ゲイリー編
「ゲイリー様、あの……今度どこか一緒に出掛けませんか?」
ゲイリーは目の前で思い切ったように口を開いた彼女を、顔色も変えず静かに見下ろしていた。
アッシュブラウンの髪を器用に頭部にまとめ、清潔感あふれる染みひとつないメイド服を着た彼女――スサンは確かまだ二十歳そこそこだったはずだ。
頬を真っ赤に染めるスサンは、ゲイリーの視線を感じたのかこちらを見て、目が合うと恥ずかしそうに栗色の瞳を彷徨わせる。大人っぽいタイプではなく見た目は年相応だろう。
だが年齢より落ち着き払ったゲイリーからすると若いという印象だ。
スサンはコマリの侍女をしているため、コマリつき魔法使いとなるゲイリーとはよく顔を合わせる。彼女は数日おきにゲイリーの部屋を訪れ室内の掃除をしてくれていた。
ゲイリーから頼んだわけではなく、異世界とは勝手が違って何かと大変だろうと、彼女自らが買って出てくれたのだ。
親切心は建前でその裏にある思惑に気づかないゲイリーではなかったが、やってくれると言っているものを断ることもない。
何かあればそのときに考えればいいと今日まできたが、とうとうその「何か」が訪れてしまったようだ。
ゲイリーの予定に合わせて掃除にくるスサンは、仕事着であるメイド服を着てやってくる。だいたいは侍女として小鞠のもとへ出向く前、早朝に訪れることが多く今日もそうだった。
そして一通りの掃除の後、去り際にこうして誘いを受けたというわけだ。
カッレラ王国でのゲイリーの立場は、次期王妃の魔法使いとなっていて、しかもコマリが異世界からわざわざ連れてきた人物であるとされていた。
そのため王宮魔法使い所属ではあるが扱いはかなり特殊であったし、異世界ではメイドの一人や二人、ついてもおかしくない地位にいたと思われているらしい。
スサンはそのあたりを見越して、上から何か言われたときに備え、侍女と言い訳がたつよう仕事着でやってくるようだ。
ゲイリーと同じ立場のスミトと、彼とともに暮らすジゼルのところにも、たまにエーヴァやドリス、それに最近はサデも出入りして掃除や洗濯を手伝っている。
そのせいかスサンが頻繁にゲイリーの部屋に来ても、気に留める者はいなかった。
(一大決心したという顔だな)
いつもなにかと話題を探して、話しかけてきていたのをゲイリーもわかっている。
避暑地では泳ぎ方を教えてほしいと、向いていない水泳にまで挑戦していた。
メリハリのある体で迫ってくる方法だってあったように思うが、スサンは全く頭になかったようだ。
そういえば時節送りの日の頃は、掃除に来るたびそわそわしていたが、もしかしていまのように誘うつもりだったのかもしれない。それが伸びに伸びて今日やっと誘ってきたのだろうか。
彼女は思わせぶりな態度をとることも、女の武器を使うこともしない、真っ向から勝負を挑むような裏のない性格をしているらしい。
それがゲイリーには駆け引きを知らない子どもとして映る。
これまでゲイリーはスサンに期待させるような態度は一切取らなかった。一度くらい味見してもよさそうだと思ったこともあるが、スミトに兄と慕うコマリを失望させるなと言われてその気は失せた。
もしかすると徹底した変わらぬ態度にスサンが焦れてしまったのかもしれない。だから今日、彼女はこのような行動に出たのだろうか。
そんなことを思いながら冷静にスサンを観察するゲイリーは、返事を待つ彼女が細かく震えていると気がついた。
「わたし相手にそこまで緊張する必要はない」
「え?」
「きみはいつもわたしの前では緊張している。そんなに恐ろしいか?」
「違います。怖いんじゃなくて好きなんです!好きな人の前で緊張するのは当たり前でしょう。わたしの気持ち、わかってなかったんですか!?」
まさかここでストレートに告白してくるとは思っていなかったため、ゲイリーは少々驚いた。
とはいえこれは勢いに任せての告白であろう。
ゲイリーの返事はもちろん「受け入れない」と決まっている。
だがそっけなく告白を拒んでしまって、その後スサンの態度が変わらないといえるだろうか。
(動揺しまくるのではないか?)
