護衛官編1
夏から秋への時節送りの日が過ぎてから日差しの勢いは緩やかに、だが確実に勢いをなくしつつあった。
朝夕はめっきり涼しくなり、日中の風には秋の気配が滲む。
そんな朝のすがすがしい空気がまだ少し残る時分。
騎士団塔にある修練場にて、パウリは一通りの鍛錬を終え壁際にどっかりと腰を下ろす。噴き出た汗を綿布で拭い手で顔を扇いでいると、「お疲れ様です」と近寄る者があった。
見上げると騎士にしては細身の男が立っていた。
パウリより二歳若く、確か名前はルーヌといって、怪我をするまではコマリの護衛をしていた。その怪我はクレメッティが負わせたものだと、以前参加した彼の快気祝いの席で知った。
「ああ、あんたか。怪我はもういいのか?」
「はい、おかげさまで。今日から騎士団に復帰となりました。コマリ様の護衛に戻るのはもう少し先ですがご挨拶をと――隣、いいですか?」
「挨拶って、あんたの快気祝いの席で顔合わせしたときにされたと思ったけど」
「あのときはちゃんと話ができなかったものですから」
隣に腰を下ろすルーヌを観察するが、消えない傷跡や後遺症が残っている様子はない。視線に気づいたらしいルーヌが、腕を持ち上げて苦笑を浮かべた。
「俺、もっと体作んないといけないのに、休んでたら元にもどってしまいました。コマリ様の護衛に戻るまでにちょっとは肉をつけないといけません。パウリさんは結構いいガタイしてますよね」
「パウリでいい」
「いやでも、シモン様が直々にコマリ様の護衛にと望まれたと――」
「あー……それなぁ、王子の冗談だから。なんか周りがえらく俺のことを過大評価してて、正直困ってんだよ。どこ行っても皆畏まって寮でも避けられるし。オロフと仲のいい奴らとかは、あいつ通じて随分と誤解は解けたけど」
「誤解って……ここでオロフさんと試合形式の組手をしたとき、互角に渡り合ってたって聞きました。そんな方を呼び捨てになんてできません」
「強い奴が絶対ってか?俺、そういうの好きじゃねぇんだわ」
何も持たない貧民の子どもが虐げられ、力に屈しなければならなかった屈辱。
(ま、そのおかげで今の俺があるっちゃあるんだけどな)
いつか見返してやると心に決めて急いで大人になった。
残ったのはなんだったのか。
「ルーヌは強くなりたいのか?」
「はい、もちろんです。俺がもっと強かったら、コマリ様を危ない目に合わせることもなく、裏切り者のあの男を捕えられていたはずですから」
「裏切り者……」
クレメッティのことだと容易く予想が付いた。
「知りませんか?コマリ様をずっと付け狙っていた男です。王宮魔法使いとしてこの王宮に入り込んでいたんです。シモン様やコマリ様からの覚えもめでたく、忠実な臣としてふるまいながら、コマリ様のお命を狙っていたんですよ。あれほどコマリ様からお優しい言葉をかけていただきながら……。無礼な男でした」
ルーヌは怒りに顔つきを一変させた。
コマリだけでなく、ルーヌもまたあの事件での被害者だ。彼にとってクレメッティは憎むべき相手なのだろう。
パウリは額から流れてくる汗を綿布で拭いながら高い天井を仰いだ。
「ルーヌ、怪我は治ってんだよな?」
「え?はい」
「そ。んじゃ俺と手合せしてくれないか?」
「いいんですか!?」
顔を輝かせるルーヌに視線を向けたパウリはニと笑う。
「木刀で三本勝負な。負けたほうが飯を奢ること」
「それ、完全に俺が奢る羽目になりますよね」
「そんな弱気じゃお姫さんの護衛務まらないぞ。俺から王子にルーヌじゃ無理だって断っとくか?」
「――わかりました。受けて立ちます」
ルーヌの瞳に挑戦的な光が浮かんだ。見かけによらず負けず嫌いなようだ。
「そうこなくっちゃな」
二人して立ち上がり修練場中央に設けられた格闘用の石台に向かう。
周りは二人の様子から手合せが始まると知ったのか、手を休めてギャラリーに転じた。
剣に見立てた木刀を互いに手にして向かい合う。
「俺、剣術はあまり得意じゃないんだ」
木刀を握り軽く振りながらパウリが言うと、ルーヌは信じないというように肩を竦めた。
「負けた時のための言い訳ですか?」
「いや、ハンデの話」
「俺にハンデをくれるってわけですね。――では遠慮なくっ」
「いや、俺にハンデをくれって話……っおわっ」
剣を構えていたはずのルーヌが気合とともに切り込んできた。カァンと乾いた音をたてて、木刀同士がぶつかり合う。
間髪おかずに木の剣を繰り出すルーヌは、きっと剣術を習っていたのだろう。力任せに押してくることはなく、無駄のない流れるような剣さばきでパウリの動きを封じる。
(こいつも速さ勝負か。てか、俺より速い?)
