護衛官編2
時節送りの日、魔法と小道具で変装したシモンとコマリの二人は王宮を抜け出した。
パウリにはスミトが、テディにはゲイリーが、そして侍女たちはジゼルがそれぞれ注意を引き、二人の脱走の協力者となったのだ。
主たちの不在に気づいたときには、スミトとゲイリー、ジゼルも忽然と消え、彼らもまた城下に出てしまっていて、パウリたちはまんまとしてやられたと気づいた。
あとからテディにこってり絞られたスミトたち三人は、陰ながらシモンとコマリの警護をしていたと言うが、パウリは嘘だと思っている。
何しろシモンとコマリのほうが、彼らより先に王宮に戻ってきたのだ。
あの日、オロフは夕刻までの勤務で不在であったし、魔法使いの三人のうちグンネルは帰宅した後であった。そのため残った近臣らとシモンの近衛騎士団で、捜索に出ようかと決めた直後。
城下で買ったという手土産を両手いっぱい抱えてシモンとコマリが戻ってきた。
臣たちは血相を変えて心配していたというのに、にこにこと土産を配る能天気な二人に、パウリは本気で頭を抱えたくなった。
この二人は己の立場を理解しているのか、と。
王宮を抜け出した理由が「誰にも邪魔されずデートがしたかった」であったため、テディが目を吊り上げて怒ったのも、こうして根に持っているのも仕方のないことだろう。
後日、パウリはシモンから聞いたが、城下での二人の護衛にはスミトの精霊がついていたようだ。
それにシモンがナイフを数本隠し持っていたらしく、ちょとした問題なら自分だけで何とかなると判断したということだった。
(なまじ王子がそこらの騎士より腕が立つってのがなぁ)
シモンにはコマリを守るくらいはできるとの自負があったようだ。
確かにその通りなのかもしれない。しかしそれは有事の際の最悪の状況で見せてくれるだけでいい。
――これでは護衛官としての自分は何のために存在しているのかわからない。
普段、面白い主たちだと笑っているパウリだが、このときばかりはシモンに慎んでくれと言ってしまった。
すまん、と漏らすシモンはコマリの願いを叶えてやりたかったと苦く笑った。異世界に暮らしていたころと違い、不自由を強いているからということだった。
異世界でコマリがどんなふうに暮らしていたかパウリは聞いたことがない。けれど話を聞くほどに、今とは違った生活をしていたのだろうと予想はついた。
そんなコマリも後から臣たち一人一人に謝っていた。彼女もまたシモンと同じで周りを心配させたとわかっていたのだ。
つらつらと時節送りの日から後のことを思い返していたパウリは、テディの前で小さくなっているコマリを見つめた。
無邪気で見かけ通り子どもっぽいお姫様だと思う。そしてその影響をシモンも受けているらしい。
パウリはコマリに出会う前のシモンを知らないが、周りの者は一様に近頃のシモンは以前と違い、ときおり子どものようなことをするようになったと言うのだ。
けれど誰もそのことを悪く思ってはいないようで、むしろ二人に振り回されるのを楽しんでいる節がある。
(テディも実はその一人だってオロフが言ってたけど)
きっちり締めるところは締める。それがテディなのだ。
いま書庫はしんと静まり返り、誰もが成り行きを見守っている。
ほどなくして白旗を上げたのはコマリだった。
右手右足が同時に出ているのではというほどぎこちない動きで、部屋の中央にある机に戻るとしょんぼりと椅子に腰を下ろす。
そんなコマリの左手でなにかがきらりと光った。薬指の金と銀の指輪がその正体だった。
シモンの左手にもあって二人の指輪は揃いなのだそうだ。
小さな光なのにやけにその存在を主張する。
パウリは目に飛び込んだ指輪から視線をそらし、くるりと踵を返した。
「俺、廊下にいるわ」
そのまま部屋を後にすると、廊下の壁にもたれて天井を見上げた。
ドーム状の天井にはタイルがはめ込まれ幾何学模様が描かれていた。
そんな芸術的な美しさを誇る天井も、いまのパウリの目には入っていなかった。
(お姫さんてあんなに柔らかかったか?)