これからもコマリのもとで顔を合わせるというのに、それは何かと面倒そうだ。
ここはいくらか今まで通りに関係を修復しておくべきだろう。
数秒黙した間にそこまでを考えたゲイリーは、
「それは気づいていた」
と、スサンの気持ちを知っていたことをあっさりと認めた。
「気づいてたのにいつもあんな気のない素振りをして――……ゲイリー様はわたしに全然興味なかったんですね」
眉根を寄せたスサンがエプロンごとスカートを握りしめる。
見る間に栗色の瞳に涙が溜まって、ぽろぽろと溢れだした。
「そこで泣き出されてしまうとわたしが悪者になってしまう」
「わたしの気持ちを知ってて無視してたんだから、ゲイリー様は冷血漢じゃないですか」
「色よい返事はできないのにどうしろというのだ。わたしこそ、きみにはこのまま何も告げないでいてもらいたかったと言いたいが」
泣きながらこちらを見つめてくるスサンの瞬きに、涙が頬を滑って落ちていった。
いつもは笑っていることが多い彼女だったが、いまは傷ついたらしい悲しみの表情が浮かんでいる。
「そんなにわたしのことが迷惑でしたか?」
「迷惑な人間を自室に入れたりはしない。きみのことは、ともにコマリを守る大事な仲間の一人だと思っている」
「大事な仲間って……そんなあたりさわりのない言葉に騙されません。放っておいても勝手に掃除にくる、都合のいい女って思ってたんじゃないですか」
「都合のいい女にしておきたいなら、甘い言葉を吐いて恋人ごっこくらいしていた」
スサンはゲイリーの言った言葉の意味を考えるように黙り込む。
ここは「仲間として大事に思っている」を、前面に押し出し強調しておくべきだ。
たとえ本心はコマリと秤にかけて、スサンに遊ぶほどの価値がないと判断したからだとしても。
これまでゲイリーは生活に馴染むことに重きを置いて、性欲に意識が向かなかった。が、近頃はさすがに辛い。
寮住まいで毎度女を連れ込めるはずもないし、かといって城下に通うのも目立つだろう。
スサンが自分と似たタイプであればよかった。
肉欲を満たすために抱き合いときに恋人のようにじゃれあって、ベッドを離れれば他人に戻る。二人のことはけして他人に漏らさない。
関係がコマリの耳に入らなければ白い目を向けられることもないのだ。
そんな心の内をきれいに隠してゲイリーは再びスサンに語り掛ける。
「わたしはきみに恋愛感情を持ってはいない。だから先程の誘いも受けるわけにはいかない。スサンの言う好きとは、友人としてという意味ではないのだろう?」
「……はい」
「ではやはり無理だ」
「ゲイリー様は誰か好きな方がいらっしゃるのですか?もしかしてコマリ様……とか……」
以前リクハルドにも誤解されたが、どうしてそんな思い違いをされるのか。
「いいや、そんな気持ちは微塵もない。コマリはわたしの妹に似ているんだ」
早いうちにそう気づいてコマリを気にかけるうち、シモンへのあてつけで可愛がることを思いついた。
嫉妬を煽るにはベタ甘な兄がいいだろうと実践していたら、コマリになつかれてゲイリーにも情がわいてしまったのだ。
いまでは本気でコマリを妹のように思っている。
「ゲイリー様は妹がいらっしゃるのですか?では異世界に残してきてしまったのですね」
「いや……幼い頃に亡くなった」
スサンははっと顔色を変え、そして申し訳なさそうな顔でゲイリーに謝ってくる。
「すみません」
「かまわない。わたしは実のところ本当の妹のことをよく覚えていないんだ。ただコマリのように何にでも一生懸命だった気がする。似ていると言ってもその程度だが――……覚えていないのに似ているなんて矛盾しているな」
ゲイリーがの話にスサンはふるふると首を振った。
「コマリ様のこととなると、ゲイリー様は本当にお優しい顔をなさいます。わたしじゃそんな顔をさせられません」
「コマリには妹を溺愛する兄は異性に気持ち悪がられると言われた」