しかも少しでも出遅れると、迷わず急所を狙ってくるから気を抜けない。
ただ細身な分、ルーヌの剣には重みがなかった。先ほど体を作らなければならないと言っていたのは、己の弱点をわかっていたためだろう。
とはいえ確かに腕はいい。
コマリの護衛官に選ばれることはあると、パウリはルーヌの認識を改めた。
本気を出さないとやられる。
パウリは手にした木刀のグリップを握り直し、気迫のこもった瞳でルーヌを見据えた。
* * *
「失礼シマシタ」
棒読みで形ばかりの言葉を述べ、騎士団の隊長室を後にしたパウリは、閉じた扉の前ではぁと脱力した。
修練場でルーヌとした三本勝負は、結局勝敗が付かなかった。
一本目はパウリの勝利となり続けて行った二本目。
剣を構えたところでルーヌがいきなり目を回したからだ。
パウリ自らが、他の騎士たちと協力してルーヌを医薬師塔へ運んだ。
そこで医師から聞いたのだが、どうやらルーヌは騎士団復帰はもう少し先にと言われたのに、頑なに戻ると言い張ったのだそうだ。
そのため彼の担当医師は、ならば徐々に体を慣らすようにと念を押して、復帰を許可したらしい。
そんな病み上がりの状態でああも激しく動き回れば、それは体が驚いてぶっ倒れもしようか。
今日一日安静にしていれば、夜にも騎士団塔に戻れるということで皆で安堵したのだが、騎士団塔に戻ってすぐにパウリは上官に呼び出された。
上官は何人もいるが、呼び出しをかけた相手は、シモンの近衛騎士団の団長だった。
コマリの護衛であるパウリはもちろんシモンの近衛騎士団の一員で、そのため呼び出しをかけた団長は彼の直属の上官にあたる。
オロフによれば団長は普段、騎士団員たちの自主性を重んじ、あまり騎士同士の問題に口を出さないらしい。
入団したての若い騎士にまで目をかけるよき指導者で、そのせいか団員たちから慕われているそうだ。
ただし健康な肉体を維持することが騎士の務めという信念を、自身だけでなく団員にも求めるようで、サボりや逆にオーバーワークにはうるさいということだった。
そんなわけでパウリは呼び出しに嫌な予感を覚えた。
出向いてみれば案の定、団長は怒り顔でパウリを迎えた。ルーヌが慣らし復帰と知らなかったとはといえ、病み上がりの人間に対する配慮が足りないと叱責された。
自身の体を労わらないルーヌも明日呼び出すということだったから、同じように小言を言われるのだろう。
組織に入るとこういうしがらみが生じるのが面倒だと思う。けれどここで生きることを選んだのだから仕方がない。
大きく息を吸い込んだパウリは頭を切り替える。
今日のコマリの護衛任務は昼からだ。
まだ少し時間があるかと、鍛錬後そのままだった汗を流して食堂にむかう。
朝夕の二度の食事と昼に軽食を取るのが普通の人間の日常だが、騎士たちは昼もがっつり食べることが多い。
騎士の普段の仕事は、執政塔で行われる重要な会議の出席者やその会議自体の警護だ。
他には、王族の誰かが出かけるとなると、もともといる護衛官だけでは足りず駆り出されるし、視察ともなれば大人数が警護として同行する。
ときに体を張って対象者を守るため騎士団員は鍛錬は怠れず、食べなければ体がもたないのだ。
特にパウリは未来の王妃となるコマリの護衛官となるので、体力作りはもちろんのこと、鍛錬も手を抜くことは許されなかった。
ぐるると鳴る腹をたっぷりな焼き肉で満たすと、王族塔へ向かうのにちょうどよい頃合いになった。
腹ごなしもかねてパウリは王族塔までのんびり歩き、顔見知りになった衛兵たちに軽口をたたいて、王太子たちの暮らす区画へ辿り着く。
だがおかしなことに扉の前にいるはずのオロフがいない。
(れ?今日あいつが朝からお姫さんの護衛だよな?)