コマリに抱き着かれたことは今日が初めてじゃない。クレメッティを殺めたときに、泣けと言われて抱き寄せられた。
あのときは何も感じなかったのに。
さっき激突されたときに触れた感触を思い出し、パウリは手の甲で目を覆う。
(なんかすっげぇいい匂いがした)
思ってぐしゃと髪を握る。
ガチャリと音がして部屋からサデが出てきたため、パウリはとっさに平静を装う。
「先に戻るのか?」
「いいえ、お茶の用意をするようテディ様がおっしゃったので――厳しいふりをなさっていますが、テディ様はコマリ様に甘いですよね」
ふふ、とサデが笑うのをパウリは微妙な思いで聞いた。
確かにシモンやコマリに対しては甘いところのあるテディだが、主を主とも思わないようなあの態度はいいのだろうかと常々思っている。
だからあえて触れないまま話題を転じた。
「そういやドリスがお姫さんの帰りを待ってたっけな」
「あ、部屋のお掃除に残ってくださったんです。コマリ様はまだかかりそうですし、その間ずっとお掃除していただいてるのも……」
「こっちに来るよう伝えようか?大掃除をはじめそうな勢いで、そこらじゅう掃除していたし」
「そうしていただけますか。ドリスさんには少し休憩してもらうほうがいいと思います。こっちが止めないと、いつもずっと動き回ってお仕事をしてるんですよ」
「じゃあやっぱりこっちに連れてきたほうがいいな。お姫さんを見せてたら、おかしな言動をしても仕事はしないだろ」
サデは笑いながら頷いた。
「そうですね。お願いします」
「了解」
なんだかすっきりしない胸を抱えて、パウリはシモンとコマリの部屋に戻った。
主が不在であるという油断からノックもなく扉を開けると、ドリスに満面の笑みを向けられた。
「おかえりなさいませ――……って、あんたなの」
コマリが戻ったと思ったのだろう。彼女の笑顔はすぐに落胆した表情へ変わった。
「ご挨拶だな。お姫さんはまだかかるようだから呼びに来た。あんたは仕事のしすぎだとサデが心配していたぞ」
「まぁ、サデったら優しい子ね。あの子の彼氏がヴィゴじゃなく、他の男ならいびり倒してやったのに」
「ヴィゴだったらいいのかよ」
「あんたと違って真面目で優しい人だもの。サデとお似合いよ」
ドリスに女とのつきあい方を話したことはないのに、不誠実と言われる筋合いはない。
しかし実際、言い返せるようなつきあい方もしてきていないのだ。
ここは触れないでおくほうが無難だろうかと、パウリは差しさわりない返事をした。
「女好きのあんたが珍しいな。男を認めるなんて」
「わたしの恋愛対象は男性よ」
「知ってるよ」
パウリがこう言ったとたん、ドリスは胡乱な目になった。
「じゃあどうしていつもわたしのことを馬鹿にしたような態度をとるわけ?」
「馬鹿にしてないだろ。いつも変態じみたことばっかり言うから呆れてるだけだ」
「それが馬鹿にされてるみたいだって言ってるのよ」
ドリスはふんと鼻を慣らし、けれどしばらくあって顔つきを改めた。
「さっきは個人的なことを尋ねたりして悪かったわ」
「あ?…あー、あぁ――俺も大人げなかった。でもマジな話、俺好きな相手ってのがよくわからないんだよな。気持ちいーこと優先で生きてきたから」
「最低ね」
「はっきり言ってくれる。ま、そういう男もいるってことで。ドリスは嫌いなんだろうけどな」
「そうね」
顔をしかめつつ即答するドリスだったが、やがてパウリを見上げて何か言いたげな様子を見せた。
「なに?」
「――パウリの好きな女の子のタイプって、美人より可愛い系?」
またこの話に戻るのか?
