭も体も常にオーバーワーク。
というかそろそろ限界にきていた。
寝室に閉じこもったり、シモンに余裕のない態度をとってしまって自己嫌悪に陥ったりと、うまく自分をコントロールできなくなるときがあった。
これは先ほどのリネーアの話にあった、苛々したり些細なことで腹が立ったりやる気がなくなっていったという状態と同じに思える。
では同じように糸が切れる時が来るのだろうか。
まさかと小鞠が否定したところで、リネーアが口を開いた。
「コマリの元気がないからシモンに尋ねたのよ。そうしたらテディに毎日しごかれて随分ストレスが溜まっているようだと聞いて……。しかも今日は郷里のことまで話し出すから、よほど気が滅入っているのかと思ってしまったの。だけどコマリはわたしたちが思うよりずっと強いわね。安心したわ」
ああそうか。
だからリネーアは昔話までしてくれたのだ。ウルリカとともに励ましてくれたのだ。
さっきいっぱいになった胸が再び喜びに溢れ、そしてじんわりと温かくなった。
自分のことでいっぱいいっぱいで周りに心配をかけていることに気づかなかった。
こんなにも優しい人たちに囲まれていたのに。
「みんなに支えられているから、力が湧いてくるんです」
潤む瞳を隠すようにうつむいたけれど、声が揺らいでしまったから泣いていると気づかれただろう。
隣に座るウルリカが小鞠の手を握った。
顔を上げるとリネーアとウルリカに笑顔が浮かんでいて、小鞠は遅れて二人に笑って見せた。
なんだか本当の親子と姉妹になれたようで嬉しかった。そしてこの幸せな気持ちを小鞠は一番にシモンに話したいと思った。
少し休憩にしましょうとリネーアが言ったところで、タイミングを見計らったように部屋の扉がノックされた。
リネーアの侍女が扉を開けに動くより早く、外からの訪問者が明るい声をともに室内へ入ってきた。
「リネーア様、お邪魔いたします。――やあコマリ、ここにいたね。探したよ」
「ベンノ?」
姿を見せたのはシモンの従弟のベンノだった。
「おや、指をどうしたんだ?」
「え?これはちょっと針で……っていうかどうしたの?」
「ああ、そうだった。コマリ、この後の王妃修行はキャンセルだ。午後から自由にできる。さぁまずは何をしよう。ああ、小腹がすくころかな。では先に食堂で軽くなにか食べよう」
ベンノに腕を取られて立ち上がった小鞠は、引きずられるように引っ張られて焦る。
「ちょ、ちょっと待って――」
「リネーア様、御前失礼いたします。お騒がせしたお詫びは後日うかがいますので。ウルリカ、久しぶりだがお前とはまた今度だ」
振り返った小鞠はリネーアとウルリカがぽかんとしているのを見た。
急なことに頭がついていかないらしい。
「失礼します」と小鞠がそれだけを言ったところで、廊下に連れ出されてしまった。
数秒遅れでエーヴァたち侍女が扉から飛び出てくる。ドリスが小鞠の刺繍した綿布を忘れず持ってきてくれていた。
ベンノが侍女長たるエーヴァへ言った。
「エーヴァ、皆で手分けしてシモンとあとはいつものメンバーを呼んできてくれないか。わたしとコマリは食堂にいるからそこへ来るようにと伝えてくれ」
エーヴァは未だ状況が呑み込めないらしく、小鞠に戸惑ったような眼差しを向けてきた。それを受けて小鞠がかわりに疑問を口にする。
「ベンノ、いつものメンバーって……」
「シモンときみの近臣と友人に決まっているだろう?」
「じゃなくて、みんなを集めて何をするの?」
「遊ぶんだよ」
さらりと返事をされて小鞠もまた、彼の意図するところがわからなくて眉を寄せた。
「え?それってどういう――」