スサンがやっとふふと顔をほころばせた。
「ゲイリー様にとって、コマリ様が誰より一番ということなんですね」
肯定の意味をこめてゲイリーはわずかに口の端を持ち上げた。
スサンが赤くなったことに気づかないふりをして、仕事へ向かうと告げると彼女も頷いた。
部屋を出たところでゲイリーを振り返ったスサンが、そうだ、と思い出したように手を打った。
「ゲイリー様、次はいつお掃除に伺いましょう」
「……え?」
この話の流れてなぜ何事もなかったように次と言えるのだ。
どういうつもりかと訝しむゲイリーに、スサンは明るい口調で言葉を続ける。
「いつものように三日後でいいですか?」
「スサン、わたしの話を聞いただろう」
「はい」
「だったらどうして」
「脈がないってわかりましたけど、やっぱりわたし、ゲイリー様の顔が好きだなぁって。だからこれからは顔だけを観賞しに来ます。それに前々から思ってたんですけど、ゲイリー様とわたしじゃ考え方が違いすぎて、合わないかもって――実際その通りみたいです」
泣いたり傷ついた顔をしたりと、先程までの騒ぎようはいったいなんだったのだ。
まぁ、その程度の気持ちであったのなら、このあともぎこちない態度を取られることはないだろうか。
だがゲイリーはスサンがスカートの陰で、両の手を強く握りしめているのに気づいてしまった。
(そうか)
これがスサンなりの精一杯なのだろう。いままで通りを望むのはスサンも同じ。
しかしゲイリーとスサンの思ういままで通りは違う。
ゲイリーは恋人同士になることはないと互いにわかったうえで、いままで通りでいるのを望むのに、スサンはすべてをなかったことにしようとしている。
「スサン、それはきみにとって間違った選択だ」
意味が分からないのかスサンが眉を寄せた。
「なにがですか?」
「わたしは欲望に忠実だ。欲しいときに相手を探し、ひと時を楽しむだけでいい。そしてその相手はきみじゃないと言ったつもりだ」
「……お相手が部屋にいらっしゃるときは、お掃除はご遠慮します」
「問題はそこじゃない。わたしは周りに誰がいようと……たとえきみが側にいようともできる。相手もそんな人間がいいんだ」
スサンは得体のしれないものを見るようにゲイリーを見上げてくる。
ゲイリーは開け放った扉に凭れながら腕を組んだ。
「愛情はなくていい。気持ち良く溜まったものを吐き出せるなら、複数でも、屋外でもかまわない。もちろん相手に恋人がいても気にしないし道具を使うのも――」
「も、もう結構ですっ。それ以上はわたしの想像を超えるっていうか……未知の世界すぎて限界だからっ……いえ、限界です」
ゲイリーの言葉を遮ってこう言ったスサンは、引きつった顔で後退る。
「そうか。ならば過ちは正せるな」
「はい。趣味趣向が異なる者同士は互いに学びあえる半面、努力でも補えない隔たりがあるとわかりました」
「隔たり……そうだろうな。きみはいわゆる普通の恋愛がしたいのだろう。わたしは快楽主義だ。必要であればこの顔も体も使う。でも、だからといって顔だけと言う相手になにも感じないわけではない」
普段と変わらぬ口調であったが、ゲイリーが眼差しを険しくすると、スサンの顔がみるみる青ざめていくのがわかった。
「わたしときみが合わないというのは同感だ。今後は仲間でいる方が互いに良好な関係を保てると思うが?」
「――は、はい……失礼なことを申し上げてしまい、まことに申し訳ありませんでした。これからはゲイリー様のおっしゃる通り、侍女としての分を弁えてまいります」
少し脅しすぎたか。
けれどこのくらいしなければ、ゲイリーにその気がないのに、スサンはずるずると無駄な時間を過ごすことになる。
目礼をして慌てて去っていくスサンを、ゲイリーは表情一つ変えずに見つめていたが。
「いつまで覗き見しているつもりだ」
廊下の角にスサンが消えたところで、反対側の廊下の壁へ視線を向けた。