もしや室内にいるのかとノックをしたが何の反応もなかった。
変だな、と扉を開けて部屋に入ったパウリは、がらんとした室内に首を傾げた。
そこへ庭から、か細い声が聞こえてきた。
「…れか……すけて」
反射的に腰の剣に手をかけて、庭に飛び出したパウリだ。
眼光鋭く敵を探したはずが、数秒遅れで気の抜けた声が出た。
「――はぁ?あんたそんなところで何やってんだ」
建物の外壁、それも結構高い位置にドリスが張り付いていたのだ。壁のでっぱりにつま先で立ち、明かり取り用の窓枠に必死にしがみついている。
下に雑巾が落ちていることから、窓を拭くため壁によじ登ったとも考えられるが、普通なら梯子なりで足場を確保するはずだ。
どうして壁にしがみつくことになったのか。
「げ、パウリ。なんでよりにもよってこいつが……」
「見捨ててやろうか」
「あんたに助けられるくらいなら怪我を覚悟する――っや、ちょっと何そのポーズ」
「梯子を持ってくる時間はなさそうだし、俺が受け止めるのが手っ取り早いだろ。部屋にある高そうな椅子を積み重ねてもいいけど……」
「だめよっ、あんたのひと月分の給金でだって買えない代物よ。わたしにコマリ様のお使いになる物を踏みつけさせる気なら、あんたの頭を叩き割ってやるからっ」
「っていうと思ったから受け止めるって言ってんだ。ほら、さっさと来い。それともそんな情けない姿を、あんたの大好きなお姫さんに見せたいか?それに怪我をしたら、しばらくお姫さんに会えなくなるぞ」
腕を広げて見上げるパウリは、ドリスが最後の言葉にはっとした表情になったのを見た。
「ちゃんと受け止めてよ」
よほどコマリに会えなくなるのは嫌なようだ。呆れる思いでパウリは来いと促す。
ドリスが壁を蹴った。
彼女が小柄ゆえか思ったほど衝撃はなく、パウリは一歩後ろへよろめきつつも倒れることはなかった。
ドリスを地面に立たせたパウリは素早く身を引く。
何しろ彼女に下手なことをすれば強烈な蹴りが飛んでくるらしい。
庭園パーティ以来親しくなった王宮魔法使いのケビから、ドリスの得意技は回し蹴りと聞いていた。彼女の蹴りを受けたことがあるケビは、壁まで吹っ飛んだそうだ。
嘘か真か、王宮で働く侍女の中には主を守るため、武術を嗜んでいる者もいるという。その話が本当ならドリスはそのような戦える侍女かもしれない。
パタパタとメイド服の汚れをはたいていたドリスがやっと顔を上げた。
ばつの悪そうな顔で小さく言う。
「……助かったわ」
感謝の言葉に耳を疑ったパウリだが、それを告げればまたいつものように、毒を吐かれるに違いない。
「なんで壁に登ったんだ?」
「コマリ様がお部屋にいらっしゃらない間にと思って掃除をしていたのよ。窓も拭いてしまおうって思って」
壁登りを否定しないということは、パウリが想像した通りよじ登ったということだろう。
「梯子を使えよ」
「子どものころ木登りは得意だったから、足場もあるし壁でも大丈夫かって気がしたの。登るのは平気だったけど、いざ降りようとしたら思った以上に高くて……」
「もしかして高いところが苦手なのか?」
「今日までこの身長で生きてきてるのよ。子どもの頃も高い木に登って、降りられなくなったことを思い出したわ」
言いながらドリスは両手を持ち上げた。見れば腕が細かく震えているようだ。
「壁にしがみついていたせいで手に力が入らない」
「今日はもう仕事上がらせてもらえばどうだ。サデも戻ってきたんだし」
「スサンが地元から友達が遊びに来てるからしばらく休みなの。わたしまで休めばコマリ様が不自由なさるわ」
ということは、ドリスの暴走を止める者がいないということか。
話を聞きながらパウリは壁際に歩んで、落ちていた雑巾を拾い上げた。
「お姫さんって基本一人でなんでもするだろ。今日は俺が夜まで護衛につくし、手が足りないなら茶ぐらい運ぶ」
「あんたがわたしに優しいなんて気持ち悪い」
「それはいつもあんたが俺を威嚇してくるからだろ。俺なんかしたか?まじで心当たりがないんだけど」
拾った雑巾を差し出せばドリスは無言で受け取った。
そのまま数十秒も沈黙が続く。
何か言ってくれと、パウリが居心地を悪く思ったところでやっと声がした。