「夏に庭園でゲームをして遊んだんだろう?わたしも仲間に入りたいと思ってね。急なことだからさすがに魔法を取り入れた準備のいる遊びはできないけれど、簡単なものならできるじゃないか。わたしはかくれんぼが得意だ」
「みんなお仕事があるでしょう?ベンノもそうじゃないの?」
婚礼後シモンは王座に就くことになっている。そのためアルヴァーは公務を少しずつシモンへ回しはじめているのだそうだ。
おかげでシモンは忙しさが増して、補佐のテディだけでは手が足りないのか、小鞠が王妃修行の間、オロフやパウリにまで仕事を振っているし、魔法使いの三人にも日替わりで一人ずつ補佐となるよう、上司となるマッティ魔法長官に話を通したらしい。
それにスミトとゲイリーにもいろいろと手伝ってもらっているそうで、シモン自身、王となる準備を着々と進めているようだ。
ベンノはアルヴァー王のもとで働いているのだし、そのままシモンにも仕えるつもりらしいから、いま一番シモンの力になれるはずなのに。
「半日仕事を放っておいたくらいで誰も困らない。ほら、遊ぶ前に腹ごしらえだ」
握られたままだった手を引かれ、小鞠はまたしてもベンノについていくしかなかった。
主についていくべきかベンノの命に従うべきかと、おろおろとしているエーヴァを振り返って小鞠は言った。
「とりあえずシモンのところへ行ってもらえる?」
「公務があるとわたしの誘いを蹴るつもりなら後で覚えておけとシモンに言うといい。シモンはわたしに借りがあるはずだから」
にやりと笑みを浮かべるベンノの悪い顔は本当に悪人っぽくて、小鞠は頬を引きつらせながらエーヴァに「早く言って」とジェスチャーを送った。
頷くエーヴァがドリスたちを促して足早に執政等へ向かったのを、廊下を曲がる間際に見届け、小鞠はベンノを横顔を見上げる。
以前シモンに子ども時代を尋ねた時は、小鞠もまだベンノを知らなかったから、弟妹と従弟に怪我がないように気を遣ったと聞いただけだった。
が、ベンノと知り合ったあと、シモンは彼のことをちゃんと教えてくれた。
切れ者かつ有能で仕事はできるが、プライベートではとにかくなにをするか予想のつかない人なのだそうだ。
そしてどれだけ傍迷惑な人物かということを、長々と説明された。
「ベンノにどれほど振り回されてきたか」と漏らすシモンの顔は苦渋に満ちていて、大袈裟じゃないのと小鞠は思ったが、今日のこの強引な様子にシモンが言っていた意味がよく分かった。
伯母になるとはいえ、王妃たるリネーアのいる部屋に我が物顔で入り込んで、挙句に王妃を訪ねている小鞠を有無を言わさず連れ出すなんて、無礼どころの話ではない。
ベンノのすごいところはそれを一向に気にしていないことだ。
姿勢よく歩みを進める姿は堂々たるもので、自分に自信がない小鞠とは大違いだった。
そういえば先日会ったとき髪を切りたいと言っていたけれど、今日はもう髪型が変わっていた。
側頭部と後頭部は短いが、頭頂部は長くして横に流すようにセットしてあって、大人の男性という雰囲気だ。
おそらく彼は思い立ったら即実行するタイプなのだろう。
行動力は抜群といえば聞こえはいが、アクティブすぎると小鞠は思った。
これは確かに普通の感覚を持つ者なら振り回されるだろう。
このような人だからかシモンは相手をしているとときどき疲れると言う。
それもわかるけれど、小鞠はベンノのことを好ましく思っていた。
面白い考え方をする人なので、話をしているととても楽しい。
ベンノをお騒がせ人物と感じる人は多いだろう。が、その騒ぎも誰かを楽しませたり、幸せにしたいという気持ちが根っこにあるように感じる。
小鞠はいまみんなと遊べたらどんなに楽しいだろうと、わくわくしている。
これはベンノのおかげなのだから。