「やっぱ気づいてた?」
声とともに姿を現したのはトーケルだった。
目晦ましの魔法で姿を隠していたみたいだが、ときどき動いていたのか微かな物音をさせていた。
あれで気づかないほど阿呆ではない。
「姿を消しておきながら、気配を断つ気はなかったようだが?」
「ゲイリー相手に下手な小細工してもな。仕事が溜まってるからちょっと早めに出勤するかって出てきたら、ちょうど出くわしたんだ。スサンからしたら俺は邪魔だろうと思って、とっさに姿を消したんだが、素通りできない話につい立ち聞きした」
近づくトーケルはすまんと謝っているが、全く悪びれる様子はない。
朝っぱらから濃い話をしていたのはこちらだし、ゲイリーとしては特に隠すことでもないため、別にいいと首を振った。
「にしも、ゲイリーって見かけを思い切り裏切るよな。さっき言ってた、スサンがドン引きしたあれ、マジか?」
「わたしの性癖のことか?まあ概ねは」
言いながらゲイリーは視線でトーケルと室内へと促した。
「寄っていくか?」
「んじゃ、ちょっとだけ」
トーケルは素直に部屋に入ってくる。
「へぇ、きれいにしてるんだな。って、スサンが掃除してくれたんだっけか」
トーケルは初めて部屋へ招き入れた。
彼はソファに向かいかけて、壁際のテーブルに目を留めるとそちらに近づく。
「リクハルドにこっちの世界の言葉を習ってるんだったか。いまも?」
冊子を取り上げぱらぱらとめくって、先にソファに腰を下ろすゲイリーに尋ねてきた。
「ああ。リクハルドの仕事が立て込んでいるときは日が空いたりするがな」
「あいつは真面目すぎるから。どこかで手を抜かないといつか倒れるって言ってるんだ」
元あったところに冊子を戻し、トーケルはゲイリーの向かいのソファに座った。
そして前置きなく切り出してくる。
「告白されたのを断ったって感じだったけど、なんであんな言い方をしたんだ?」
「最初は穏便にすませようとしたんだ 。だが、それでは彼女が離れていかないとわかった。だからやり方を変えた。これ以上周りをうろつかれては迷惑だからな」
「迷惑って……好きになってくれたんだろうが」
トーケルの声音に非難めいた響きが宿ったが、ゲイリーには痛くも痒くもない。
「それが?抱けもしない女を目の前に、欲求を抑える身にもなれ」
「抱けもしない?」
「コマリの侍女となるスサンと遊ぶわけにもいかないだろう」
「それって、ゲイリーにとって女は性欲のはけ口って言ってるのか?」
人間としてどうなんだと言わんばかりの反応だ。
大多数の人間はトーケルのような反応をするのだろう。
しかしゲイリーは常識やモラルなんてものは、生死の前ではちっぽけなものだと知っている。
命が脅かされると人は簡単に他人を見捨てるのだ。魔法教会でずっとそんな人間ばかりを見ていた。
いまさら人は美しいのだと言われても、きれい事だと感じてしまう捻じれた性格になっている。
「おまえは違うのか?何人も相手がいると聞いたぞ?」
「それぞれにいいところがあると思ってる」
同じにされたのが気に食わなかったのか、トーケルが睨むように顔つきを一変させた。
ゲイリーもまた、冷ややかな態度になる。
「それぞれな。そんなものただの詭弁でいろんな女と寝たいだけに聞こえるが」
「考え方の相違ってやつだろ」
「そうか。ではマーヤをどうすればいいかと問われても、わたしは良きアドバイスなどできそうもない」
ゲイリーが告げると、挑戦的な物言いをしていたはずのトーケルが動揺して、ぐと言葉に詰まった。
「………なんで……」
「トーケルにその気がないことは見ていればわかる。相手にできない理由は可愛い後輩だからか?だがジゼルにちょっかいを出すくらいのおまえなら、そのあたりのモラルは低いように思えるが?」
ジゼルがスミトしか見えていないため、トーケルも積極的にアピールすることはなくなったが、あわよくばという思いは捨てきれていないように見える。