「ねぇ、好きな人いるの?」
こっちの質問は流されてしまったようだ。
そして脈絡なく好きな人はと聞かれたもんだ。
「あぁ?いねぇよ」
まさかドリスが自分のことを好きということはあるまい。
これまで彼女から伝わって来たのは敵意のみだった。
「嘘言わないでよ」
「言ってない」
「じゃあ気になる人は?」
「いないって言ってる。俺はそういうの、いいんだよ」
「いいってどういうことよ?」
「言葉のままだ。惚れただなんだって面倒くさい」
「なにそれ、好きな人の一人や二人、あんたいままでいなかったの?」
やけに突っかかってくるドリスにパウリは苛立ちを覚えた。
質問ばかりなくせに、本当に尋ねたいことはぼかされている気がしたからだ。
「なんなんださっきから。言いたいことがあるならはっきり言え――」
「はいはい、お二人さん。そこまでにしとき」
のほほんとした声とともに、室内から現れたのはスミトだった。後ろにはゲイリーがいる。
いつの間にか部屋に入ってきていたようだ。
気配を消して近づくのはやめてくれと思いながら、パウリはドリスから顔を背けた。
「ドリスちゃん、寂しい男のプライベートをそないにグイグイ聞いたりな。それよりコマリちゃんどこ行ったん?」
「コマリ様ならテディ様のもとで講義を受けてらっしゃいます。そろそろお戻りになると思いますが」
ドリスの返答にパウリはそうだったと思い出した。
(そういや今日からだったか)
異世界人となるコマリは、こちらの世界の婚礼の仕方を知らない。
王族となれば普通の婚礼の儀式とはまた違っているだろう。
そのため婚礼の流れや作法などを、式までにみっちり勉強していくのだそうだ。しかも王妃となるための教育まで始まるらしい。
師は何人かいるようだが、筆頭がテディということで、それを知ったコマリがげんなりした顔をしていたのは、ほんの数日前であった。
「勉強ってここでしてんと違うんや?」
「書庫にいらっしゃいます」
「前にカッレラのこと勉強するときに使ってた?テディ君のことやからまたスパルタやねんで、きっと。こりゃ陣中見舞いに行ったらなあかんわ」
「はい」
「じゃゲイリー行こか。パウリ君も護衛任務があるやろ。一緒においで」
にこやかなスミトについて廊下に出たパウリは、はぁと溜息をついた。
「スミト、止めてくれて助かった」
でなければ今日まで理不尽に苛められていたストレスも相まって、言い過ぎていたかもしれない。
スミトはチラとパウリに視線を向けて歩き出すと、やれやれといった様子になった。
「パウリ君、きみなー。もうちょいうまく立ち回らんかいな。なにまっこうから受けてたっとんねや」
「ドリスを避けてるとお姫さんが気にするし、いい機会だから俺を目の敵にする理由を聞いてみたんだよ。そしたらわけのわからない質問をしてきて……下手に誤魔化して何度も同じこと聞かれるのもウザイし、だったら正直なこと言っとくほうがいいかってな」
それがどうして言い合いになってしまったのか。
「じゃあさっきのあれ、本気で言うとったんかいな」
「さっき?――おい、あんたたちどこから聞いてたんだ?」
質問をしているのに、スミトではなくその向こうのゲイリーが口を開いた。
「こいつは自分のことに関しては鈍感だぞ。言うだけ無駄だ」
「鈍感っちゅうか、知らんだけちゃう?」
「かもな」
いつ見ても変化の乏しいゲイリーの顔は、今も無表情といえるくらい変化がない。
コマリにだけは笑顔の安売りをして、必要以上にかまっているようなのだが、そんなときなぜか自分に絡んでくることがあった。
「おい、無視すんな。二人して何の話だ」
「なにって、パウリ君がお子ちゃまやっちゅう話やん」
「誰が子どもだって?」
聞き捨てならない台詞に反応したパウリをスミトはまたしても無視した。
「こら、こっち向けよ」
「そういやゲイリーかて自分の欲求満たすんが先なタイプやったな」
「は?いきなりなんだ」
ゲイリーが眉を上げる。
「だから無視すんな!!あんたら俺の話を聞いてんのかっ」
注意を引くようにパウリが声を上げても無駄だった。
「見た目イケてたら誰でもええみたいなな?おまえ、パウリ君と同じで鈍感になってへんか」
「ならとっくにスサンとしている」