個人的なことを尋ねたのを謝ってきたのはなんだったんだ。
思いながらパウリはあきらめてつきあうことにした。
「どっちでも」
「しいていえば?」
「あぁ~?……しいていえば、笑った顔が似合う女がいいな」
「美人系と可愛い系で聞いてるのに」
「だからそれはどっちでもいいっつってんだろ」
「じゃあスタイルは?」
「それも極端に太ったり痩せたりしてなければどうでもいいな」
「性格」
「変態レベルまで振り切れたセックスしなけりゃなんでも」
「仕事に生きる女か家庭を守る女か」
「俺はやりたいとき会えればいいし好きにすれば?」
「デートするなら外か家、どっち?」
「だからやれんならどこでも――」
「あんたはそれしか頭にないのっ!?」
ドス!といきなり腹にドリスの膝蹴りをくらった。
とっさに腹に力を込めて防御はしたが、女にしては強烈な蹴りだったためパウリは顔を顰める。
「いきなりなんだ!」
「本当、下半身で生きてきたような男ね。潰してやろうかしら。わたしは彼女にするならどんな人がいいかって尋ねてるのよ」
「だーかーらぁ、そういうのはよくわからねえってんだろ。ほんっとなんなんだ。俺のこと好きでもないくせに根掘り葉掘り……いい加減うざいぞ」
そろそろ我慢の限界だ。
はっきり言えとパウリがドリスを睨み付けると、彼女はやっぱり口を閉ざしてしまった。
長い沈黙が広がり耐え切れなくなったパウリは「はあぁ」と溜息をついていた。
「ああくそ、お姫さんに溜息はよくないって言われてるのに」
イライラと吐き捨てる。
このままこの部屋に居続けるのも居心地が悪いとパウリはドリスに背を向けた。
扉のノブをつかんだところで背後から声がした。
「コマリ様の言葉は守るのよね」
「はぁ?ったり前だ、俺の主だからな」
「なら、コマリ様とシモン様のご結婚をあんたはどう思っているの?」
質問の意図がつかめなくてパウリが振り返ると、ドリスの怖いくらい真剣な双眸と視線が合った。
話に脈絡がなくてパウリにはドリスがなにを尋ねたいのかさっぱりだ。
「――めでたいことだろ」
つきあっていられない。
パウリはさっさと部屋を出ていくべく扉を引き開けると、俯き加減に足を踏み出した。
「おっと」
が、その声と人の気配に動きを止める。
顔を上げるとシモンが驚いた様子で立っていた。ちょうど扉を開けようとしていたようだ。
部屋の中にいるドリスを見つけたらしいシモンの視線の動きに気がついて、パウリは隠すように扉を閉めた。だがそれが不審に思われたらしい。
「どうした?何かあったのか?」
「別に何も」
「何もって顔か。喧嘩でもしたか?」
茶化してくるシモンにパウリは苦く笑って首を振る。
「どうも俺はドリスに嫌われてるらしい。それより王子はなんでここに?テディが山のように仕事を積み上げてきたって言ってたけど」
「あまりの量にうんざりして放ってきた。少しコマリの顔を見て癒されたくてな。――が、ここにはおらぬようだな」
「書庫でテディにしごかれてる。逃げ出そうとしたせいで余計にテディに脅されてたぞ。王子が行って助けてやれば?」
「おまえも書庫へ行くのだろう?一緒に行くか」
「ああー……俺はあとから行く」
このむしゃくしゃした気持ちを抱えて仕事をしても集中できない。どこかで気を落ち着けたかった。
パウリの返事にシモンが考える素振りを見せていたが、
「よし、パウリ。わたしにつきあえ」
そう言っていきなり首根っこをつかまれた。
「行くぞ」と歩き出すシモンに引っ張られ、よろけながらついていく。
襟首が持ち上がって首が絞まるのが苦しかった。
「行くってどこへ」
「すっきりしよう」
「わかった。つきあうから王子、放してくれ。苦しいって」
いったいどこにそんな力があるのか、シモンはパウリですら驚くほどの怪力の持ち主だ。