スミトに脅されていたはずが懲りない男だ。
「下手な言い訳で自分を誤魔化すより、マーヤは好みではないと認めて、さっさとケリをつければいい」
突き放すゲイリーにトーケルは何事か言おうとして口を開き、けれど結局は言葉が出てこなかったのか黙り込んだ。
それからしばらく待っても何も言ってこなくて、ゲイリーはちらと扉に目を向ける。
さきほどからもう何人も、廊下を人が歩いていく気配がする。そろそろ仕事に向かい始めているのだろう。
ゲイリーも今日は朝からシモンのもとへ、スミトと出向くことになっている。
コマリの暗殺事件のあと、カッレラ王国の三大貴族が一気に力を失ったため、勢力図が変化しつつあるのだ。今後、力を強めてきそうな貴族の動向を、早急に調べなければいけない。
しかしゲイリーもスミトも、まだ王国の貴族を把握しきれていないのでシモンが直接、二人にレクチャーしてくれることになっていた。
「話がないならもういいか?」
スミトとエントランスで待ち合わせているのだ。いつまでもトーケルの相手をしていられない。
トーケルが我に返ったように顔を上げ、腰を浮かしかけるゲイリーを静止する。
「待ったっ。ゲイリーすまん。おまえの言う通りかもしれない」
「は?」
「一人に絞れないってのは、結局のところ誰にも本気じゃないからだ。そんなんで関係を持つってのは、ゲイリーの言う通り、いろんな女と気持ちいいことをしたかったからだと思う。……ジゼルのことだって、スミトに釘を刺されながら、未だにもしかしたらって思ったりするし」
自分語りされてもつきあいきれないとゲイリーが思うのをよそに、トーケルは情けない顔で話を続ける。
「きっと俺、マーヤがタイプだったら、後輩なんてのは関係なく即行手を出していた」
だからすまん、とトーケルに謝られても思ったことを伝えただけだ。
そのせいでトーケルが怒ろうが、嫌われようがどうでもいい。
他人にどう思われようと頓着しないのがゲイリーだった。
それはたぶん、他人に対して興味がないからだとも、彼は自己分析の結果わかっている。
なのになぜ、トーケルは感謝しているような顔を向けてくるんだ。
「おまえのおかげで自分がどれだけ小さいか気づいた」
ありがとうな、とまで言われて、ゲイリーのほうが反応できなくて固まってしまった。
こんなことを恥ずかしげもなくこんなことを言ってくる人間がいるのか。
言葉が出てこないゲイリーに気づかないまま、トーケルは迷いが晴れたような顔で立ち上がった。
「時間取らせて悪かった。今日中に提出しないとまずい書類があるんだ。ちょっと急ぐから先に行く」
部屋を飛び出していくトーケルに、返事らしい返事もできなかったゲイリーは、静かになった室内で大きく息を吐いた。
朝っぱらから騒がしい。
元来静かな時間を好むゲイリーは急ぐことなく身支度を整え始める。
するといきなり部屋の扉が派手に叩かれた。
「ゲイリー!おっまえ、いつまでボクを待ちぼうけにさすんやっ。エントランスでトーケル君に聞いたし、まだ部屋いてんのはわかってんねんぞ。さっさと出てこいや」
声からスミトだとわかってゲイリーはうんざりした顔になった。
本当に騒々しい。
大仰に溜息をついたゲイリーは、不機嫌な顔のまま扉を引き開けた。
* * *
シモンからカッレラ王国の貴族だけでなく、注意すべき重臣や友好的な長官など聞くうちに、随分と時間がたっていた。
昼を回ったところで、ぐう、とスミトが腹を鳴らし、やっと休憩ということになった。
スミトは空腹を我慢できないとばかりに、「食べ物もうてくるー」と部屋を出ていった。
そのためゲイリーはシモンと部屋に二人だ。
側近のテディは来年初夏に行われる婚儀に向け、今日もコマリの王妃教育をしている。
以前、コマリが婚儀の儀式についてテディから教わっていたところを見たことがある。ゲイリーから見てもテディの教え方はわかりやすく要点を押さえていた。