「あ、そうか。スサンちゃん……あの子もなぁ、ゲイリーみたいなん、やめときゃええのに」
瞬間、ゲイリーがスミトに向かって手刀を繰り出し、気配を察したスミトは素早く避けた。
「なにすんねんっ」
「いまの発言は悪意を感じた」
時々思うがこの二人、仲がいいのか悪いのか。
息はぴったりなのだが。
自分の質問に答えてくれないと分かったパウリは、あきらめて二人の会話に割って入る。
「なんだ、ゲイリーってやっぱり態とスサンの前で無反応を装ってたのか」
頬を染めたスサンが幾度となくゲイリーに話しかけるのを見ている。
そのどれもゲイリーは淡々と返事をしているだけで、いったいスサンをどうするつもりかと思っていた。
「人のことには聡いくせに」
あきれた様子でゲイリーがぼそりと言うのがわかった。しかしパウリにはよく聞こえない。
「なんだって?」
尋ねても返事はなかった。
ゲイリーは人と群れるタイプではなく独自の空気をもっている男だ。
最初こそ面食らったけれど、いまではパウリもこういう態度に慣れてしまった。
スミトもとっくに会話は切り上げているのか、通り過ぎる窓の外を眺めているようだ。
ゲイリーが目立っているから見逃しがちだが、この男もまた我が道を行くところがある。
息を吸ったパウリは溜息をつきかけ、そこでハッと気がついてこらえた。
コマリに注意されてから、なるだけ溜息をつかないように気を付けるようになった。
周りに良い印象を与えない行為だし、主であるコマリの評判も落としかねない。
パウリはゆっくり息を吐きながら、これは深呼吸だと自分に言い聞かせた。
パウリたちが向かった先、書庫の前にもオロフの姿はなった。中にいるのかと三人は顔を見合わせ、スミトが扉を控えめにノックするとすぐに扉が開いた。
先ごろ仕事に復帰したサデが顔をのぞかせ、やぁと手を上げるスミトを見て笑顔になった。
サデは王宮魔法使のヴィゴの彼女だ。クレメッティによって大怪我を負わされた彼を、献身的に看病していたし、いまもリハビリを支えている。
優しげな面差しのサデはパウリにも笑いかけてきた。
ヴィゴの同期であるペッテルとケビが、彼の見舞いに医薬師塔に行くと知って、意図的に同行したパウリはそのときにサデとも知り合っていた。
コマリに様子を伝えるためだと適当な理由をつけて、その後も何度かペッテルたちと一緒に見舞いに行くうち、ヴィゴだけでなくサデとも話をするようになったのだ。
「コマリ様はもうしばらくテディ様の講義を受けるようです」
三人を室内に招き入れながら、サデは小声でこう言って奥を振り返った。
部屋中が本にあふれた部屋の中央で、四角いテーブルについていたのはコマリだった。向かいにはテディが椅子に腰かけ、板に貼った紙を細い棒で差し示している。
エーヴァはテディの助手なのか彼の指示で次に貼る紙を広げている最中で、護衛のはずのオロフも書棚から重そうな本を引っ張りだしている。
いったいどんなことを教えられているのかと気になってパウリが聞き耳を立てれば、婚礼儀式の流れについて学んでいるようだ。
図解で説明などどれほど複雑なのか。
うげぇ、とパウリが思ったところで机に向かっていたコマリが、人の気配を感じたように振り返った。
「スミトさん、ゲイリーさん、パウリ」
ぱぁとコマリの顔に笑顔が広がって、その顔のままテディへ向き直る。
「テディ、少し休憩にしよ」
「今日のノルマは達成できていませんが?」
テディが差し棒を振ってぴしぴしと何度も手のひらで受ける。
サボろうとしてもそうはいかないと言外に匂わせているため、コマリは一瞬ひるんだ様子を見せたが、すぐに負けじと言い返した。
「集中力って何時間も続かないのよ。詰め込みすぎはよくないわ」
「わかりました。休憩としましょうか。言っておきますがこのまま今日の講義をうやむやにしようとしても無駄ですよ。スミトとゲイリーに協力を願って、頃合いを見て邪魔しにくるよう頼んでいたのでしょう?」
後ろから見ていたパウリからも、コマリがギクと肩を震わせたのがわかった。
「なんや、お見通しかいな」
「だからテディにはつまらない小細工は通用しないと言っただろう」
スミトが苦く笑い、ゲイリーがそれ見たことかというような顔になる。