半ば強制的に連れてこられたのは王族専用の修練場だった。
騎士団塔にある修練場より手狭だが傷みは少なく、そろえてある武具も装備も上等だ。
「ほら」
シモンに投げてよこされた剣を反射的に受け取った。怪我のないよう刃は潰してある。
二人して石台に上がって中央に立つ。
「俺は朝からすでに鍛錬はしてきてんだけど」
「つきあうと言っただろう」
「その様子じゃ軽く手合わせってわけじゃないんだな。木刀じゃなくていいのか?」
当たり所が悪ければ打ち身ではすまないというのに、シモンは防具をつける気はないようだ。
「あれじゃ軽い」
「ああ、確かに」
ぶん、と一度剣を振るってパウリは剣を構えた。
シモンも同じように構え、目が合ったところで踏み込んできた。
始めるぞ、との声が上がったときには剣が突き出されていて、パウリは慌てて剣を弾き返す。
「ちょ……それ、反則じゃねぇの?」
「おまえもいきなり襲い掛かってきたじゃないか。声をかけただけわたしのほうがましだ」
魔法使い塔で初めて対峙した時のことを言っているのだとすぐに思い当たった。
「あんときは敵同士だったろ」
ガキン、ギンと打ちあいながら、交差した剣の向こうにあるシモンへ文句を言うと、青い目がニヤと笑んだ。
「さきほどドリスに何を言われた?」
思っていたのと違った台詞に、一瞬何を言われたのかわからなかった。
そのため返事を逸してしまう。
「おまえは普段、一方的にドリスに苛められながら、相手にしていなかっただろう?」
交わる剣から、ぐぐ、と圧力が加わって、パウリは押し返そうと腕に力を込める。
速さ勝負ではパウリに分があるためか、シモンは怪力に物を言わせて力技で攻めてくるつもりのようだ。
気合とともにシモンの剣を撥ねつけ、パウリは間髪入れずに剣を横に払った。
しかし攻撃は読まれていたのか、シモンは難なく後ろに跳んで逃げてしまう。
力に頼りきりかと思いきや素早さもなかなかのものだった。が、今朝のルーヌほどではない。
ならばやはり自分のほうが早いと瞬時に判断したパウリは、畳みかけるようにもう一歩踏み込んで剣を振り下ろす。
耳障りな金属音がしてパウリの剣はシモンに受け止められていた。
攻撃を止められたことに苛立ちながらパウリはやっと質問に答える。
「ちょっと二人で話す機会があったから、なんで俺を目の敵にするのかドリスに尋ねただけだ」
シモンは意外そうな顔をすると、パウリの剣を簡単にいなし、「で?」と先を促してきた。
同時に攻撃も仕掛けてこられてパウリは慌てて受け止める。
「で、って……ちょっ……」
右、左、斜め、横、とまるで剣技の稽古をしているような攻めだが、パウリは反撃の隙を窺えない。
一撃一撃のシモンの剣は重く、このまま剣を打ちあっていては手が痺れてきそうだ。
それに話をしながらの打ち合いをいつまでも続けていれば、気がそれて怪我をしたり、逆にシモンに怪我を負わせてしまうかもしれない。
(一気に片を付けてやる)
パウリは軸足となる右足で強く石台を踏んだ。
シモンがその音に反応し防御の体制に動いたのを見て、即座に左へ移動すると勢いよく剣を振り下ろす。
フェイントをかけられたシモンは、体制を崩しながらも身を捩って剣を避けた。
(今のを避けるのかよ)
ち、と舌打ちがこぼれたパウリは、逆にシモンが剣を突き出したことに気づいて体をひねる。
「危ねっ」
そのまま背をそらして石台に片手をつき、バク転しながら辛くも剣を躱した。
(なんて反射神経をしてんだ)
しかも反撃までしてくるとか、王宮騎士団も真っ青な腕を持っている。
素早く体制を立て直したパウリだったが、シモンを見失った。
視線をさまよわせて上空に、剣を振り上げたシモンが降ってくるのを見た。
ガギィン。
体重をかけての斬撃は半端なく重い。パウリの体が衝撃に一瞬沈んだ。
(ってぇ!)