それに彼はうまく飴と鞭を使い分けている。
コマリはスパルタだと嘆いているが、ゲイリーからするとかなり甘いように思えた。
なにしろコマリと同じテディを師に、王宮の何たるかを仕込まれているパウリは、鞭しかもらっていない。何度頭をはたかれ、背筋も凍るほどの一瞥を向けられていたか。
とはいえこんな慰めをコマリに話したところで、あまり意味をなさないのだろう。
なにしろ連日の王妃修行に、コマリのストレスがどんどんたまっているようなのだ。
エーヴァに聞いたが最近講義を終えた後は、無言で部屋に閉じこもるようになってしまったという。
「そろそろコマリがストレスで爆発するんじゃないか?」
ゲイリーがこうシモンに問えば、彼は思い出し笑いを浮かべた。
「すでに何度か爆発してわたしが八つ当たりされている。そのくらいですめば良いが、いつか大爆発するだろうと、テディには近々休みにするよう言ったところだ。明日か明後日か、まぁ二、三日中には休みになるだろう」
「八つ当たり?また子どもな……」
「八つ当たりと言っても口を尖らせての可愛いものだ」
コマリはもともと子どもっぽいが、拗ねたときはそれに輪がかかっている。
ゲイリーも何度かむくれたコマリを相手にしたことがあるため、その様は容易に想像がついた。
「テディ曰くコマリは優秀ということだが、コマリ本人は真逆だと思っているようでな。わたしがいくら自信を持つよう言っても信じないし、下手な慰めはいらないと昨夜などは言われたか」
「まぁ、試験のように点数がつくわけではないし、共に学ぶ仲間もいないからな。基準がわからないんだろう」
「わたしはコマリがコマリらしくあればよいと思うのだが」
「プライベートではそれでいいだろうが、公の場ではどれだけ王妃らしく振る舞えるかが重要だろう。指南役にいくら習おうが本物にはかなわないから、おまえの母親にこれまでの成果を見てもらったらどうだ?」
思いついたことをシモンに提案すると、彼は目の前が開けたかのような顔になって大きく頷いた。
「そうか、母上ならばコマリの力になれるし、悩みも理解できよう。良い知恵をもらった」
にこにこと笑顔を向けられてゲイリーは黙り込んだ。
今朝のトーケルもそうだが、ここにも自分を買いかぶる者がいたようだ。
無言のゲイリーを見てシモンは首を傾げる。
「おかしな顔をしてどうした」
「していない」
「そうか?まぁ、ゲイリーは表情の変化が乏しくてわかり辛いが、今はなにか奇妙な顔になったような――」
「そんなことより、一つおまえに言っておくことがある」
深く突っ込まれたくなくて、ゲイリーは無理矢理に話題を変えた。
「今朝、スサンと少しあってな。そのせいで雰囲気が悪くなるかもしれない」
「告白されたか?」
すかさずシモンに突っ込まれた。
仲間のほとんどの者が、スサンの態度から察していただろうし、今さら否定することもないためゲイリーは頷いた。
「今後わたしに近づかないようにした」
「なに?断るだけでよかったんじゃないのか?」
「それで引き下がってくれたならな」
最初は穏便にと思っていたのが、ついスサンを遠ざけるためにきついことを言ってしまった。
「ああ……わかった――コマリにはわたしから伝えておこう」
「そうしてくれ」
察したらしいシモンだ。この男もコマリに出会う前は、王妃狙いの女たちに苦労したのだろう。 本人から直接聞いたわけではなく、あくまで噂として耳に入る程度であったが、そのせいで愛魂相手を探すのに固執したようだとも聞いている。
シモンは話を切り上げるかと思ったが、一拍あって「ゲイリー」と呼びかけられた。視線で問えば、シモンは一瞬言いよどみ、けれど結局は思い直したのかこう尋ねてきた。
「おまえはあちらの世界に戻りたいと思ってはいないか?」