振り返ってシーと二人に指を立てているコマリであったが、テディの「さて」との声にびくついて前を向くと、行儀よく両手を膝についた。
「細かなところはまた後日、順にお教えいたしますので、今日は流れをしっかり覚えてください。最後に確認しますよ」
「試験するの?」
「はい」
「合格できなかったら?」
「できるまで何度でも試験をいたしましょうか」
ぴし、とまたも差し棒を振ったテディがにっこりと笑う。
「そんな……んと、テディ?シモンの仕事の補佐はいいの?忙しいテディに長い間、時間を割いてもらうのは心苦しいし――」
「ご配慮いただきありがとうございます。しかしご心配には及びません。わたしはやるべきことはその日のうちにすべて片付けております。それからシモン様にはお目通しいただく書類を山と積み上げてきましたから、今頃は机に張り付いていらっしゃることでしょう」
「××」
コマリが呟いた言葉はパウリにはわからなかった。
スミトがブフッと吹き出したので、おそらく異世界の言葉なのだろう。
そんなスミトの様子をチラと見たテディが、ふむと顎に手をやって考える仕草をする。
「コマリ様、いまわたしにむかって何とおっしゃられたのでしょうか?」
微笑んでいるはずが目が笑っていない。
「ひっ……いいえ、別に何も」
「そうですか? 以前も、舞踏会に向けての特訓中にわたしが課題を出したときに、何度か小声でおっしゃっていたような気がいたしますが」
テディの薄緑の瞳が細められた。
コマリは蛇に睨まれた蛙のごとく、視線を避けるように身を竦ませている。
「スミト、「オニ」とはなんだ?」
「え!?えぇ~とぉ」
ふるふると首を振っているコマリに気づいているせいで、スミトが困ったように明後日の方向へ視線を投げた。
「ゲイリー?おまえは知っているか?」
「いや、日本語はわからない」
同じ世界から来たゲイリーもわかっていないようだ。
パウリは最初信じられなかったが、コマリたちのいた異世界には複数の言語があるそうだ。
コマリとスミトは同じ言語を話す民族で、カッレラの人間に似た外見をもつゲイリーとジゼルは、また違う言語をそれぞれに話すらしい。
たった四人の間でも3つの言語があるなんて、異世界の人間は意思の疎通を図るのにも苦労するのだろう。
「こちらにない言葉はそのまま聞こえてくるのは困ったものです。――しかしコマリ様がわたしの悪口をおっしゃったということは、雰囲気でわかりましたよ。休憩は取りやめにしましょうか?」
ここまで冷ややかな笑顔があるのかというくらい、テディの笑顔は恐ろしく、そして底知れない不気味さがあった。
ううう、と言葉に窮していたコマリだが突然弾かれたように席を立った。
「こんなに詰め込まれたら頭パンクしちゃう~!」
「逃がすなっ!」
テディの鋭い声にパウリは反射的にコマリの前に立ちふさがる。
勢いよく突っ込んでくる衝撃とともに、後ろによろけたパウリは今日はよく人を受け止めると思った。
鼻孔をくすぐる甘い花のような香りに誘われ、コマリを見下ろしたパウリはギクリとする。
「痛ぁ……」
呟きながら眉を顰めているコマリの顔が近い。
パウリは細い両肩をつかんで、勢いよく彼女を引っぺがした。
「さっさと覚えるもん覚えて、試験に受かるほうがいいんじゃないか?」
「パウリの裏切り者~」
「嫌なことを後回しにして後で泣きを見るのは結局お姫さんだろうが」
「そうだけど」
「コマリ様、どこかに隠れたところでシモン様に愛魂で探していただきますから、無駄なあがきですよ」
「シモンがテディの味方につくはずがないもん」
口を尖らせ反論したコマリだが、テディは勝ち誇った様子で動じもしない。
「先日の時節送りの日にシモン様とお二人で、こっそり王宮を抜け出されたことをよもやお忘れではありませんよね?どれほど皆が心配したとお思いですか――シモン様なら快くわたしの頼みを引き受けてくださると思いますよ?」
一歩、また一歩と近づくテディを見上げるコマリが迫力に負けて後退る。
周りに助けを求めるよう視線を向けているが、誰も口出しできないようで申し訳なさそうな顔をしていた。
(時節送りの日なぁ)
パウリは脳裏によみがえった騒ぎを思い返した。