手から腕にかけて痺れていくようだ。
剣は切り結んだままであったため、全力でシモンの力に抗っているといきなり、ふっと力が緩んだ。
力の均衡が崩れてパウリが前にのめる。
ギン!
「っ!」
バランスを崩した隙をついて、シモンが下から上へ鋭く剣を払った。パウリの手から剣が飛んで行き、それは弧を描いて石台に落ちる。
喉元にシモンの剣の切っ先が向けられた。
「勝負あり、だな」
真剣な表情を改め息を吐いたシモンが空いた手で乱れた髪をかき上げた。その手の薬指に指輪があって、パウリの目が引き寄せられた。
シモンとコマリ、二人の指に夏の終わりごろからあって、一度消えたと思ったら二連になって再び指にはめられていた。
パウリの脳裏に、お揃いの結婚指輪ねとジゼルに冷やかされて、照れながらも幸せそうに笑っていたコマリの顔が蘇る。
視線に気づいたらしいシモンが左手の指輪を見た。
「これがどうかしたか?」
はっと我に返ってパウリは顔を背ける。
「ああ、いや……それって、お姫さんの趣味か?」
「というか異世界の風習らしい。結婚する二人が愛の証としてつけるものだそうだ」
「また寒い風習で」
「おまえもテディと一緒か。わたしはいい風習だと思うのだがな」
言いながらシモンは石台に転がる剣を拾いに行って、両手にある剣を持ち比べるように振った。
「やはりどちらもそう変わらないくらいの重さだな。パウリ、手を抜いたか?」
「え?いいや」
「そうか。ならば今日は調子が出ないらしいな。ドリスとやりあったのが原因か?見た目と違って繊細なのだな」
からかい顔で笑うシモンにパウリは笑い返すことができなかった。
「もう一勝負するか?」
「いや、今日は王子に勝てる気しないわ」
その返事に頷くシモンが、石台を降りて剣を戻すのをパウリは目で追った。
「それで?ドリスがおまえを目の敵にする理由はわかったのか?」
石台を振り返るシモンにパウリは首を振った。
「俺に好きなやつはいるのかって逆に質問された。いないっつってんのにしつこいからキレそうになって、一度目はスミトが止めてくれたんだよ。んでさっきもまたドリスに似たような質問されて、さすがにウザイって部屋を出たところで王子に会った」
「ああ、なるほど。それであの顔か。怒るということは核心を突かれたからだろう。でなければうまくかわせていたはずだ」
「核心?」
首を傾げるパウリにシモンは苦笑した。
「おまえは自分に関心がなさすぎるな」
その台詞にピンときた。
「王子はドリスが俺を嫌う理由がわかってるのか?」
「ドリスはコマリの幸せを第一に考えているからだ。あの娘の勘の良さには驚かされたが、おかげでわたしも確信が持てた」
シモンまでもが理解できない話をする。
「何の話だ?」
パウリが眉を寄せるとシモンは彼を手招いた。
呼ばれるまま石台を降りてシモンの前まで歩くと、左手でつくった拳を目の前に突き出される。
「この指輪はおまえにはやれぬということだ」
ますます意味が分からない。
パウリは面食らったまま頷いた。
「王子のもんだし当然だろ?」
するとシモンが拍子抜けした顔になって突き出した拳をひっこめた。
「これだけ言ってわからないのならはっきり言うべきなのだろう。だがわたしもそこまでお人好しではないのでな。気の済むまで誰かに相談しておまえ自身で気づけ。ただしコマリの前では一切この件に触れるな。よいな」
つまりコマリに知られてはいけないということらしい。
「はぁ……」
「そして気づいたらわたしに報告にこい。そのときにまた手合せしよう。まずはわたしが一本先取だ」
「はぁ?」
にこやかなシモンの顔はどこか楽しそうだ。