変に気負うからどんなたいそうなことを言ってくるのかと思えば。
拍子抜けしてゲイリーは目の前の男を見つめる。
「いきなりだな」
「ああ、いや。本当は前から気になっていた。わたしが無理やり魔方陣に引き寄せたせいで、ゲイリーはこの世界にきてしまっただろう?あちらの世界に未練だとか、もしも恋人がいたならと――。ゲイリー、あちらの世界に戻りたいか?」
まじめな顔をしてシモンは尋ねてくる。ここで帰りたいと言えば、すぐに手筈を整えるのだろう。
「おまえはわたしをあちらに送り返して殺す気か」
「え?」
わかっていない様子のシモンにゲイリーは呆れた。
「スミトだけでなくいまやわたしも魔法協会のお尋ね者だ。こちらに来る前のことを思い出してみろ。スミトが魔法協会とは別の組織に逃げるかのような、わざと誤解させるようなことを言っていただろう。おそらく魔法協会はわたしもその組織へ逃げた思っているはずだ。そんな状態でわたしがあちらに戻って、いったいどこで暮らせというんだ。魔法協会に見つかれば執拗に追われ、捕えられたらありもしない組織のことを吐かせるために拷問されるんだぞ」
「そうか……それはすまなかった、な?」
謝罪を口にするシモンだったが、まだ何か言いたそうだ。
このままうやむやにされるのも後々気持ち悪い。
腕を組んでゲイリーはじろりとシモンを見た。
「なんだ?」
「ゲイリーはけっこう、カッレラのことを気に入ってくれてるのか?」
ゲイリーは額を押さえたくなった。
(これが一国の王子だと?)
甘いことを面と向かって尋ねてくるのか。
主がこれでは腹心たちも似た者が集まるだろうか。
「わたしとスミトをコマリの盾に加えたのはおまえだ」
「嫌ならやめても――」
「なつかれて情がわかないほど、わたしは薄情ではないぞ。最初はおまえへの嫌がらせのつもりでかまっていたが、いまでは本当に妹を溺愛する兄の心境になっている」
「嫌がらせであったことを隠すつもりはないのか。しかし……驚いたな。そんなことを言う男だったか?」
向こうの世界にいたなら感情は不要であったし、ゲイリーもこんなことは思いもしなかったはずだ。
けれどこの世界に来て、シモンやコマリ、そして彼らの周りの人間と過ごすうち、人として当たり前の感情を取り戻していったのだ。
人間をやめなくてすんだとスミトは言っていたが、確かにそうなのだろう。
「最初は居心地が悪かった。でももう慣れたな」
何がおかしかったのかシモンは吹き出して笑った。
「コマリ効果か?ゲイリーが素直だ」
確かにきっかけはコマリかもしれない。でも目の前の男の影響も大いにある。
ゲイリーは口の端を持ち上げて、ゆったりとした動作で肘掛けに肘をつくと頬杖をついた。
「コマリがおまえといることで笑うなら、ここでそれを守ってやる。ありがたく思え」
「わたしにそのような口をたたくとは不敬だな」
言いながらもシモンの顔は笑っている。本気ではなく軽口なのだ。
それがわかっているゲイリーも応酬した。
「わたしはおまえの友人という立場なのだろう?友とは対等であると、わたしに説教をしたのは誰だ」
日本でシモンに言われたことを逆手にとって言い返してやると、彼もすぐに思い出したようだ。
「ではやっとわたしはゲイリーと友になれたということか」
嬉しそうに破顔するシモンにゲイリーは毒気を抜かれてしまった。
コマリと魂が対であるというが本当にこういうところはそっくりだ。
ゲイリーはシモンに向かってにこやかな笑みを浮かべてみせた。
「おまえの友である前にわたしはコマリの兄だ。コマリを泣かせたら、わたしがおまえを泣かせてやる」
「目が…本気なのだが――」
「もちろん本気で実行する気だが?」
シモンが笑顔をひきつらせた。その顔を見てゲイリーは満足する。
コマリを猫可愛がりをするうちに、シモン苛めも楽しくなっていたゲイリーだ。
やはりこれがゲイリーという男だった。
〈ゲイリー編 END〉