(わたし、シモンと追いかけっこをして勝つって野望があったっけ)
結局、体力作りはできないままだが、どこまでシモンから逃げられるか挑戦してみるのはどうだろう。
かくれんぼのあと追いかけっこをしたいと提案してみようか。
考えるうち笑いがこみ上げてきて小鞠はふふと声を漏らした。気づいたらしいベンノが首を傾げる。
「急に笑い出してどうした?」
「追いかけっこでシモンに勝ちたいなぁって前に思ってたの。どうやって逃げようか想像したら楽しくなってきちゃった」
「小鞠は追いかけっこが得意なのか。かくれんぼも捨てがたいが……さてどうするか」
ふむ、とベンノが腕を組んだことで繋いでいた手が離れる。
顎に手をやる彼は思案顔になった。
「かくれんぼも追いかけっこも両方やっちゃおう。あ、けどかくれんぼだとシモンが鬼になったとき、愛魂があるからすぐにわたしの居場所がばれちゃうかな?」
「「オニ」?……というのは探す人のことか?」
そう尋ねてきたベンノは日本語を覚えるように「オニ、オニ」と繰り返している。
「ああ、そっか通じないんだっけ。そう。探す人」
「では「オニ」は誰かを見つけたら15秒間動いてはいけないことにしよう。隠れていた者はその隙に「オニ」から逃げてまた隠れてしまえばいい。「オニ」に捕まえられたら終わり。どうだ?これでかくれんぼと追いかけっこ、どちらも楽しめるぞ」
どうやら「鬼」という言葉を気に入ったらしい。何度も使うのがおかしかったが、かくれんぼと追いかけっこをミックスした案に小鞠は食いついていた。
「あ、かくれ鬼ごっこね。そっかそうしよ」
「カクレオニッコ……?また新たな言葉が――」
「「かくれ鬼ごっこ」。ベンノが言ったような遊びのことを、日本ではそう呼ぶの。わたしが子どものころやったのは、鬼に捕まったら、その捕まった人に鬼が移って、その人がまた別の人を捕まえて……って鬼がどんどん変わってくのよ。けどベンノの考えた、かくれんぼ要素を強く残して鬼が全員捕まえるってのも面白そう」
「追いかけっこは危険だから、なるだけその要素を少なくしようと思ったのだ」
「危険ってどこが?」
危険というより鬼から逃げるためにひたすら走り回るから、すごく疲れる遊びだと思うけれど。
「追いかけっこは広い屋外のほうがいいだろう?幼き頃、屋外での遊び場は庭園だったのだが、追いかけっこをすると逃げるのに夢中になって泉にはまったり、木の根に足を引っかけたり、わたしを含めシモンや皆に怪我が絶えなかったのだ」
話を聞いた小鞠は、あー、と遠い目になった。
シモンによれば、いつもベンノが真っ先に何かをはじめ、つられたオーウェたち弟妹と一緒になって大暴れするから、気苦労が絶えなかったらしい。
誰かがずぶ濡れになったり怪我をするたび、シモンが背負って王族塔に連れ帰る羽目になり、それどころか巻き込まれて怪我をしたことも数えきれないと聞いた。
ここは深く突っ込まないほうがいいよねと小鞠は話をそらした。
「今日は屋内と屋外のどっちで遊ぼうか」
「屋内のほうが隠れる場所が多いのではないか?庭園は花園を除けば見晴らしがよすぎる」
「そうだね。それにしてもベンノって遊びを楽しくする天才ね」
「なにごとも手を抜かないのがわたしのモットーだ」
えへんとばかりに胸を張るベンノに小鞠は声をあげて笑った。
「威張るところなの、それ?」
ベンノにも明るい笑顔が広がって、それから思いついたようにこう言った。
「コマリがシモンと勝負したいのなら、最初の「オニ」はシモンに決定だな」
「あ!それいい」
グ、と親指を立てるとベンノがそれ見て、真似るように指を突き出した。
小鞠からまた楽しげな笑い声がもれた。