コマリのもとへ行こうと主に促され、パウリはいつのまにかむしゃくしゃとした気持ちが消えていることに気づいた。
シモンは魔法使いではないし、魔法で何かしたということはないだろう。
(人を落ち着かせる魔法なんてのがあるのかも知らないけど)
苛立ちの原因を話し、体を動かしたのが良かったのだろうか。
でもドリスの件はよくわからないままだし、シモンとの手合わせには負けたのだ。
普通なら余計に苛立つはずなのに。
修練場を後にするときシモンが背後のパウリを振り返る。
「わたしはおまえを信頼しているぞ」
青い瞳はそらされることはなく、発せられた言葉は深くパウリの心に響いた。
「は……あ」
しかしパウリの口からこぼれた声は間抜けなもので、シモンはこらえきれなかったのか、ぷはっと吹き出した。
「おなじ「はあ」でも、何通りも言い方があるのだな」
笑いながら歩みを進めるシモンに続きながら、パウリは彼の背中を見つめる。
なぜかシモンに負けた気がした。
でも気分は悪くない。
――おまえを信頼しているぞ。
耳にまだ残っている。
「王子、俺はあんたにも忠誠を誓う」
パウリがこう言ったとたん、
「――許す」
シモンが再び顔だけで振り向いた。
「しかしそれはもっと後に取っておいたほうがよかったと思うぞ?今さら覆せないがな」
ニヤと悪い笑みが浮かぶ。
「なんだそれ。まさかあんた、信頼するふりしてただけとか?」
「それは本心だ。なんだ、嬉しくてついわたしに忠誠を誓ったのか?」
揶揄する声音がパウリの神経を逆なでする。
コマリの前では無害な男のような顔をしているが、この王子はまったく一筋縄ではいかない。
「王子ってほんっと食えないよな」
「おまえは存外可愛いぞ」
その減らず口、縫い付けてやろうか。
ぐと拳を握るパウリだったが、すぐに可笑しくなって笑みが浮かんだ。腹立たしいときがあるのになぜか憎めないのだ。
パウリはコマリの護衛が任務だけれど、シモンはときおり仕事を手伝わせるようになった。
補佐のテディだけでは正直手が足りないと、以前から信頼を置くオロフや魔法使いたちの三人にも、仕事を任せたりしていたようだ。
腹心が増えたとシモンに喜ばれ、パウリは何とも言い表せない気がしたものだ。
スミトはコマリを人たらしというが、さすがシモンは彼女の愛魂相手だと感じる。
パウリから見た二人はとてもよく似ていた。
クレメッティの罪を償うために生きることを決めた。その思いは今も変わらない。
しかしシモンとコマリの二人を守りたいという思いも、パウリには芽生え始めている。義務だとか恩義だとかではなく、単純に二人を支えたいと思うのだ。
昏い闇の底から自分を引き上げてくれた二人を、本気で主と慕う日がこようとは。
居心地が良くて困ると、スミトやゲイリーと話していたのが随分前に思える。そのくらい毎日、これまで感じたことのない感情が生まれて心を育てていく。
嬉しいにもいろんな形の嬉しいがあると、彼はここにきて初めて知った。
(ここにいたいと思ってしまったら変わるしかない……か)
そうなのかもしれない。
パウリはシモンの背中を追い渡り廊下を進む。
高い声で囀る鳥が空を横切っていくのにつらて、パウリは外へ意識を向けた。青い空に綿を散らしたような白い雲が流れている。
風が吹き抜け肌を撫でた。夏を忘れさせる冷えた空気だった。
「まだまだ暑い気がしていたがもう秋だな」
「そう…ですね」
パウリのその返答に、シモンが一瞬振り返ったが何も言わなかった。
風に煽られて舞い上がった樹木の葉がひらりと落ちてくる。
二人はやがて建物内に消えた。
〈護衛官編 END〉